その1
急に暖かくなった。
開花は来週だと天気予報では言っていたのに、家の前の公園の桜は、もう7分咲きだ。ちょっと風が強い。薄いピンクの花びらが陽炎のように揺れる様子に、美紗緒はしばし足を止めて見とれていた。
花びらの残像が目の中に染み込んでくるような気がしたとき、声が聞こえた。
「青い桜を見たくない?」
空から声が降りてきたような気がして、どちらを向いたらいいのかわからず、美紗緒はぐるりと体を一回転させた。
「青い桜を見たくない?」
年のころは50歳くらいだろうか。あごのところにホクロが二つ、スーツ姿の、普通のサラリーマンにしか見えないその人は、にこりともせず、まるで職務質問でもするかのように、美紗緒に尋ねた。
「青い桜?」
いきなりそんなことを言われても、わけがわからない。ふだんなら絶対に口などきかず、そのまま無視するだけなのだが、そのときは「青い桜」という言葉の響きと、彼の無表情さに逆に心を惹かれて、思わず答えてしまった。
「見たい」
「じゃあ、おいで」
彼は、優しい目をして笑った。
* * *
色鉛筆をケースにしまうと、翔太は満足げに自分の描いた絵を両手で掲げた。
「あら、それは何の絵?」
覗きこんできたのは、翔太の母親で清流旅館女将の鈴音だった。
「セレブ戦隊サイオンジャーやで! 紗由ちゃんがイエローなんや」うれしそうな翔太。
「なかなか、いいじゃない。このリボンとフリルと帽子の感じが、セレブっぽいわ」
「気に入ってくれるやろか」翔太が少し不安げに見上げる。
「きっと気に入ってくれるわ。じゃあ、これも一緒に玲香宛の荷物に入れるわね」
「うん!」
自称“清流旅館七代目当主”、この春に小学校に上がった高橋翔太は、西園寺賢児に、翔太考案の“仮面ライダーセイリュウ”と“旅館戦隊トマルンジャー”のデザイン画を見せる約束をしていた。賢児というのは翔太の叔母の玲香の上司だ。といっても、翔太にとっては“玲ちゃんの彼氏”という認識なのだが。
どうせ賢児にデザイン画を見せるなら、翔太が“東京のガールフレンド”と勝手に思っている、賢児の姪、紗由にも喜んでもらおうと、西園寺家にも戦隊を作ってみた。
「なあ、おかん。弦子おばちゃんに言って、龍くんと紗由ちゃんのぶんも、ハッピ作ってもらったって。龍くんが言うとった。紗由ちゃんが欲しがっとるて」
「それならもう、お願いしてあるわよ。昼間、周子さんからお電話いただいたの。おまえのあのハッピ、名前が染で入ってて、龍の刺繍も施してあるでしょ。どこの製品なのかって。だから、二人のサイズを聞いておいて、弦子叔母さんにお願いしたわ。
西園寺さんには、玲香が上等なスーツを作っていただいたようだし、お礼に何かと思ってたところだったから」どうだと言わんばかりに微笑む鈴音。
「ほんま? おおきに! あ、そや。だったら、紗由ちゃんのは、ひまわりの刺繍入れたって。黄色いおっきいの。龍くんのは、俺のと同じで龍にして。色は金色な。名前は、また歌舞伎座みたいな字で書いて」
歌舞伎座みたいな字というのは、前に東京に遊びに言ったときに寄った歌舞伎座の看板で見た勘亭流文字のことだ。翔太のハッピには「七代目翔太」と、その書体で入れてある。
「じゃあ、翔太が叔母さんに電話なさい」
「うん! 紗由ちゃん、それ着たら、かわええやろなあ」
ニコニコ顔の息子を見ながら、鈴音は心の中で“お前のほうが100倍かわいいわよ”とつぶやいた。
* * *
賢児は、飛呂之から預かってきた文書のコピーを丹念に眺めていた。
「この5つの中に、文書を狙われるような意味が込められているのかなあ…」誰にともなくつぶやく賢児。
