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東方無明録 〜 The Unrealistic Utopia.  作者: やみぃ。
第二章 時空逆抗
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第三話 紅白蓮花蝶




「それで、(まもる)だっけ。これからどうしたいの?」


 博麗(はくれい)霊夢(れいむ)と名乗った少女が、俺の斜め前を歩きながら聞いてきた。


 道は森に入り、細く険しくなっていく。

 彼女はこの先に、自分が巫女を務める神社があると言っていた。

 そこへ連れていくつもりなのだろうか。


「どう、って……」

「決まってるでしょ。元いた世界に帰るか、それともこの世界に骨を(うず)めるか。どっちかを選べって言ってるの」


 定型文でも決まっているかのように、淡々と言ってのける霊夢。

 その声色に躊躇は無い。

 馬鹿にしている訳でも、冗談を吐いている訳でもなさそうだ。


 つまりここは、俺の生まれたあの世界とは異なる世界。

 則ち、異世界。


 帰りたい。

 考えるまでもなく、そう思った。

 いきなり全然知らない地に飛ばされて、そこで暮らせというのは拒みたい。

 それに、あの騒動の後行方不明のままの両親も心配だ。

 もしくは俺のほうが心配されてるかもしれない。


「俺は……」


 帰りたい。

 その結論を言いかけて、やめた。


 帰ったとして、生活基盤は既に失った後だ。

 救ってくれるはずの公共機関は、混乱と消耗で機能を落としつつある。

 国ですら、その形を維持することも難しい状況に立たされている。

 しかも、世界中どの国でも。


 闇霧と暗鬼に半壊させられたあの世界で、これからどう生きていけばいいのか。

 冷静に考えれば、展望も希望も無いではないか。


 暗鬼の存在によって、命の危険に曝され続ける人生。

 食料不足によって、飢えに苦しみ続ける人生。

 救いがない為に、絶望に苛まれ続ける人生。


 そんな人生なんて、そんな世界なんて……。

 でも、それでも故郷だ。

 しかし、異郷の地で死ぬまで暮らせというのも……。


 荒廃してると知りながら、帰るか。

 見知らぬ地と知りながら、留まるか。

 俺は……。

 俺はどうすれば……。


「……ま、今決めなくてもいいわ」


 顔を上げる。

 いつの間にか振り返っていた霊夢が、俺を見つめていた。

 あまり嬉しそうな顔ではない。

 俺の思い詰めた表情を見てしまったのだろう。


「数日以内に答えを聞かせて。ただ、それを過ぎると帰れなくなるから」


 彼女は視線を外すと、再び道を登り始めた。


 事情に踏み込んでは来なかった。

 口調や態度からして、どんな乱暴な事を言われるかと思っていたが。

 先入観が過ぎたようだ。

 思いやりのある優しい子なんだろう。


「ほら、行くわよ」


 どんどん先へと行く、巫女服の少女。

 置いていかれないよう、俺は鈍っていた歩行速度を早めた。




 * * * 




 突然として現れた鳥居。

 咲き乱れる桜並木。

 その奥に構える、趣ある荘厳な建物。


 それは美しい、とても美しい神社だった。


「何見とれてるの。外の世界にも神社くらいあるでしょうに」


 横の霊夢が呆れ顔で言う。


 確かに神社は日本中にありふれていた。

 ここよりも遥かに大きな規模の神社も多い。


 しかしここは、この神社は。

 格が違う。

 雰囲気が違う。

 上手く表現できないが、何か持っているモノが違うことは明らかだった。


「ここは博麗(はくれい)神社。幻想郷唯一の神社よ」


 幻想郷(げんそうきょう)

