黒髪の姫君
――-綺麗だ…
それがイアルの正直な、偽らざる第一印象だった。
麗しい姫君だった。
その夜お迎えした姫君は、通されたゼフィネさんの居間でローブを取った。
シャールが慣れた仕草でローブを預かる。
瞬間、ほおっ…と周囲に吐息が漏れたような気がしたのは、思い違いだったろうか。
姫君は美しかった。
それは飾りのない素の美しさだったのだと思う。
髪はやっと顎を越したくらいの長さで、ただ垂らしていた。
うなじは隠れるけれど、せいぜい肩に届くか届かないか。まだ背までは達しない、良家の子女にしてはいささか微妙な長さだった。それに髪には、リボンはおろか装飾の類が一つもなかった。
だが、この夜のイアルはまだそうしたことには気付かない。
姫君は黒髪である。
エルンスト辺境伯家の男が好む髪色だ。
西の辺境領は国境地帯に位置している。
大陸最西端にあるので辺境領と呼ばれているわけだが、別に王都の貴族達が思い込んでいるような僻地ではない。アル湖のおかげで豊かなこの領は、大昔から人やモノの往来も盛んでけっこう栄えてきた。
西の地の果て、海岸地帯には古来西海衆や諸部族が自立していて、彼等とは永い付き合いだ。加えて南方の砂漠には遊牧民が暮らしているし、引いては砂漠を挟んで南の大帝国とも接している。
陽光に恵まれた西と南の人間には黒髪が多い。この辺境領でもそうだ。また多様な人種が混じり合って住んでいて、混血も進んでいた。色んな髪色の人間がいて、その中で黒髪はさして珍しくもなく、ゴロゴロしている。
むしろ金髪の方が希少である。
金髪=美人になる短絡的な王国圏の美的先入観は当地でもしっかり定着していた。
だから先の奥方様のような金髪緑眼の容姿なら、物凄い美女なのだ。
しかし領主家エルンストは、旧い伝承を持つ家系だった。遥か遠い昔、家門の青年がアル湖の乙女と婚を結んだのが一門の興り――という異類婚姻譚である。
かつてエルンストの家に富と繁栄を約束した麗しの湖水の乙女は、実は人間ではなかった。アル湖の人魚なのだと云うのが通説になっている。水妖とか精霊だと云われたりもするし、或いは海の神の娘だとも云う。青く深いアル湖は淡水湖なのだが、湖底で異界の海と繋がっているという伝説もある。
いずれにせよ先祖が迎えた、その人ならぬ身の花嫁が黒髪だったのだ。
だから他所ではともかく、ここの領主家では金髪美女より黒髪の麗人の方が好まれる。その方が験がいいからだ。
この姫君は、真っ直ぐで艶やかな黒髪だった。
どうやら眸も黒い。黒眸黒髪。それに整った目鼻立ち。
何より、白く輝く月のような肌をしていた。
こんな肌の女性を、イアルはかつて一度も見たことがない。夜の部屋の灯りにその顔の輪郭が白く透けて、今にも溶け出していきそうだ。
大陸の東の端にある皇国の女性は、独特の肌をしていると聞いたことがある。
こういうカンジなのだろうか。
――綺麗なお姫様だなあ…。
思わず見惚れた。束の間、護衛の任も忘れかけて見惚れてしまう。
「こちらがゼフィネ殿。この家の主殿です」
シャールが冷静に進め出して、イアルの意識を場に呼び戻した。
惚けやがって――醒めたその銀灰色の眼がイアルを睨む。シャールの瞳は綽名通りの氷のようで、いつになく怖かった。
「ゼフィネにございます」
ゼフィネさんは、現役時代お館で客にしていたように優雅にお辞儀をした。
侍女頭の作法だ。にこやかな顔。艶のあるよく通る声。急な訳アリの来客に困惑している素振りはこれっぽっちもない。
姫君の紹介はあえて省かれた。
何も訊くな、姫の名さえも尋ねるな――それが暗黙の了解らしい。
「はじめまして、家主殿」
姫君の声は、凛とした響きだった。
「この度はお世話になります」
そして、ゼフィネさんに丁寧なお辞儀を返した。
端麗なカーテシー。貴婦人の所作だ。
――なんか。腰が低い?
こんなお姫様もいるのか。あの大公姫、先の奥方様とは全然違う。
ああ。でもしばらくここに、この家に逗留するのだ。この家の主は確かにゼフィネさんである。
(すごく礼儀正しいお姫様…なのかな?)
「…どうぞゼフィネと。お呼びくださいませ」
ゼフィネさんは穏やかに笑って窘めた。
鉄壁の仮面、無敵の外面。過ぎし日にはそう恐れられた笑顔である。
お館勤めの頃の侍女頭ゼフィネさんは、どんな無礼な客のどれほど無体な要求にも、常に笑みを絶やさず鮮やかに応対したという。最早、伝説の域らしい。
イアルには同じ笑顔にしか見えないのだが、長く端にいるとその細かな違い――笑顔の裏の苛立ちや怒り、切れ具合が透けて見えて、物凄く怖かったのだそうだ。
「この者はイアル。姫君の護衛を務めます」
姫君によろしくお願いしますと先に頭を下げられてしまい、イアルも慌てて丁重な騎士礼で返した。
平服でコレをやるとすごく間が抜けている気がする。だがしょうがない。
「お使いは引き続き、私めが致します。二、三日おきには参りますので」
わかりましたと頷く姫君に、シャールは「シャールです」と恭しく礼をした。
(何処からか知らないがここまで一緒に来といて――)
名乗りは今更とか?
相変わらず、食えないヤツだ。