そこへ玲香がコーヒーを運んできた。賢児の好きなモカとブルマンをブレンドしたコーヒーの香りが部屋に広がる。
「賢児さま、ここのところお休みになる時間があまりなかったのですから、ゆっくりなさってください。うちのほうは心配するほどのことでもないのかもしれませんし」
「俺が玲香の実家を心配するのは当たり前だ」少し面白くなさそうに言う賢児。
「…ありがとうございます」玲香が少し頬を染めながら、うつむき加減でコーヒーにミルクを注ぐ。
「狙われたのが文書なら、まだいい…まあ、よくはないけど、でも、翔太はまだ子供だし、彼がターゲットになったりしたら大変だからな。こういうことは、なるべく注意しておくほうがいいよ」賢児がコピーを天にかざす。
「はい」
「この文書のことは、羽童みたいに宿の宣伝には使ってないの?」
羽童というのは、玲香の実家清流旅館の当主に伝わる、羽を持った子供の木像で、旅館を守るものだ。
現在の所有者は玲香の父の飛呂之で、今、賢児が見ている「文書」とともに、通称“命さま”と呼ばれる巫女の修行場所「巫女寄せ宿」の証とも言える二品なのだ。
玲香の祖父の代で巫女寄せ宿自体は廃業しているが、玲香の甥の翔太は、羽童と一緒にいると、他人の特殊能力加減や、その時の心理状態が把握できる。
賢児の家、西園寺家は巫女を輩出する家系で、以前巫女をしていた賢児の伯母の行方がわからなくなってから、もうすぐ4歳になる賢児の姪、紗由に不思議な力が現れ、周囲は元巫女の伯母の失踪と関係があるのではと心配し、彼女の行方を追っていた。
偶然、賢児の元で秘書として働き出した玲香が、巫女にゆかりの巫女寄せ宿の娘であることがわかり、玲香は賢児と一緒に彼の伯母の失踪の真相を探っていた。
そちらの一件は、伯母が戻ってきて事の次第が明らかになり、一応の決着を見たが、賢児としては、玲香の実家で起きている一連の不審な出来事については、気がかりなままだった。
「はい。…父が言うには、文書は、羽童と違って、宝探しイベントのようなものと絡ませないと旅館のお土産等には商品化しづらいので、外に出してません。何か、不謹慎なんですけど」少し恥ずかしそうに言う玲香。
「羽童のほうは、スピリチュアルマニアや、オカルトマニアが狙ってたりするんだよな」
「そうですね。たまに庭の灯篭に飾ってある影童が狙われます。不思議と宿の誰かが現場を見つけるので、未遂で終わってますが」
清流の庭には、本物の羽童を盗難から防ぐための目くらましとして、8体の偽物の羽童を置いてある。翔太はそれらも影童様と呼んで大切にしていた。
「そうだよな。普通、羽童を狙うとしたら灯篭の人形だよな。仏壇や文箱をピンポイント狙いというのは、庭にあるのが偽物だとわかっているから、別の場所を狙ったわけだろ」
「そうですね」
「つまり、犯人はそういったことを、ある程度わかっている人間。とりあえず、羽童が8体もない、ということくらいはわかっている。巫女寄せ宿の関係者ってことか?…」
「…やっぱり、そういうことになりますよね」玲香がため息をつく。
「やっぱりって、何か心当たりでも?」
「父は、おそらく、去年訪ねてきた縞猫荘の息子さんを疑っているんだと思います」
「ああ。あの、父親が亡くなった報告をしに、唐突に訪ねて来た人だよね?」
「はい」
縞猫荘とは、清流旅館と同じく巫女寄せ宿だった旅館のひとつだ。
当時、この2つ以外に黒亀亭、雀のお宿の2つも巫女寄せ宿を営んでいたが、黒亀亭の主人が不審死を遂げ、その後、黒亀亭の一家はその土地を離れた。
そしてやはり事件の直後、縞猫荘の人々も姿を消していた。残った雀のお宿と清流旅館は、巫女を司る機関に巫女寄せ宿のお役御免を申し出て、50年の月日が流れた。
