1話 こんな二人のこんな日常
「やはり、君の淹れてくれた紅茶は素晴らしいね。ソフィア」
低く透き通った甘い声で、彼女の名を口にする。
鼓膜の振動が、心までも震わせた。
美しいとしか表現できない極上の美貌を持つ彼は、紅茶から彼女に目を移し、微笑を浮かべている。
たったそれだけ。
それだけなのに、鼓動が高鳴ってしまう。
けれど、この気持ちは隠さないといけない。
彼を愛するのは、許されないことだから。
能力が違う。
外見が違う。
それに何より、立場が違い過ぎる。
だから彼女――ソフィア・ローウェルは曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
「ありがとうございます。けれど、その……毎度のことなので今更なのですが……良いのでしょうか。お仕事中に……」
「ちょっとした休憩なんて、どこの部署でも行っていることだ。問題ない」
「いや……これ、他の部署の休憩とは、少し違うような気が……」
そう……三時のブレイクタイムなんてのはどの部署だってやっている。
けど、庭先に白いテーブルを用意して、王宮御用達高級品のケーキやマフィン、マカロンを用意してのお茶会はちょっと本格的過ぎるというか、大分事情が異なるような気がする。
だが、上司がそうであると言いきってしまえば、部下であるソフィアはあまり強く言えなかった。
「構わない。私達二人だけの職場に文句を言う奴はいないさ。……そもそも、我々の仕事内容さえ誰も興味ないだろうし」
ぽつりと何か言ったような気がするが、小さな声だったからソフィアには聞き取れなかった。
「え?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
そう言って誤魔化すよう、銀の瞳輝く微笑を浮かべる。
その瞳は、恐ろしいとさえ感じるほどに美しい。
けれど、それをソフィアが口にすることはない。
彼自身がそれを嫌っていると、ソフィアは既に知っているからだ。
彼――ヴィンセント・フォン・グレイスはすべてにおいて恵まれ生まれた。
少なくとも、彼女にとってはそう見えている。
特にその容姿は、絶世と表現するに足るものだろう。
艶やかな黒い髪にツートンカラーのアッシュグレーは彼の陰ある美貌を引き立てている。
巷ではアンニュイな表情で佇むだけで女性が倒れたとかなんとか。
その憂鬱さこそが、彼を引き立てる最大のスパイスであると言うが、正直、ソフィアとしてはその定説は違うと反論したい。
彼の美しさは笑みにこそ宿ると思っているからだ。
男性としては非常に細身で、手足はすらっと長い。
だからだろうか……。ただの手足なのに、深い色気が感じられる。
くるぶしや手首などがエロいと良く噂を聞く。
こっちは……正直ちょっとだけソフィアも理解出来る。
鎖骨なんて見ようものなら、ドキドキと恥ずかしさで頬が紅潮してしまう。
つまるところ、ヴィンセントという男は、もし女性に生まれていたなら傾国となったであろう、そういう類の魔性の美しさを秘めた存在ということである。
いや、男性のままでも十分傾国と呼んで良いかもしれない。
そんな彼の中でも特に美しい部位こそ……吸い込まれるような、銀の瞳。
どんな宝石も陳腐に見えてしまうそれは――王と同じもの。
王の血族である証。
グレイス家というのは、遠いながらも王家と血縁関係にある名門伯爵家の一門であり、ヴィンセントはその血が他より少しだけ強く発現していた。
「……今日の茶葉は、気に入らなかっただろうか?」
ヴィンセントが不安そうに尋ねると、ソフィアはぶんぶんと必死に首を横に振った。
「いいえ! そもそも私飲めたら白湯だってご馳走なんで!」
「……そうか? 砂糖もハチミツもある。苦いようなら、恥ずかしがらずに言って欲しい」
そう、遠慮いらないというような態度を取られるソフィアだが、実際のところ本当に好みはない。