 俺が今いる、この異世界の名だ。

 妖怪や魔法の類いがありふれた世界なのだという。


 そして、博麗、か。

 彼女の苗字と同じ名の神社だ。

 代々この神社に務める家柄なのか、それとも務めたから苗字が変わったのか。

 あまりプライベートなことを聞くつもりはないが、彼女自身、巫女という役目は好きらしいので知る必要は無いだろう。


「へえ、博麗……………………え」


 口に出してみて、引っ掛かった。

 聞き覚えがあったのだ。

 博麗神社という名に。


「どうかした?」


 霊夢が顔を覗き込む。

 端正な少女の顔が間近に迫る。

 だが、それに反応していられる思考状況じゃなかった。


「博……麗…………!?」


 思い出した。


 そうだ、あの時。

 意識を失う直前。

 俺や妹が訪れていた場所。


 森に飲み込まれ、何百年も放置されたかの如く傷んでいた、あの神社。

 ぼろぼろの石柱には、確かに書いてあった。

 “博麗神社”と。


「っ!」


 境内を見渡す。

 石柱、鳥居、石畳、神殿……。

 そこに、記憶の中の荒廃した博麗神社を重ねる。

 損傷度合いは比べるまでもない。

 建物の数や大きさもこちらのほうが上だ。


 だが、位置や地形は完全に同じだった。

 名前の一致からしても、あの荒廃した神社とこの神社は同一だろう。


「霊夢……」

「な、なに」


 真顔で目の前の霊夢を凝視してしまった。

 圧された彼女がたじろぐ。


 もう察した。

 察するまでもない。

 幻想郷(ここ)はただの異世界じゃない。


 俺が生まれ育ったあの世界と、今いるこの幻想郷。

 あの世界の博麗神社と、目の前のこの博麗神社。

 無関係だなんて、あり得ない。

 深い繋がりがあるはずだ。




「……この世界のこと、もっと詳しく教えてくれ」




 * * * 




 俺は幻想郷のことなんて、存在はおろか名前すら知らなかった。

 だから、幻想郷の住民は俺の生まれた世界のことなど何も知らないのだろうと思っていた。

 しかし、それは思い違いだったようだ。


「……ってこと。分かった?」


 ひとしきり幻想郷と俺のいた世界との関係を解説し終えた霊夢。

 彼女は俺の返事を待たずに、ちゃぶ台のお茶を手に取った。


 神社の奥にある平屋の建物。

 中は畳が敷いてあり、ちゃぶ台や座布団の他、生活に必要な家具が幾つか置いてある。

 彼女が手慣れた様子でそれらを使いこなしているあたり、ここは彼女の居住スペースなのだろう。


「うん、よく分かった。ありがとう霊夢」


 紅白の少女に礼を言う。

 彼女は興味無さそうに頷くと、拾い上げた煎餅をかじった。




 霊夢曰く。


 幻想郷は、俺がいた“外の世界”の裏返しの世界だ。

 外の世界と幻想郷は同じ空間と時間に存在しながら、違う歴史を歩んでいる。

 俺はそれを、平行世界(パラレルワールド)という単語を持ち出して理解した。


 外の世界と幻想郷を隔てているのは、現実と幻想を区別する大結界だ。

 外の世界で忘れられた事象や現象、妖怪や妖精、神などは、この大結界によって幻想郷に転送され、その存在を保っている。

 幻想の存在にとって、いわば最後の楽園だ。

 外の世界が人間と科学に支配された世界である以上、幻想郷は妖怪や魔法に満ちた世界であり続けるのだ。


 そして博麗神社は、大結界の起点となる重要な場所だ。

 外の世界と“まともに”行き来できるのは、幻想郷ではここだけである。


 俺が外の世界で見つけた、荒廃した博麗神社。

 それは、大結界が張られた数百年前のまま放置されている“現実”の博麗神社らしい。