そして、飛呂之のところに唐突に現れたのが縞猫荘の息子だった。自分の父が亡くなったことの報告と挨拶にということだったが、縞猫荘の人間が行方知れずになったとき、その息子は当時まだ2、3歳で、同じく当時8歳だった飛呂之とは実質的に交流と言えるものがあったわけでもなかった。
さらに、その少し前に清流の羽童と文書が狙われたということもあり、飛呂之は彼の出現をいぶかしんでいる部分があったのだ。
「そうか…。ただ、宿の関係者犯人説には、ひとつ無理な点があるよね。宿の人間だったら、文書も羽童も持ってるんだよな。何で、よその物をわざわざ狙うんだろう」
「うーん……なくしちゃった、壊れちゃった、何かをするために別のものが必要になった。あるいは返上してしまったか。もし理由があるとすれば、こんなところでしょうか」
「…なるほどね。新しい羽童が必要な事情が、その人間には生じているってことか」
「はい、たぶん。でも、その事情は、具体的に何か事件が起きてみないと、うちにはわからないんですよね…」玲香が軽く唇をかむ。
「こういうときこそ、翔太が仮面ライダーセイリュウに変身して、犯人をちゃちゃっと捕まえちゃって欲しいよなあ」頭の後ろで手を組み、ソファーにもたれかかる賢児。
「賢児さまったら」玲香がくすりと笑う。
「そう言えば、この最初にある伝授の部分だけど。
『其の壱 天から継承者へ、其の弐 継承者から更なる継承者へ、其の参 継承者無きとき、性違う者へ 其の四 さらに継承者無きとき、傍系の者へ』
玲香、前に言ったよな。“命”の継承順位を示すのには、其の参と其の四だけで足りるって。確かにそうなんだよなあ」
「はい」
「でもさ、宿に渡す文書に、何でわざわざ“命”の継承順序を書いておくんだろう。そんなの、“命”側の人間に教えればいいことじゃないかな」
「確かに、それは宿側には直接関係のないことですよね」
「だから、宿の当主について書かれたものかもしれないと思ったんだけど、宿を継ぐ者のほうは、普通の家と同じように大抵は長子だよな。“命”のように特殊な能力が要るわけではないから、それこそわざわざ書く必要がなさそうだ」
「そうですよね」
「それよりも、宿の人間が羽童から能力を受け取る、その継承順序を、宿の当主に示したものだと考えたほうが、よりしっくり来る気がするんだ」
「羽童の…?」賢児のほうに身を乗り出す玲香。「でも、羽童さまを手にしたときに、その手の能力が出てきていたのは、祖父以来、翔太だけです。父も姉も私も、触れて手入れをすることはありますけど、翔太のように他の人の胸元の“ぴかぴか”なんて見えませんし」ふっと笑う玲香。
「お祖父さんは翔太が生まれたとき、ご存命だったの?」
「はい。生後半年くらいまで」
「伯母さんが、翔太はお祖父さんの継承者であるような言い方してたよな。正確には、羽童の特別な力の継承者ということなんじゃないかな」
「…そうかもしれません。私が小学生のとき、祖父が言ってたんです。自分には跡継ぎがまだいないんだと。不思議に思いました。父も姉も私もいるのにって。今にして思えば、旅館を継ぐ人間ではなくて、羽童さまを本当の意味で受け継ぐ者という意味だったのかもしれないです」祖父の言葉を思い出しながら、玲香は遠い目をした。
「おじいさんて、どんな人だった?」
「仕事のときは厳しい人でしたけど、素はお茶目で、少年ぽい人でした。あと、絵が上手で。…賢児さまに、雰囲気がちょっと似てます」玲香が少し照れながら賢児を見上げる。
「ふーん、そうなんだ」まんざらでもなさそうな賢児。
「父と姉は、けっこう理性的というか、理詰めで物を考えるんです。西園寺家で言うなら涼一さんみたいなタイプですね。でも、祖父は逆でした。感覚的な人っていうか。今にして思えば、不思議なことをたくさん言ってました。子どもの私への御伽噺のようなものとか」