貧乏男爵令嬢であるソフィアに好き嫌いなどという贅沢を言う余裕はなく、食べられるなら何でもご馳走である。
むしろ、茶葉が良すぎてつい『これ一杯で何食分の食費がかかっているんだろう』なんて考え胃が重くなってしまうくらいだった。
「ちなみにだが、今日のケーキは少々頑張って入手したものでな……是非、君に食べて欲しい」
そう言ってヴィンセントはケーキの乗った皿をソフィアの方に滑らせる。
小さなお皿が大きく見えるくらい可愛らしいお洒落なチョコとベリーのレアチーズケーキ。
それを見て、ソフィアの目はくわっと大きく見開かれた。
「まさかこれ……"アールテール"の!?」
「はは、流石の慧眼。その通りさ。偶然手に入ってね」
そう、したり顔で満足そうにヴィンセントは答えた。
王都でアールテールという名の店を知らない者がいれば、それはモグリだろう。
王家御用達であると同時に、限定ニ十個というあまりにも絶望的過ぎる限定生産の店。
値段もさることながら、その需要と供給の格差によって王さえも偶にしか手に入らない。
奥域の深い甘美な甘さは基本に忠実。
されど、宮廷料理人さえもが再現することが叶わない。
その味は名だたる美食家が、一口で涙を流したとさえされている。
そんな極上のスイーツ。
ゆえに貴族令嬢たちが欲するのは当然であり、それどころか、平民だっていつか食べてやろうなんて虎視眈々と《《ねつらって》》いるような、そんなすべての女性の憧れ。
その憧れが、今目の前にあった。
「……い、良いんですか?」
声が上ずって、少しだけ恥ずかしかった。
「もちろん、君のために用意したのだから」
その言葉で、ソフィアは心臓が貫かれるような気持ちに襲われた。
アールテールのケーキを用意して、君のためなんて言葉は軽々しく言って良いものではない。
状況が状況なら口説き言葉と取られても決しておかしくないだろう。
ソフィア的には、君のためなら死ねるにさえ匹敵するとさえ思っている。
だからこそ、勘違いをしたらいけない。
容姿端麗頭脳明晰かつ王と血の繋がる名門伯爵家跡取りの彼が、木っ端男爵令嬢を口説く理由なんてない。
百歩譲って彼が女遊びの激しいタイプならその可能性もあるが、既にソフィアは彼が誠実でそんなことしないと理解している。
だから、ちょっとだけ残念だった。
ヴィンセントが遊び人だったら、自分のような存在でも彼と触れ合うことは出来ただろうと考えてしまって。
「もしかして、今日はあまり体調が良くなかったか? 無理に誘ってしまったのなら……」
恐る恐る尋ねるヴィンセント。
曇った表情で顔を近づけられただけで、心臓は激しく脈動し頬が痛いと感じるほど熱くなる。
それが自分でわかるから、誤魔化すよう顔を反らした。
ヴィンセントはアンニュイな表情が素敵派閥ではなく、ヴィンセント様笑顔最高派閥のソフィアでさえ、その顔はもはや兵器としか言いようがない。
「い、いえ! ちょっとケーキの刺激が強すぎて意識がトリップしてました!」
曇った表情が、微笑に戻った。
「ははっ、そうか。そんなに喜んでもらえるなら私としても本望だ。さ、どうぞ」
ソフィアはがちがちになりながら頷き、恐る恐るフォークでケーキを切り取る。
本当に、食べて良いのだろうか。
なんかもう、フォークに刺した一かけらが金色に輝いているようにさえ見えた。
震えそうな手を必死に制御しながら、思いきってぱくり。
そして……。
「本当に美味しい……」
ぽつりと、言葉が漏れる。
色々考えていた言葉はすべて消えた。
狼狽えとか、緊張とか、そういうすべてが消える。
激しい感動があるわけではない。
美味しいという言葉が、すとんと胸に収まったような、そんな感じ。
外見は豪勢なのに、マイナスの美学だろうか。
奇をてらったわけでもないし、特別なようにも感じない。
だからこそ、"純粋"に美味しかった。
