第1話 転送直後 工作船内
異世界での最後の夜、佑は帳簿の余白に食べたいものを書いた。
箇条書きだった。商人の習性で、何事もリスト化する。
白米。炊きたての、日本の白米。
味噌汁。豆腐と油揚げ、ねぎ。できれば赤味噌。
焼き魚。秋刀魚か鯖、どちらでも良い。塩だけで焼いたもの。
漬物。ぬか漬けなら最高だが、浅漬けでも文句は言わない。
鰻重。これは贅沢品の枠だが、十年我慢したので許す。
異世界には米がなかった。似た穀物はあったが、炊いた時の甘い湯気も、噛んだ時のもちっとした感触も、全部違った。味噌は存在しなかった。発酵食品の概念がそもそも薄かった。鰻に至っては、似た生き物はいたが、味が根本的に別物だった。
魔王を倒した夜も、邪神擬きを倒した夜も、祝宴には現地の料理が並んだ。悪くはなかった。感謝もした。
ただ、旨くはなかった。
帳簿を閉じる前に、備考欄に一行だけ書いた。
備考:明日、SF世界に行く。そうしたら全部食べる。十年分、まとめて食べる。
それだけで十分だった。
目を閉じた。
目が覚めた時、佑はまず天井を見た。
見慣れた天井だった。工作船の居住区、自分の寝室。灰色がかった白い合金パネルが、柔らかな間接照明に照らされている。異世界での長い旅を経て、ようやく帰ってきた場所だ。
「……着いたか」
呟きながら上体を起こす。体は軽い。宇宙エルフとして作り直された五百年分の肉体は、どれだけ眠っても疲れを知らない。
窓の外に青い星が浮かんでいた。
「……地球か」
思わず呟く。丸い。本当に丸い。異世界では空から見下ろしてもあそこまで丸くなかったが、地球というのはやけに丸い。宇宙から見るとなおさらそれが分かる。白い雲が渦を巻いて、青い海が大陸を縁取って。
佑は窓に歩み寄った。額を当てて、しばらくその星を眺めた。
「……帰ってきたな」
その言葉には、少しだけ感傷が混じっていた。異世界での十年間──魔王を倒し、邪神擬きを倒し、気づけば神様に宇宙エルフとして作り直されていた──を経て、ようやく自分の星に戻ってきた。
佑は一つ伸びをして、ブリッジに向かった。
扉を開けると、ライルが座標表示パネルの前に立っていた。鉄道オタクのエルフは、整然とした白髪を後ろで束ね、いつものクールな表情で画面を見つめていた。ただし、その眉が僅かに寄っていた。
「おはようございます、佑」
「おはよう。座標は?」
「到着しました」とライルは答えた。
「……ただ」
「ただ?」
「座標は……あれ」
ライルが首を傾けた。ライルが首を傾けるのは珍しい。几帳面で方向感覚が異常に強いこのエルフが「あれ」と言うのは、それだけで何かがおかしいということを意味する。
「どうしました」
「時間座標の確認をしているんですが」
「うん」
「西暦……三〇八〇年のはずが」
佑は待った。
「西暦一五八二年です」
沈黙。
佑は一度、パネルを自分の目で確認した。数字は確かにそう表示されていた。計算違いではない。機械の誤作動でもない。表示は明確に、一五八二年と言っている。
「……もう一度言ってください」
「一五八二年です。未来ではなく過去です」
「……」
「約一五〇〇年、行き過ぎました。逆方向に」
佑は三秒ほど、無言でパネルを見つめた。
「なんでやねん!」
その時、船内の通信端末が鳴った。音声通信のランプが点滅している。発信元の表示は──存在しない何かからの入電を示す、見たことのない表示だった。
佑は端末に近づいて、受信ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、佑くん? 良かった、繋がった』
軽い声だった。性別も年齢も判然としない、けれどどこか間の抜けた温かみのある声。佑には聞き覚えがあった。
「……神様」
『そうそう。えっと、ごめんね? ちょっと時代間違えちゃった』
「ちょっとじゃないです」
佑は言った。
「一五〇〇年違います。逆方向に」
『うーん、でも地球は合ってたよ?』
「時代が違えば意味がありません」
『戻す? 今すぐ戻せるよ。ちょっと待ってね、座標の計算──』
「ちょっと待って下さい」
佑は止めた。
止めたのは、その瞬間にフィリアがブリッジに入ってきたからだった。発酵オタクのエルフは、いつものように何かの瓶を手に持ちながら、船外モニターの地球を見て目を細めた。
「着きましたね」
「着きました。ただし──」
「食料備蓄の確認をしました」とフィリアは言った。それ以上でも以下でもなく、ただ事実を述べる穏やかな声で。「現在の消費速度で、約三ヶ月分です」
佑は通信端末に向き直った。
「……少し考えます。今はまず現状確認させてください」
『うん、ごめんね。本当に。また連絡するね』
通信が切れた。
「どうしますか」とライルが、画面を見たまま言った。
「会議を開きます」と佑は答えた。「エルフ代表を全員ブリッジに」