「たとえば?」
「印象に残っているのは、“青の龍王”と“龍王の花嫁”の話です。“青の龍王”というのは清流旅館を守ってくださる神様で、4年に一度だけ、人間の姿を借りて庭に現れるのだそうです」
「オリンピック選手みたいだね」
「なんでも、清流の当主が命を賭けてお願いをすれば、青の龍王さまはひとつだけ必ず願いを聞き届けてくださるんだそうです」
「命を賭けたお願いか…。ちょっと怖い感じもするけど、おじいさんはそれをしたのかな」
「同じことを聞いたんです。でも祖父は、していないし、これからもしないと言っていました。跡継ぎのためにとっておくんだと」
「跡継ぎは現れるということだよね。それが翔太だったということかな」
「そうですね」
「命がけのお願いをとっておけるというのも不思議な感じがするな。でも、跡継ぎは跡継ぎで自分のぶんとしてお願いできないのかな」
「ええ。それも聞きました」笑う玲香。「二人分で強力なお願いができるんだよって言ってました」
「そんな強力なお願いをしなくちゃならないような大変な事態に翔太は将来遭遇するのかな…あ、ごめん」
「いえ。でも、そう思いますよね。私はとうさんか鈴ちゃんに何か起きるのかと思って問いただしました」
「おじいさんの答えは?」
「笑ってました。大丈夫だよって。二人に怖いことが起きるという意味じゃないからって」
「“龍王の花嫁”のほうはどんな話なの?」
「何十年かに一度、龍王さまは禊として衣を脱ぎ、生まれ変わるのだそうです。人間の欲望や怒りなど負の部分をご自身の鱗に吸い上げて巻き付けるので、定期的にお掃除が必要になるんですね」
「守り神も楽じゃないなあ」
「そうですよね。で、その脱皮の時、旅館の娘が奉げられるということでした」
「生贄みたいなもの?」
「娘は清流から離れることを禁じられ、神のお世話をして暮らすということなんですけど…」
「他所にお嫁にいけないわけだね」
「鈴ちゃんのように、婿を取って旅館を継ぐ場合も龍王の花嫁になるのかしら」
「鈴音さんには何か起きるわけではないと、おじいさんはおっしゃったんだよね。だったら違うんじゃないのかな」
「そうでした…」
「もっと突っ込んで聞かなかったの?」
「あの時は……そう、ちょうど鈴ちゃんが来て、話はそこで終わったんです。意味がよくわからないままで気にはなったんですけど、何か追究できないままでした…言われてみれば」
「肝心なことになると、一般人はふさがれる感じになるよな。何事に限らず」
「まさしくそんな感じです。なのにこうして思い出したり」
「まあ、思い出すことにも何らかの意味があるってことだよな」
「じゃあ、いろいろと思い出したほうがいいのかしら。それでとりあえず口にしてみる…そうそう、祖父は思ったことを、それが論理的におかしくても口にしちゃうところがありました。
義兄さんが初めてうちに来たときもそうでした。姉に『鈴ちゃん、あの人のお嫁さんだ』と言って、姉からめちゃくちゃ怒られたことがあります。姉の義兄への第一印象は最悪だったようなので」
「あ、それって、鈴音さんよりも、カンザシに気を取られてたってやつ?」
「そうそう、それです」玲香がくすりと笑う。
鈴音の夫の光彦は、清流旅館に婿入りして板長を勤めている。二人の出会いは、まだ学生だった光彦が清流旅館の名物料理「青龍盛り」を食しに訪れたときだったのだが、彼は鈴音のしていたカンザシに夢中で、その失礼な態度に鈴音はかなり立腹したものだった。
「第一印象最悪なのに大逆転か。あるんだなあ、そういうこと」賢児もくすりと笑う。
