第6話「ヴァルトニアの名」
第6話「ヴァルトニアの名」
KR251年前半。北部防衛線での激闘から数週間。
私とパーティーの仲間たちは、補給と次の巡回のために、エルディナ北部のとある宿場町を訪れていました。
「ねえ、見た? さっきの女の子」
「ああ、あの『グランド・ブレス』の……。噂じゃ、ヴァルトニアの娘なんだって」
「あの黒雷の……? 道理で、普通の冒険者とは格が違うわけだ」
町を歩いていると、あちこちからささやき声が聞こえてきます。
以前は「元気な女の子の冒険者」として見られていたけれど、最近はそこに「ヴァルトニア」という、重たくて少し怖い響きの名前がついて回るようになりました。
「……なんか、有名になっちゃったね」
ナツキが肩をすくめて笑います。レナさんは豪快に笑いながら私の肩を叩きました。
「いいじゃないか。あんたの実力が、ようやく名前に追いついてきたってことだよ」
その時、広場の片隅に座っていた一人の老人が、私をじっと見つめているのに気づきました。その眼差しは好奇心ではなく、何かを確認するような、深く静かなものでした。
「……そこの娘。ちょっと、いいか」
呼び止められて立ち止まると、老人はゆっくりと立ち上がり、私の杖――お父さんの紋様が刻まれたそれを見つめました。
「250年前……大陸を魔王の影が覆った時、初代ヴァルトニアがこの地を救ったという伝説がある。我らエルディナの民にとって、その名は『守護』と『畏怖』の象徴だ。……お前は、その恐ろしくも気高い名を、継ぐつもりか」
真っ直ぐな問いかけに、私は一瞬言葉に詰まりました。
継ぐ。
ヴァルトニアという名前。お父さんが、あのお屋敷で一人、250年もの長い時間をかけて作り上げてきた名前。
「……継ぐ、というより……」
私は、自分の胸に手を当てました。そこには、セリスさんから貰った髪飾りが揺れています。
「私は、ただのおとうさんの子供です。だから、おとうさんの名前を汚さないように、おとうさんの子として恥ずかしくないように、目の前の人を助けたい。……そう思っています」
老人は私の目を見て、しばらく沈黙しました。やがて、その顔に深い皺が寄り、穏やかな笑みが浮かびました。
「……いい答えだ。名前とは、背負うものではなく、その生き方が後からついてくるものかもしれんな」
老人に別れを告げて再び歩き出した時、私はふと考えました。
ヴァルトニアという名前は、お父さんのもの。セリスさんのもの。
もし私が、いつか誰かを導くような、一人前の「守り手」になったとしたら。
「……いつかは、自分の名前が欲しいな」
小さく呟いた言葉は、春の風に溶けて消えました。
でも、その想いは、確かに私の心の中に小さな種のように根を張ったのでした。
ヴァルトニアの館、執務室。
夜の帳が下り、セバスが静かに淹れた茶の香りが部屋に満ちている。
俺の手元には、ヴィーナから届いたばかりの手紙があった。
そこには、北部防衛の成功、ゼオ・ハルバートとの関係の変化、そして――最後にこう記されていた。
『おとうさん、私、いつかは自分の名前が欲しいな、とも思うんです。おとうさんの娘であることは誇らしいけれど、私だけの力で、私だけの名前で、誰かを守れるようになりたいから。』
俺は、その一文を見つめたまま、長い沈黙に沈んだ。
「……自分の名前、か」
隣で控えていたセバスが、穏やかに、しかし感慨深げに目を細めた。
「お嬢様は、立派に育たれましたね。閣下の背中を追うばかりだったあの子が、自らの足で立つための『旗』を求め始めるとは」
俺は返事をしなかった。
ただ、少しだけ指先に力を込め、紙の感触を確かめる。
この子がいつか俺の元を去り、自分の家を、自分の歴史を刻む日が来ることは分かっていた。だが、それがこんなにも早く訪れようとしていることに、胸の奥がわずかに、奇妙な熱を帯びる。
俺は手紙をゆっくりと、端を合わせ、丁寧に、丁寧に折り畳んだ。
そして、誰にも見られないように、懐の奥へと仕舞い込む。
「……ああ、そうだな、セバス」
俺は窓の外、ヴィーナが戦っている北の空を見据えた。
「それが……お前の次の旗だ、ヴィーナ」
ヴァルトニアという呪縛ではなく、お前自身の魂が選ぶ名前。
それを手にする時こそ、お前が真にこの大陸を照らす「光」となる時なのだろう。
俺は、その日が来るのを、退屈な250年の歴史よりもずっと、強く待ち望んでいる自分に気づいていた。
「閣下、奥様がお呼びです。ヴィーナ様の活躍を肴に、今夜は少し強い酒を開けたいと」
「……わかった。すぐに行く」
椅子から立ち上がった俺の足取りは、いつになく軽かった。




