心臓に悪いこと その一発目
――はあ。もうじゅうぶん、心臓に悪いです……
昨夜シャールが帰ったのは、姫君が部屋で床に就かれてからだった。
去り際のあの一言が、今もイアルの耳を離れない。
「お疲れでしょう」
昨日は簡素な顔合わせと紹介の後、ゼフィネさんは挨拶もそこそこに姫君を二階にご案内した。
イアルもその後に付き随った。三人で部屋に入り、再び窓の施錠を点検して、イアルだけ部屋を出て廊下に控えた。ゼフィネさんはあらかじめ用意してあったらしい寝間着をお出しして、姫君に着替えを勧めた。洗顔の水は先に運んであった。
階下では低い話し声がしていた。シャールの声だけが時折聞こえてくる。
「……では。後程、温かいハーブティーでもお持ち致しましょう」
姫君はご自分でお着替えになるらしい。
すぐに退出したゼフィネさんは、イアルに目配せして階段を降りた。
イアルは立ち位置を変えて踊り場まで下がった。階下からも自分が見え、かつ姫君の所在が測れて、いざとなれば部屋の中へ飛んで入れる位には離れておく。
いくら護衛でも、うら若い姫君相手である。二人して死角に入るのは絶対によろしくない。常に誰かの目がある状態こそが望ましいのだ。
(あれ? ……イーサンのヤツ、もう帰ったのか?)
階下の話し声に、ゼフィネさんの声も混じるようになった。だがイーサンとラウルの気配は消えていた。ゼフィネさんはすぐに、寝る前のお茶を運んで階段を上がってきた。
「あら……余程、お疲れなのね」
早々に灯りが消えたとは思ったが、もう小さな寝息が聞こえてくる。
ゼフィネさんがドアの隙間から様子を確かめてくれた。お茶を待たずに姫君はサッサと就寝されたようだ。
(え。もう寝てんの?)
即寝? しかも爆睡とか? なんか――大物だなあ。
「お休み前には中から鍵を掛けていただくの…お伝えし忘れたわね」
しかもドアこそ閉めたが、鍵は開けたままだ。大らかなのか、無防備なのか。
ゼフィネさんとイアルは軽く顔を見合わせた。
少し前、姫君の部屋の鍵はどうするか、二人で話し合っていたのだ。不測に備えるならば、開けておいていただくと助かる。何かの時にドアを蹴破るのでは間に合わないこともあるからだ。しかし知らない家で初めて泊まるのに、施錠なしで寝るのは不安かも知れない。ましてや外から鍵を掛けられるのはもっと嫌だろう。
――咎人でも、囚われ人でもあるまいし。
イアルはついそんな風に思ってしまった。
見張っておけというゼフィネさんの言葉。窓の呼子細工。
姫君が「囚われている」かのようなこの錯覚を、この後イアルは何度も感じることになる。
(意外と肝が太いのかな。それとも疲れてるだけ?)
とりあえずさらっと説明して、施錠についてはご自分で決めてもらおう、そう話していたのだが。
イアルも階下に降りると、やはり残っているのはシャールだけだった。ラウルまでいない。
ゼフィネさんはイアルとシャールが揃った時点でハーブティーを淹れてくれた。たぶん自家製だ。一日の終わりに飲むお茶。イアルにはない習慣である。
普段は一人だ。こんな時間を持ち得ない。だいたいイアルの暮らしではハーブティーなんて飲まない。貰うこともないし、買い置きなんてしてない。
アル湖のおかげで辺境領では水質が良く、随所に湧く水をそのまま飲める。だからたまに呑むなら酒だ。それもエール一択。イアルはあまり強い酒を好まない。
(これ。……慣れたら、旨くなるのかな?)
茶葉の良し悪しなんてよくわからなかった。どうにか一杯は飲み切る。
イアルとシャール、ゼフィネさんの三人は、簡単な打ち合わせと確認を済ませた。
既に夜も更けていた。ではここでと、居間で辞したシャールをイアルが玄関先まで見送った。荷馬車は二台とも、とうに消えていた。
馬だけが嘶いた。入口の低い柵に程近い林檎の木に繋がれている。どの道もとうに暗いが、シャールはこれで帰るつもりらしい。
「もういい。戻れよ」
シャールはいつも以上につっけんどんだった。もう慣れっこで気にもならない。
「お前、護衛だろうが。早く戻れよ」
「今日はもう終了」
イアルは常になく軽い口調で返す。晩夏の一日、予想だにしない出来事の連続で張り詰めていた気が緩んで、妙に興奮していたのかも知れない。
「俺は姫君が朝起きてから夜お休みになるまで、の護衛だよ。だから今日はもう、あがりなんだ」
だが、イアルの昂ぶりは一瞬で冷水が浴びせられた。
「……ふん」
シャールは鼻を鳴らした。
年は下でも、いつもシャールの方が立場は強い気がする。まあ、それであまり腹も立たないのだが。
『お前、絶対に舐められてるぞ』
騎士団の連中にはよく注意もされる。
だが実際、万年平騎士のイアルよりもお館様の覚えめでたい筆頭小姓のシャールの方がエライはずだ。
辺境伯家騎士団所属のイアルは西の辺境領の職業軍人だが、王国から正式な騎士爵を賜ったたわけではない。あくまで地方限定の「騎士」職なのである。つまり地方の武官だ。
領外でも「騎士」を名乗れるのはごく一握りの人間に限られていた。家宰殿と騎士団長、それに第一から第三までの隊長が公的に叙任された騎士である。
一方、シャールは辺境伯家当主であるお館様の側仕えをしている。常に主の傍に仕えるという実態は、肩書以上に強い。さらにシャールは十代も後半になるから、じきにお館様付の従者になるだろう。単に後任の小姓がなかなか定着しないために、昇格が見送られているだけなのだ。
それに、シャールが舐めてない相手なんているのだろうか。館内の殆どの人間をシャールは小馬鹿にしているように思う。お館様以外の全員を。
(ああ、家宰殿とか侍女頭サルダーニャは別かな)
ゼフィネさんも別口かもしれない。
「――お前が、護衛か」
シャールの声は乾いていた。「ま、適任だな」
なんで? そう思ったが黙っていると、馬に跨りしな、まるで刺すようにシャールに言われた。
いや鋭利な切っ先で突かれたのだ。
「間違っても、惚れるなよ」
「はあ?」
イアルは素っ頓狂な声を出してしまった。クソ、油断した。シャールは片頬だけでふてぶてしく笑ってみせた。続いて、渾身の一撃が来た。
「あの方は、お館様のオンナだ」
「……っッ⁉」
シャールの言葉は、狙いすましてイアルの耳朶を強打した。
「……―――」
「わかったな?」
憎たらしいことに、シャールは唇だけで冷笑して念まで押した。
去り行く馬影が遠ざかる。だがシャールの後ろ姿が小さくなる程に、シャールの残した言葉はガンガンゴンゴン、イアルの耳の奥を谺し続けた。
それはおそらく、その長い一日で一番の衝撃だった。