「賢児さまも、第一印象はあまり…」玲香がちらりと賢児を見る。「睨みつけながら上から見下ろされましたから。“男にしてくれと言ったはずだけど”とか何とか。そりゃあ、もう、怖かったですよ」
「ご、ごめん…」気まずそうに下を向く賢児。
玲香が面接に訪れたときの賢児は、男性社員を希望していたらしく、玲香の推薦者で自分の右腕である大垣にも玲香にもあまりいい顔をせず、厳しい表情のまま玲香と話をしていた。だが、玲香のほうはそれに臆するでもなく、結局賢児は、玲香の作った企画書を気に入り、その場で即採用を決めた。
「でも、ちょっとお話しただけで、いい人なんだなあって、わかりましたから」
照れ隠しなのか、うれしそうな玲香と目を合わせずに、賢児は文書のページをめくる。
「そうそう、それから、これ。『跳ね笑わす舞 気良く流れる』。宿の男子は舞をして神様や“命”を楽しませたんだよな。その結果、気がよく流れますっていうことだとすると、舞を代々続けなさいという意味なのかなと」
「そうですね。踊りによって、気の流れがよくなって、宿主としての能力が高まるよとか」
「…と思うだろ?」ニヤリと笑う賢児。
「何か別の意味でも見つけたんですか?」首をかしげる玲香。
「翔太に聞かれたんだよ。この文章の読み方と意味。まだ文書の説明までは、されてなかったようだな。だから、カタカナでまず書いて、単語に分けて読んだんだ。でさ、あいつのイントネーションだと、『ハネ ワラワス マイ キヨク ナガレル』の『ハネ ワラワス マイ』のところが、標準語のように『ラ』じゃなくて、2番目の『ワ』にアクセントが来るんだよ」
翔太は、父方の祖母の言葉を真似して、不完全な大阪弁で会話するのだ。
「…ああ、そうですね。あの子のしゃべり方だと、ハネワラワスになります」玲香が2番目の「ワ」にアクセントを置きながら真似をする。
「それを聞いてから、何かひっかかってさ。で、さっきふと思ったんだ。こうなんじゃないのかって」
賢児は、テーブルの上にあったレポート用紙に、胸のポケットから取り出したサインペンで書いた。
『羽童 住まい 清く流れる』
「つまり、羽童のいる場所は清流だということ」玲香を見てニッコリする賢児。
「なるほど…。掛詞だったんですね! すごいです、賢児さま」玲香が興奮したように書かれた文字を見つめる。
「でもさ、羽童は宿にそれぞれいるだろう? ということは、文書に書き付けるような、特別な羽童は、少なくとも、文書が清流にある期間、清流にしかいないってことだと思うんだ」
「特別な羽童ですか…?」考え込む玲香。
「だから狙われたんだという考え方も成り立つ。翔太のような能力を発現させられる羽童の居場所は、清流だけ」
「でも…使いこなせるのは結局、翔太のように…おそらく伝授された者だけなんですよね。羽童を持っていっても役に立つのかどうか…うーん、やっぱりよくわかりません」
「とりあえず、文箱と仏壇が狙われた事件とは、前後のことをもう少し確認すれば、わかることもあると思うんだけどなあ…。ただ、飛呂之さんと翔太じゃ、スタンスが違いすぎて、同列に置いて発言内容を比べることが出来そうにないのが難点だよな」
「…本当ですね」笑いながら下を向く玲香。
「じゃあ、次な。『忍ぶ場所には手を入れるべからず』。これは、あの隠し部屋は改築しちゃいけないって飛呂之さんが言ってた、あれだよな」
「はい。これは、神仏系の何かが祭られている箇所とか、祭祀の行われる場所等は、改築や改修をしないようにという、まあ一般的なことだと思います」
「どの宿にもあるの? ああいう部屋」
「有事の際に“命”さまをお隠しする部屋ですから。たぶん全部の宿にあると思います」
