風の氏族の末娘
オークとゴブリンが争った跡は、もはや戦いの痕跡というよりも、ただの破壊の残骸だった。
こん棒で叩き潰されたのか、拳で砕かれたのか。ディルと同じように、原型を留めていないものがいくつも転がっている。緑の塊だったもの、裂けた肉、飛び出した骨。それらが無造作に散らばり、どれが誰だったのかも判別がつかない。
鼻は、もう役に立たなかった。
ずっと同じ匂いが張り付いている。
血と鉄の匂い。
それだけが、この空間のすべてを覆っていた。
シンと静まり返った洞窟の中、風が吹き抜ける音だけが耳に残る。
それが、妙に遠く感じた。
足取りが重い。
肩の傷が脈打つように痛むからではない。
一歩を踏み出すたびに、何かが胸の内側から押し返してくる。
進むな、とでも言うように。
身体が、拒んでいる。
それでも足は止まらない。
止まってしまえば、ここに留まってしまう気がした。
視線が動くたびに、目に入るものすべてが重しになる。
血。肉。緑の塊。骨。
動かなくなったものたちから流れ出た血は、石の床に染み込み、細い流れとなって一箇所へと集まっていた。
その先にできたのは、黒く濁った血溜まり。
ぴちゃ……。
小さな音がした。
視線を落とす。
自分の左腕だった。
矢に貫かれた傷口から、血がゆっくりと伝っていく。
指先へ、重く溜まった一滴。
それが落ちた。
血溜まりの中へと沈み、何事もなかったかのように混ざって消えた。
腕から、血が出ている。
肩を見ると、服が赤く滲んでいた。
じわりと広がる色が、現実を突きつけてくる。
出血は多くない。
むやみに矢を抜けば、逆に危ない。
分かっている。
分かっているのに、見てしまったことで痛みが増した気がした。
杖を一度離し、右手で傷の周りを押さえる。
「ぅっ……」
息が漏れる。
堪えた分だけ、苦しさが増す。
呼吸が浅く、速くなる。
「はぁ……はぁ……」
自分の呼吸音だけが、やけに大きく響いた。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前にあるのは――潰れた何か。
それを見ないように、意識的に視線を逸らしたまま屈み込む。
手探りでポーチを探る。
硬い感触。
それを掴み、引き抜く。
歪んだ金属。
冒険者証だった。
曲がり、凹み、元の形を失いかけている。
オークの一撃でそうなったのか、それとも最初からか。
考えようとしたが、思考は続かなかった。
そのまま、自分のポーチに押し込む。
視線を巡らせる。
――ケインがいない。
剣も盾も、何も残っていない。
口が、わずかに開いた。
「ケ……」
音にならない。
呼べば、そこにいる気がした。
確か、あの時。
オークに弾き飛ばされて――
(……助け……)
声が蘇る。
――やめた。
唇を閉じる。
そのまま、視線を落とした。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
考えない。
もう、そっちは見ない。
それ以上、思い出す前に思考を切り捨てる。
無理だ。
考えたら、壊れる。
落ち着いている。
なのに、何もまとまらない。
ケインの冒険者証は――回収できない。
諦める。
私には、できない。
ラウドの姿がよぎる。
あの状態。
その先を想像した瞬間、胃の奥が冷たくなる。
ディルも、見られない。
見てはいけない。
視線を逸らし、半ば逃げるように足を動かした。
ぴちゃ、と靴裏が鳴る。
血で濡れた石床が、足にまとわりつく。
セナのところへ戻る。
二人を見下ろす。
――どうすればいいのか、分からない。
運びたい。
せめて、ギルドへ。
この人たちには、帰る場所があるはずだから。
誰かが待っているはずだから。
私にもいる。
母さまも、父さまも。
だから。
人として、弔われる最期がいい。
そう思うのに。
右手一本で杖を握るだけの自分には、何もできない。
二人どころか、一人すら運べない。
無理だ。
脳裏に浮かぶのは、あの男。
万年Dランクの冒険者――ガルド。
即席のソリを作って、怪我人を運んでいた姿。
でも、ここから街まで?
この状態で?
私に、そんな体力があるのか。
――あれ?
おかしい。
家訓。
言ったなら、やる。
思ったなら、動け。
なら、どうして。
どうして私は、動けない。
――動け。
頭の中で、声がする。
一歩。
出そうとした。
ぐらり、と視界が揺れる。
息が詰まる。
肺がうまく動かない。
踏み出した足は、半歩も進まずに止まった。
違う。
動けないんじゃない。
――動かない。
身体が、拒んでいる。
一歩が出ない。
それをしたら。
――私は。
咄嗟に首元へ手を伸ばす。
冒険者証を掴み、それを見つめる。
冷たい金属の感触。
それが、急に恐ろしくなった。
まるで――
今まで集めたそれらと同じ側に、自分が落ちるような予感。
一歩、後ずさる。
視線が定まらない。
ここにいてはいけない。
「……なさい」
声が、かすれる。
「ごめんなさい……」
もう一歩、下がる。
足が何かに引っかかる。
バランスを崩し、そのまま尻もちをついた。
鈍い痛み。
けれど、その瞬間。
反射的に、杖を構えていた。
何もいない。
それを確認して、初めて自分の息の荒さに気づく。
躓いたものを見る。
緑と赤の、何か。
形を持たないそれ。
「……気持ち悪い」
足で蹴る。
ぐに、とした感触が靴裏に伝わる。
その感触が、離れない。
もう無理だ。
耐えられない。
数歩、走ったところで足が止まる。
振り返れば、まだ見える距離だ。
二人の場所。
わかっている。
見れば、戻れなくなる。
呼吸が乱れる。
喉の奥が詰まる。
――見ない。
視線を無理やり前へ戻す。
私は、逃げるように走り出す。
振り返らない。
見ない。
考えない。
通ってきた道へと、ただ戻る。
洞窟の暗がりの中へ。
その影に飲み込まれるように、私は消えていった。