 そして、外の世界の博麗神社とこの博麗神社は繋がりやすく、時折外の世界の人や物が迷い込んでくる“幻想入り”が起こることもある。

 俺もそんな人間“外来人”の1人だろうとのことだ。




「どうせ帰る時に幻想郷(ここ)でのことは忘れちゃうんだから、こんなこと知ったって役に立たないわよ」


 湯呑みを置きながら霊夢が言う。

 気だるげにため息をつく少女の顔には、幻想的な美しさがあった。


 しかし、忘れちゃう、ね。

 記憶操作でもされるのだろうか。

 まあ、外の世界に幻想郷の存在が知れるのは避けたいのだろう。


「いや、幻想郷に残るなら役立つんだし、無駄にはならないよ」

「え、残るつもりなの?」


 霊夢が信じられないといった様子で俺を見る。


「え、駄目なのか?」


 思わず質問に質問で返してしまった。


 そもそも選択肢として提示したのは彼女だ。

 勿論まだ決めたわけではないが、戻っても絶望が待っているだけだ。

 残るという選択肢を取る可能性は高い。


「べ、別に勝手にすれば良いけど……大丈夫なの? きっと皆、遭難だ神隠しだって騒いでいるわよ」


 心配そうな顔をする霊夢。

 クールなイメージがあったが、そんなことも無いらしい。


「……その“皆”がいないんだ。俺がいなくなったところで誰も気にしない……いや、気にしている余裕がない」


 平時であれば、俺は遭難者や行方不明者として扱われ、警察や消防が捜索に来ていた事だろう。

 だが。


「“闇霧”とか“暗鬼”とかいう奴等のせいで、世界中大混乱なんだ。家族ともはぐれちゃったし、犠牲者も行方不明者も凄まじい数になってる。俺みたいな田舎の民間人、いなくなったことにすら気付いてないはずだよ」


 諦めからか、微笑が漏れる。

 お茶の入った湯呑みを口につけ、それを隠した。


 霊夢は視線を落として考え込む。

 少しすると、目を据わらせて口を開いた。


「……暗鬼ってのは最弱の妖怪。そいつらだけで外の世界を混乱させようと思ったら、とてつもない数と個の強さが必要なはずよ。もし、外の世界がそうなっているのだとしたら、大結界は維持できず、今頃幻想郷もろとも崩壊しているでしょうね」


 なるほど、確かに。

 つまり霊夢は。


「疑ってるのか?」


 湯呑みを置き、見返す。

 無感情な彼女の視線が、俺を刺していた。


 博麗の巫女がただの人間ではないことくらい、凡人の俺でも解る。

 俺を不審者として捕縛する、もしくは殺してしまう事くらい容易いだろう。


「ええ。そもそもあんたが本当に外の世界の人間なのかも怪しいわ。“妖術師”なんて、もう外どころか幻想郷にすらいない存在よ」


 判るのか。

 妖術師……妖術を扱える人間のことをそう言うのだとしたら、当たりだ。

 俺は意識を失う前日、突然妖術の力に目覚めた。

 魔法その他と何が異なるのかは知らないが、昔を知る人外達がそう言っていたのだから間違いない。

 というより、その言葉以外に情報源がなかったのだが。


「だったら何。念のためしょっ引いとく? いいよ勝手にすれば。どうせ抵抗出来ないし、何より悪事を働く気はない」


 達観した態度で開き直る。

 信じるか信じないかは彼女次第だ。

 俺はただの18のガキ。

 何かする気も、する力もない。


 霊夢は姿勢も表情も変えず、静かに俺を観察する。

 しかし、数秒もするとため息と共に目を閉じてしまった。


「見くびらないで。そんな早計じゃないわ。妖術師だからこそ、忘れられた存在として幻想入りしたのかもしれないし、あんたがいた世界が純粋な外の世界とは限らないし。……それに」