「そうか。じゃあ、もし文書が宿によって違ってたとしても、ここは共通項だな。ところで、隠し部屋が狙われたことは、ないんだよね?」
「ありません」
「うーん、じゃあ、これはいいかな。次、行くか」次のページを開く賢児。
「『龍の玉が子を拓く 龍の子が玉を拓く』…か。清流にある文書なわけだから、龍というのは清流のことかな。“龍の玉”は、羽龍の水晶のようなものだろうな。…玲香の家には、該当しそうな宝石はないの?」
「はい。パワーストーン類なら、いくつか父が持っていますけど、皆、そんなに高いものでも希少なものでもないと思います。普段使っている様子もありませんし」
「伝わっているもので、龍の形をした人形とかは?」
「…それも、ないと思います。…目立つものがあれば、きっと父がグッズを作ってます」
「なるほどね」笑う賢児。
「でも、たぶん、何かそういうものがあって、それが子、つまり継承者だと思うんですが、その子の特殊能力をそれで開花させるということですよね」
「そうだな。…だとして、次の文章とどうつながるんだろうな」
「“龍の子”と、最初の文章の“子”というのは、イコールなんでしょうか」
「“子”が“拓かれ”て“龍の子”になる、だとしたら、イコールだな」
「じゃあ、七代目は、青い龍の子かなあ、なんちゃって」冗談めかして言う玲香。
「おそらくな。少なくとも、すでに翔太は俺たちにない能力を持ってるだろ。胸のぴかぴかが見えたり、神様が話しかけてきたり…“玉を拓く”の意味は、わからないけどさ」
軽く首をすくめる賢児。
「それはきっと…神道系のヒーリングなんかで使われることがあるんですけど、“玉”というのは、玉のような形状の宝物以外に、“魂”の意味もあります。“魂を拓く”だとすれば、“羽童の継承者が、特殊能力をもたらす”ということになるのかと」
「なるほどね…。もしかすると特殊能力を他人にも授けることができるのかな、龍の子は」
「龍の子自身の能力が拓けば、その子は他人もしくは他の宝物の能力を高めることができる。そういうことかもしれないです」
「…もう翔太が開かれた状態だったら、まずいかも」ふと賢児が眉間にしわを寄せる。
「まずい?」
「それだと、水晶だか何だかの宝物より、翔太のほうが狙われちゃうかもしれないよ。羽童を狙うのも、文書を狙うのも、結局それによって何かの力を手に入れるためだろ? 翔太が、そのために必要な要素のひとつかもしれないと、もし、その犯人が思ったら…」
「あ…」玲香が短く声を上げる。
「一応、飛呂之さんたちにも、よく注意しておいてもらうように言っておこう」
「賢児さま…私、今までそんなふうに考えたことありませんでした。父さんも皆も、この文書は“命”さまに関する断り書きだと思ってたから…。どうしよう、本当にそうだったら、どうしよう…」口に手を当て、涙目になる玲香。
「大丈夫。落ち着いて。あくまで、ひとつの仮説だから。でも、龍や紗由のことを頼んでいる人たちにも相談してみるよ。プロだからさ、こっちで心配しているだけよりも、な」
賢児が玲香を引き寄せると、玲香はこくんとうなずいた。
「龍くんや紗由ちゃん…プロの方に警護を頼んでるんですか? 確かに二人とも、すごく綺麗な子たちだから、変な人に狙われないとも限りませんけど…それとも先生の周囲が何か危険にでも? そのせいでですか」
龍というのは賢児の甥だ。正確には、伯母の息子、つまり賢児にとっては従兄弟に当たる天馬の忘れ形見なのだが、賢児の兄の涼一夫婦が引き取って育てていた。紗由とは4つ違いの小学2年生だ。
先生というのは、賢児の父親で現外務大臣の西園寺保のことだ。前任者が外遊中に事故で急逝したのだが、その件に関しては事故ではないのではという不穏な噂も流れていた。
