冬の時代(2) 未来の予感
『戦をしているわけではない。まして飢饉でもなければ、災害でもないのだ』
それでなんで領民が飢える。平時に領民がまともに暮らせなくて、何の為の領主か。それで治める者の値打ちがあるか。
あんなことを公言したのは、今のお館様だけである。
――今度のお館様は、衒いもなく理想論を口にする。
しかしお館様は、颯爽と登場したわけではない。
ふと気付いたらお館様しか残っていなかった。それが一番近いのだろう。
――どうせ今までのバカ息子達と同じ。またすぐに消えていなくなるさ。
誰も望まず、何にも期待されず。
だがそのお館様だけが、初めて西の辺境領を何とかしてくれた。
『凶作ですらない。こんな年に飢餓を引き起こすのは、為政者が無能な所為だ』
そう嘯いたお館様は、しかも言いっぱなしにはしなかった。
最後の最後に遅れて登場したはずなのに、誰より行動は早かった。
即断即決。すぐさま炊き出しが始まった。待ったなしの飢餓に対して、とりあえずにも直ちに手を打ったのだ。それは単発の人気取りに終わらず、領主家の穀物蔵が空になってもなお続いた。
西の辺境伯家の蓄えはとうに尽きていたはずだ。余分などあったわけがない。
なのに借財してまで配給の穀物を贖ってくれた。
まさに有言実行。そんな領主は、後にも先にも今のお館様だけである。
お館様だけが示して見せたんだ――
言葉だけでなく行動で。俺は本気だ、そして無能ではないと。
あの炊き出しの煙と湯気。五体に沁み渡る一杯のスープの暖かさ。
イアルは死ぬまで忘れないだろう。そう思うのは、何もイアルだけではない。
以降ほぼ餓死者は出ず、お館様になってやっと領民散逸に歯止めがかかった。
それに炊き出し場で夜通し火を焚かせたおかげで、寒い時期にもほとんど凍死者を見なかった。あんな季節は初めてだった。
イアル達はおぼろげながらにも、変化の兆しを知覚した。
(けど。あれを――あれでも、平時だなんて呼べるだろうか?)
そう言い切ってしまうには、どうしても感情的な反発がつき纏う。
モヤモヤする。幼くとも一領民として、イアルだって難儀を被った当事者なのだ。
まして身内に犠牲が出たり、家財生業に損失が出た人間ならなおのこと割り切れないだろう。それだけ過酷だった。
それにあの災厄のような歳月は、間違いなく人災だったのだ。
西の辺境領にとって冬の時代。
今のお館様が家督を継がれる前の数年間、この地は領主家エルンストの代替わりを巡り、荒れに荒れた。
先代急逝に端を発する跡目争いは、あまりに多くの血を流していた。
次代を指名せずに没した先代が招いた事態だった。嫡男を喪ってから無駄に庶生の息子達だけを量産した彼の晩年のご乱心が、その生き方以上に自領に大混乱を引き起こしたのだ。
あくまで身内間の揉め事だったはずなのに、領主家内だけで収束できずに熾烈な武力闘争へと発展させてしまった。血気盛んな武門の気質のなせる業だろうか。
混迷を極めた主因は、傑出した候補者がいなかったことだと言われている。
どいつもこいつも五十歩百歩。おまけに利権を貪りたい外野までが参入したから、騒乱にはよりいっそうの拍車がかかった。たちまち領内随所で小競り合いが勃発。
程なく辺境領は未曽有の内戦状態に突入した。
それは血で血を洗う不毛な後継闘争で、結果としてエルンストの若様達は最後の一人になるまで殺し合うことになったのだ。
暗く永い、禍々しい季節。彼等が徒に疲弊させたのは、何より領地領民だ。
愚息達はなんら斟酌せずに農地を軍馬で踏み躙り、紛争当事者以外にも胡乱な輩を引き込んで、この地の治安を著しく悪化させた。略奪・強盗・誘拐……凶悪犯罪が蔓延るようになるまで、さして時間はかからなかった。
だからアル湖が約束してくれるはずの恵みと実りを、寄って集って損なったのは人間達だ。それも本来それを守るべき領主家の血を受けた愚か者達が、豊饒の大地を荒廃させたのだ。
荒れ果てた領地。激減した領民人口。
どちらも深刻な収穫減に直結する。食糧難が訪れるのは当然だ。
なのに領主家の財政は逼迫して火の車、もう破綻寸前。
そんなどん底状態で、お館様は家と領地を引き受けた。
生半可な腹の括り方ではなかったろう。それでも敢然と大口を叩き続けた。
独り荒れ野に立ち、決して逃げなかった。
治安悪化にだって、ただ手を拱いてはいなかった。
苛烈な手法に出たのは周知の事実だ。野盗も奴隷商も、捕える端から処刑してのけたのだから。夥しい数だったに違いない。
大量処刑が続いたある時期、刑場に幽霊が出ると噂が立ったことがある。
誰もが恐れ慄いたが、じきに辺境領民達の認識はより強烈に上書きされた。
――死人よりも、生きているお館様の方がずっと恐ろしい。
刑死者の埋葬がとても追い付かず、お館様が執行直前の罪人達には自身の手で墓穴を掘らせろと命じたからだ。
これには辺境領民達でさえ震え上がった。
――野盗よりも人攫いよりも、今度のお館様の方が遥かに怖い。
領民達には慈悲深くとも、歯向かう者には容赦しない。
だが、だからこそ野盗と奴隷商を悉く駆逐できたのだ。今でこそ野盗はこの地に近寄らず、奴隷商も辺境領を避けて通るなんて言われているが、並大抵の精神力で成し遂げられたろうか。
お館様の処置は苛烈でも必然だったが、激烈過ぎて非難が轟々と渦巻いた。
もっとも執拗だったのが、ドミネ教会である。
あまりに非道な所業だと言って来たそうだが、それは別にお館様が罪人達に道具を貸し与えず、爪が剥がれるまで素手で土を掻かせたせいではない。
罪人には告解も祈祷も弔いも不要だと、まったく坊主を呼ばなかった所為だ。
せっかくの稼ぎ時に儲けそこなったが故に、教会はお館様個人を攻撃して激しく詰った。実際に人道云々を振りかざすなら、もっと早い段階に何事かを語って然るべきである。だがそうしなかった。これも辺境ではよく知られた実話なのだった。
ちなみにドミネ教会からは、お館様に『破門するぞ!』と脅してきたらしい。
『それで、どうする?』と西の辺境伯は涼しい顔で返した――という風聞が、実しやかに流れたこともある。
こちらの真偽は不明である。だが教会は間違っても西の辺境領を異教徒の信仰圏に鞍替えさせたくはなかったはずだし、当代お館様ならさも言いそうではある。
――全部、お館様だ。
最後の一人になったお館様が、全てを覆した。
理不尽で残酷で。変わらないと思い込んでいた暗黒の世界を、力ずくにも動かしてみせた。
お館様だけだ――
死なないでいい命を、死なないで済むようにしてくれた。
この西の辺境領を、また皆が安心して暮らせる場所に戻してくれた。