 彼女が再び俺を見る。

 その表情は一転、優しく微笑んでいた。


「あんたは敵じゃない気がする」

「勘かよ」


 あ、口に出してしまった。

 いつも妹にツッコミを入れてる癖だな。


 溜めてから言うもんだから、凄く説得力のあるお言葉が聞けると思ったのに。

 適当だなおい。


「失礼ね、“勘”は何より大切な情報源よ。これでいくつの妖怪を退治してきたことか」


 自信満々に語る霊夢。

 鼻で笑い飛ばせたらどんなに楽だったろう。

 常識が通じない世界だけに、誇張だと言い切れないのが辛いところだ。


 外の世界で“勘”なんてものはそこまで重要視されていなかった。

 ただ、裏返しの世界である幻想郷ならば、逆に最重要視されている可能性はある。

 信用できないが。


 まあしかし、疑いが晴れて良かった。

 異世界入り早々冤罪エンドルートなんて御免だ。

 頼むから平穏に過ごさせてくれ。


「……っと、もうこんな時間。神社閉めなきゃね」


 霊夢が西の空を見る。

 傾き始めた太陽によって、空は橙色に染まり始めていた。


 不意に彼女が振り返る。


「衛、今日はここに泊まっていきなさい。一部屋貸してあげるから」

「えっ」


 思わぬ申し出に意表を突かれた。

 霊夢は不思議そうな顔をする。


「里の宿にでも泊まるつもりだったの? お金なんて持ってないでしょうに」


 まあそうだけど。

 リュックの中に財布があるが、流通通貨が古い幻想郷では中身の価値は無に等しい。

 かといって、妖怪だらけの幻想郷で野宿するのは自殺行為だ。


 って、違う。

 俺の懸念はそこじゃなくて。


「それに、人里までの護衛はもう遅いからしたくないし。家主がいいって言ってんだからいいでしょ」

「ああ、うん、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて」


 軽く頭を下げて了承する。

 彼女はいいのよ、と笑うと立ち上がり、さっさと神殿のほうへ行ってしまった。


 ……男性を簡単に泊めたりして大丈夫なのかな。

 巫女ってそういうの気を付けなきゃいけないんじゃなかったっけ。


 全く、少し考えれば分かるだろうに。

 俺が理性に欠けるやべー奴だったらどうなっていたことか。

 すぐに博麗巫女の力で返り討ちにされて外界へ強制送還されちゃうじゃないか。

 …………うん、俺が悪かった。

 やましいこと考えた俺が悪かった。


「あ、衛」

「はぃっ!?」


 声が裏返りかけた。

 まさか戻ってくるとは思わなかった。


「どうかした?」

「いやなんにも」


 ええいそんな純粋な目で疑問を呈すな。

 なんにもねーから。

 つーか神社閉めるんじゃなかったのかよ何の用だよ。


「閉めるの手伝った方がいいか?」

「え? ああ、そうじゃなくて……」


 霊夢は首を振って否定した。

 右手には何故かお祓い棒が握られている。

 彼女はそれを顔の横まで持ち上げると、用件を伝えた。




「外の世界に帰れるかどうか、確認だけしておきましょ」




 * * * 




「はい、じゃあそこに正座して、目を閉じて」


 お祓い棒を持った霊夢が指示する。

 言われた通り神殿を向いて正座し、目を閉じる。


 頭上で紙がかさつく音がした。

 お祓いってやつだろうか。


「よし、いいわよ」


 目を開ける。

 霊夢が踵を返し、俺の前方に正座する。

 その向こうには、何やら神器らしきものが並んだ棚が置いてあった。


「まさに巫女って感じだな……」


 その雰囲気に、思わず言葉が漏れた。

 霊夢が怪訝そうに振り向く。


「信用してなかったの? あんた私を何だと思ってたわけ」

仮装女子(コスプレイヤー)

