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黒髪の寵姫  獅子伯年代記Ⅰ    作者: vientoverde
第九章 凛々しいお姫様

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聖ソフィアの縁切り娘


  聖ソフィアの縁切り娘――


 (そうだ。なんで今まで忘れていられたのか)

 

 今やイアルは思い出していた。

 イアル達西の辺境領民の耳にまで届いた、衝撃的なあの噂を。世に名高い『駆け込み聖堂』聖ソフィア女子修道院から、遂に夫との離縁ではなく、親子の縁切りを願う申立てが出されたと。

 

 聖ソフィア女子修道院が大陸全土に名を馳せているのは、そこだけがドミネ教圏で唯一、女性側からの離婚申立が認められる場所だからである。

 俗世の法は、女性からの婚姻解消を許していない。だが聖ソフィアに駆け込めば話は別だった。聖母の慈悲に縋ることで、夫との悪縁を断ち切れる。ここから離縁状を発すれば、正式に離縁を成立できるとされていた。


『聖母の慈悲に縋る女性達の声には、必ず耳を傾けるべし』


 それが北の王家の始祖が、人の身で父なるドミネの神の子である自分を産み給うた聖母と交わした、大切な約定なのである。だからこそ、神の末裔である王家の権威で以て、聖ソフィアの特殊な機能が守られ続けてきた。

 つまりはこの世界でたった一箇所、聖ソフィアだけが公的に保障された女性達の離婚手続き機関だった。故に『駆け込み聖堂』と呼ばれていた。


 ただし、切れる縁はあくまで婚姻()だ。昨今ではその「()」を拡大解釈して婚約の解消も取り扱うものらしい。だが、実家との縁切りなんて前代未聞だった。

 親からの勘当や絶縁は日常的に認められているが、逆もあるなんて、未だ誰も考えすらしなかったのだ。よって、その風聞は大陸の西の果てまで駆け抜けて、大いに世を騒がせた。そして申立当事者には『聖ソフィアの縁切り娘』の二つ名が献上された。



「――何もかも。自分で決めたことです。後悔はしておりません」


 姫君の声は静かだった。


 自分で。自ら望んで絶った縁。そこにイアルは痛みを覚える。


「ですが……私が属していた世間では、決して許されないことだったのも事実です。そして、それは旦那様が生きておられる世界の常識でも同じです」


 家宰殿はあえて何も口を差し挟まない。下手に中断させる気はないようだった。


「それだけの禁を犯して、家と身分を捨てたのです。平民とすら言えない今の私は、とても皆様に姫と呼んでいただくような分際ではありません」


 ああ。それで――だから何かにつけ姫と呼ばないでって言われてたのか。でも、それは全然。問題ないですとイアルは思う。


「万一ことが顕かになれば、旦那様だってただではすまないはず。いいえ、旦那様の御身ひとつのことで終わらないかも知れない。私一人の我儘で、辺境伯家にもこちらのご領地にも……数え切れない程大勢の方々に、とんでもないご迷惑がかかります」


 うん。――まあ、察しは付いてます。そこいらへんは。なんとなく。

たいがいエライことになってるらしいのも。知ってますよ。けど、もうなったことは仕方ないし。それに第一、お館様がなさったことだ。


「旦那様は以前、私に約束してくださいました。……どうしても耐えられない時は、俺を頼れ。守ってやるからと。いよいよとなったら逃げて来い。懐に飛び込む鳥は、必ず匿い守ってやると」


 ――お館様。そんなこと仰ってたのか。


「――旦那様は、その約束を果たしてくださいました。事実、旦那様は私を迎えに来てくださった。一度差し伸べてくださった手を素直に取れなかった私を、それでもお見捨てにはならなかった。そして旦那様は、獅子伯様はこうして今も危険を省みず、ここに私を隠してくださっている」


 家宰殿は依然黙ったままだ。


「ですから、もうじゅうぶんなのです。これ以上は望みません」


 空約束はしないお館様と交わした、以前の約束。

 ――昨日今日の仲じゃあ、ないってことだよな。やっぱ。


「……旦那様、とお呼びなのですな」


(――は、い?) 


 覚えず、皆して一斉に家宰殿の顔を見る。


 いや、今、そこ?

この真摯で純な告白話の中で? この重い流れで、あえてそこ?


「ああ、そう呼べとお館様が仰せなのですか」


 あの――家宰殿、何を言ってるんすか?


「てっきり御名の方で呼ばれているものかとばかり」


 ――おいおい。家宰殿。てか、おっさん。何言ってんだよっ。


「ほう。それは、それは。いや、よいのですよ」

「な、名前呼びは、まだ恥ずかしくてっ」


 姫君はわかりやすく狼狽えた。顔も赤い。


「ほお。なるほど。慣れたら、御名でもお呼びせよと。そういうことですな。ほおお」 


 ――ちょ、おっさん! 変な意地悪すんなよ‼


 イアルはすんでのところで心の叫びを吞み込んだ。


(もとい、家宰殿――お願いです。もう、やめてあげて)


「――では近い内に、お館様にお会いいただきますかな」

「え」


 お。――これにて無事終了、か。

取り巻くイアル達はようやくホッと胸をなで下ろした。姫君はまだきょとんとしている。


「調整してみましょう。勿論、お約束は致しかねますが」


 家宰殿はイアル達が見慣れたいつもの顔に戻っていた。老獪さや剣呑さを隠した、穏やかな顔だ。ある種飄々とした、普段通りの顔。


「お察しでしょうが、今は農繁期です。奨励と労いを兼ねて随所を巡視なさるのは、領主たるお館様の大事なお役目。本来なら忙しなく各所を回る時分なのです。加えて、あなた様をお連れした後の始末で今年は少々、常の年よりも忙しくしておりますので」


 家宰殿の声も眼もいたって穏当である。


 ほうっ。一同は心から安堵した。

それがいい――お館様が、このやたらと凛々しい姫君に逃げられてしまわないうちに。


 姫君は、こくりと真剣な顔で頷いた。



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