「君のその顔が見れただけで甲斐はあったよ。また次も手に入ったら声をかけようか」
微笑を浮かべるヴィンセントを見て、かーっとソフィアは頬が赤くなる。
「わ、私ってばお礼も言わずに子供っぽいことを。ごめんなさい!」
「構わない。楽しんでくれることが持て成す者の最大の報酬だ」
そう言って、満足気にヴィンセントは紅茶のカップを傾ける。
本当に嬉しそうだったから、恥ずかしさが余計に増してくる。
そして直後、はっと気づいた。
ケーキは、一つしかないと。
「あ、あの! もしかして、私の分だけじゃ……」
カップを傾け紅茶を味わっていたヴィンセントは、そんなことかと苦笑してみせた。
「気にしなくて良い。君のために用意したものだ」
確かに、普段からヴィンセントはあまり甘いものを食べない。
強いて言えばソフィアが作ってきたアップルパイなどは食べてくれるが、それはまあ付き合いだからだろう。
それでもアールテールは流石に別だ。
それを用意したのに食べないというのはあまりにも非道が過ぎる。
じゃあどうしたら良いんだろう……。
なんて悩みながらも手は勝手に食べ進め、気づけばケーキは最後の一口に。
オタオタと慌て、混乱するソフィア。
そんな普段らしからぬ面白い態度のソフィアを、ヴィンセントは楽し気に見つめていた。
そして混乱は極致に達して――。
「あ、あのっ!」
「うん?」
「さ、最後の一口ですが……どうぞ!」
そう言って、ソフィアはヴィンセントの口元までフォークを持ってきた。
よほど混乱したのだろう。
自分がどれだけ大胆なことをしているのか気づいていない様子だった。
ヴィンセントも一瞬だけ目を丸くし驚くが、すぐ穏やかな微笑に戻る。
そしてそっとソフィアの手を握り……フォークを取って、ソフィアの口元に向けた。
「はいあーん」
「あーん。……あっ。た、食べちゃったじゃないですか!」
ちょっと泣きそうな顔で幸福を味わうソフィアを、ヴィンセントは嬉しそうに見つめていた。
王宮の隅にある、小さな庭園で。
たった二人だけの、贅沢な時間。
それは、彼らの許される最大限の至福の時間であった。
今度はもっと礼節を"弁えないと"と恥ずかしがるソフィアと、もっと彼女が喜ぶ茶菓子を用意しようと奮起を新たにするヴィンセント。
それぞれ反省と改善点を持って静かにお茶会は終わりを迎え、二人は日常である仕事に戻る。
王宮の端にある小さくも美しい庭園の傍にある、せせこましい倉庫のような建物。
その奥にある部屋には、『禁書管理室』と記されてあった。
「それでヴィンセント様。次、私はどうすれば良いでしょうか?」
部下であるソフィアの質問に、ヴィンセントは少し考える。
「そう……だな。なら禁術の"近代軽範囲"の確認を頼む。確か数日前に増えてそこそこ溜まっていたよな?」
「そうですね。現在十三冊ほどになります」
「なら、頼んでも良いか?」
「お任せください」
「相変わらず頼もしいな」
そう言って、ヴィンセントは微笑を浮かべドアを開く。
そこは、本の世界だった。
壁という壁は本棚となり、あらゆるデスクに本が数十冊平積みされ山となっている。
その奥にある、最も高い山のデスクにヴィンセントは座り、いつものように上から本を取り開く。
その様子を見て表情を少しだけ曇らせながら、ソフィアは隣の書物庫に移動した。
「……やっぱり私、まだ頼りないんだなぁ」
彼の仕事量の、百分の一もこなせなかった。
もっと頼ってほしい。
もっと役に立ちたい。
そう思うものの、彼の判断が間違っているとも思えない。
若き天才としてたった一人でこの禁書管理室を維持してきた彼がそう判断したなら、それはもう答えに等しい。
つまるところ、任されるだけの技量がないということ。
だからもっと頑張らないと。
そう決意を新たに、書物庫に眠る十三冊を持って……思ったよりも重たかったから、半分だけにして往復し、禁書管理室にある自分のデスクに移した。