「しばくわよ」


 露骨に不快そうな顔をする霊夢。

 冗談だよ、と言ってかわすと、彼女はため息をついて神殿を向き直った。


 まあ正直本心に近いけど。

 それに信用もしてない。

 数時間前に会ったばかりだし。

 ……まあ、お互い様だろうけどね。


「すぐ終わるから、楽にしてて」


 霊夢はそう言うと、神殿に一礼した。

 儀式が始まったようだ。

 顔を軽く伏せる。

 俺がやることは特にないため、目を閉じて儀式が終わるのを待つ。


 神器を置く音、お祓い棒を動かす音、鈴の音、霊夢が呟く呪文か何か。


 なんだか不思議な感覚だ。

 それ以外の音は全て聞こえなくなっていたからだ。

 神聖なその音々だけが、夕暮れの境内に響いていた。




「っ……!?」


 目を開ける。

 開けざるを得なかった。

 頭の中に、突然鋭い痛みが走ったからだ。


 顔を上げる。

 頭を抑えながら、神殿を睨み付ける霊夢が見えた。


「っく……なんで……!?」


 あり得ないものでも見たかのような表情。

 焦りと困惑の色がはっきりと見て取れた。

 霊夢も同じ症状に見舞われたらしい。


 神殿を見る。

 閃光か何かが走った気がした。

 通り道にあった神器が、ひとりでに棚から落ちる。

 瞬間。


「い……ああああっ!?」


 彼女は頭を抑えたまま倒れ込んだ。


「霊夢!? ぐ……」


 立ち上がる間も与えられず、脳内に激痛が走る。

 幻聴が両耳を塞ぎ、視界が暗転する。

 自分がうずくまったのか、転んだのか、倒れたのかも分からない。


 “痛い”。

 それ以外の感覚は全て消え失せた。


 神殿のほうから何か力をかけられていることはすぐに分かった。

 伸びてきた見えない手のようなモノが、脳を掴んで揺さぶる。


 誰だ。

 お前は誰だ。

 痛い。

 やめろ。

 離せ。


『黙れ』


 誰かの声がした。

 正確には声ではない。

 日本語でも、そもそも言語でもない、意思だった。


『禁忌を犯した大罪人めが』


 禁忌だと?

 何の事だ。

 身に覚えがないな。

 何様か知らないけど、冤罪だぞ。


『しらばくれるな……』


 痛みに拍車が掛かる。

 頭が割れそうだ。


 しかし、その“声”はなおも続ける。


『…………己の罪を知れ!!』




「るせぇだまれえぇっ!!」


 その声を、()()