「いや、二人の警護は、親父の件との絡みってわけじゃなくてさ、二ヵ月位前に、あいつらの学校と幼稚園の学童を指しているとおぼしき誘拐予告があったんだよ、裏掲示板に」
「そうなんですか…! でも、そんなニュース見た覚えが…」
「模倣犯が出ると困るから、表に出してないんだと思う。財産家の師弟が多いしね」
「…何か、嫌な世の中ですね」下を向く玲香。
「そうだ。翔太の靴のサイズ教えて。GPS搭載スニーカーとランドセルを作らせるよ」
「そんなものがあるんですか?」
「ああ。誘拐関係なしに、ちょっとでも目を離すと、紗由がすぐあっちこっち行っちゃうからさ、いろんなグッズのお世話になってる。リードとかね」苦笑いする賢児。
「ええと、次は…」
賢児が文書に手を伸ばすと、玲香が先に文書を取り上げ、ページをめくる。
「『一、二足を東へ 二、一足を南北へ 三、命が宿る』。この文章は何がなんだか…」
「暗号だな、まるで」
「ただ、何かの足を動かすことは確かですよね」
「動物かな。龍の足とか?」
「そうですねえ。人形とか、オブジェとか、昔から伝わるもので龍の何かがあれば、その足を指しているのかもしれませんけれど、さっきも言ったように、その類のものが見当たらないんですよね、うちには…」玲香が考え込む。
「あとは、椅子やテーブルの足かな」
「カンザシも、足が1本とか2本とか、そういう言い方をしますね」
「鈴音さんのカンザシで、代々伝わっているものはある?」
「…ええと、祖母から受け継いだというものが何本かあるはずですが、代々なのかどうかは、よくわかりません」
「じゃあ、叔母さんいらしたよね。飛呂之さんの妹さん。その方が持っているものとか、あとは、お母さんからというのは、何かある?」
賢児の問いかけに、玲香は一瞬言葉に詰まった。
「…わかりません」
「そう言えば、少し気になってたんだけど、お母さんの名前、履歴書の家族欄になかったよね。うちと同じなのかな。…他界されたとか」
「私、母のこと知らないんです」
玲香のこわばった表情を見て、咄嗟に玲香の手を取る賢児。
「知らない?」
「私が生まれて半年ぐらいで、父と離婚して家を出たらしいです。…写真も一切残っていません。そのとき6歳だった鈴ちゃんが、全部焼いてしまったみたいです」うつむく玲香。
「…ごめん。ごめんな。辛いこと聞いちゃって」
賢児は、玲香をそっと抱きしめると、ごめんと耳元で繰り返した。
「いいんです。私、知らないだけですから。全然、わからないだけですから…」笑おうとした玲香の目を涙が伝う。
いつも明るい玲香が、ふいに泣き出したことで賢児は動揺していた。と同時に、彼女は自分が守らなければという気持ちが強く込み上げてきた。
「うちのお袋、生きてたらなあ…玲香を嫁さんにしたときに、母親を味あわせてやることできたんだけどな…。ごめんな、ちょっと遅かった」
賢児の言葉に、驚いて彼を見上げる玲香。
「ちゃんとした話は、この一件が片付いてからにしよう。…いい?」
「賢児さま…」
うなずく玲香の頬を、また涙が伝う。その頬に、賢児がそっと口付けた。
「文書の続きは、また今度にしよう。玲香が話したいこととか、あったら、そっちが先だ」
「しばらくこのままでいてください…」賢児にしがみつきながら、玲香が小さい声で言う。
「わかった…」
玲香がしがみついたはずみで、手から文書が床に落ちた。だが賢児は、それには目もくれず、ただ玲香のことを静かに抱きしめていた。
絨毯の上に落ちた文書は、一瞬、最後のページの地図が開いたかと思うと、ゆっくりと閉じていった。
* * *