 視界が緑に染まる。


 瞬間、その“手”は弾かれ、消え失せた。




 顔を上げる。

 痛みは綺麗さっぱり消えていた。

 感覚の異常もない。

 あの声も、もう聞こえない。


 境内は静寂そのものだった。

 そよ風の音、遠くの小鳥のさえずり、蝶の羽音さえ聞こえる。


 強いて異常を挙げるとするならば、神器が数個地面に転がっていることと。


「……霊夢!?」


 博麗の巫女が、倒れていることくらいだ。




 * * * 




 敷いた布団に、巫女服の少女を寝かせる。


 彼女の口に耳を近づけ、目で腹部を観察する。

 同時に手首を親指で押さえる。

 耳と頬にかかる呼気。

 呼応して上下する胸。

 ゆっくりと鼓動を刻む動脈。

 運ぶ前と同じく、生死に関わる容態ではないらしい。


 だが、顔色は良いとは言えない。

 額を触ると、ほんのり熱かった。

 気温に合わない発汗もある。

 症状は風邪に近いようだ。


 なんだ、どうすればいい。

 思い出せ、インフルエンザの時、母さんは何をしてくれた。

 毛布をかける、氷枕を敷く、額を冷やす、体温を逐一計る、熱が38度を越えるようなら頓服薬を飲ます……。


 氷は駄目だ。

 まず冷蔵庫が無い。

 薬も無理だ。

 資格が無いし、そもそも薬なんてあるのか怪しい。

 体温を計ると言ったって、手のひら感覚だけだ。

 母さんならともかく、俺では細かい温度まで分からない。


 しかし……眠い。

 もういいか。

 考えるのは一休みしてからでも……。


「……っ!」


 飛びかけた意識を引きずり戻す。

 さっきの痛みで大分持っていかれたらしい。


 ぶっ倒れてられるか。

 霊夢は意識ごと持って行かれたんだ。

 俺が看なくて誰が看る。


 畳の上に放置していた掛け布団を取り、彼女の首元までかけてやる。

 心なしか、彼女の表情が和らいだ気がした。


 次は何だ。

 冷やす手段か。

 確か境内に井戸があった。

 濡らした布でも額に置けば、少しは楽になるだろう。


「…………」


 重くなった己の身体を無理やり立たせる。

 額を叩いて気合いを入れると、俺は急いで井戸へと向かった。




 * * * 




「う……」


 膝が笑い、思わず畳に手を付いた。

 立ち上がる気すら起きない。

 気力も体力も底をついたようだ。


 日はとっくに暮れた。

 だが、蝋燭に灯をともす手段を知らないため、部屋の中はかなり暗い。

 障子越しに差し込む月明かりだけが頼りだ。


 青白い光に照らされる霊夢の顔。

 濡れた手拭いが額に乗っていた。

 結局、当初考えていた対処のうち、俺にできたのはそれだけだったのだ。


 髪が痛みそうだったので、髪留めはほどいた。

 汗が酷かったので、首元だけは拭ってやった。

 幻想郷ならば効果があると信じて、神頼みもした。

 後付けでできたのも、たったのそれだけだった。


「はぁ……」


 崩れるように座り込む。

 ため息の原因は疲労感か、それとも無知無力な自分への呆れか。

 いや……両方だろう。


 重い瞼をどうにか持ち上げたまま、霊夢の様子を見る。

 未だに目を覚ます様子はない。

 このまま何事もなく、明日の朝に起きてくれるのを祈るばかりだ。


 ____禁忌を犯した大罪人めが。


 あの時の声が蘇る。

 禁忌、大罪。

 一体何の事だろうか。


 冤罪だと切り捨てるのは簡単だ。

 だが、自覚していないだけで何かを犯してしまったのなら、それは償わなければならないだろう。

 神殿から伸びる手、それは恐らく、神の手。

 逆らったって逃げたって、敵わないし逃げ切れない。


 ……何故かさっきは逃げ切れたんだけど。

 博麗の巫女である霊夢すら気絶させる力に、凡人の俺が耐えきれた。

 理由があるのだろうか。


「っ……」


 頭がぐらついた。

 これ以上は持ちそうにない。

 出口のない思考はもうやめて休んだほうが良いだろう。


 立ち上がる前に、もう一度霊夢の手に触れた。

 脈はある、鼓動も安定している。

 だが、何度確認しても安心できない。

 寝ているだけに見えても「意識不明」なのだから。


 その手に思わず握力を込めた。

 あの神の言うことが本当ならば、俺への神罰に彼女は巻き込まれたという事になる。

 そう思う度、謝罪の念が絶えないのだ。


 全部俺のせいだ。

 俺はどうなってもいい。

 だから彼女は救ってくれ。

 良くなってくれ、治ってくれ、邪は抜けてくれ。


 握りしめた手に祈る。

 瞬間、そこに緑色の光が見えた気がした。

 だが、幻覚かどうかの判断を下す前に、その光は消えてしまった。


 幻想郷では神の声のみならず、おまじないすらも具現化する……のかもな。

 そんなことをぼんやりと考えつつ立ち上がる。


 女の子の隣で寝るのは流石に不味い。

 どこでもいいから、この部屋の外で寝よう。


 ふらつく足で部屋から出る。

 後ろ手で襖を閉めると、そのまま畳に倒れ込んだ。







 【博麗神社(はくれいじんじゃ)


 幻想郷東端の山、その頂上近くに位置する神社。

 幻想郷で唯一の神社である。


 外の世界と幻想郷とを隔てる大結界の起点となっており、外からの流入物(人間含む)が頻繁に見つかる。

 巫女がひとりいるだけだが、規模はそこそこある。

 人里から遠いうえ参道には妖怪も出るため、人間の参拝客は多くない。




 【妖術(ようじゅつ)


 文字通り“妖しい術”の総称。

 主に妖怪や妖獣が使用する。

 幻術のように五感を狂わすものから、光弾や障壁など物質的戦闘に使うもの、身体能力向上や治癒力上昇といった自身を強化するものなど様々ある。




 【妖術師(ようじゅつし)


 妖術を扱う能力を持つ人間の総称。

 実在したという明確な資料がないため、その存在は伝説の域を出ない。


 本来人間が妖術を扱うことは出来ない。

 出来たとしても、それは既に妖怪化した人間であったり、妖怪とのハーフであったりと、純粋な人間ではない。

 陰陽道や魔術などとは明確に異なり、人間が身に付けることはできず、属性も人間が扱うには異質である。


 例外として東雲衛とその妹は、純粋な人間でありながら突然妖術に目覚めた。

 確認出来る限り、古今東西で妖術師と呼べる存在は東雲兄妹だけである。




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