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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
24話
127/153

風の氏族の末娘

 


 オークとゴブリンが争った跡は、もはや戦いの痕跡というよりも、ただの破壊の残骸だった。


 こん棒で叩き潰されたのか、拳で砕かれたのか。ディルと同じように、原型を留めていないものがいくつも転がっている。緑の塊だったもの、裂けた肉、飛び出した骨。それらが無造作に散らばり、どれが誰だったのかも判別がつかない。


 鼻は、もう役に立たなかった。

 ずっと同じ匂いが張り付いている。


 血と鉄の匂い。


 それだけが、この空間のすべてを覆っていた。


 シンと静まり返った洞窟の中、風が吹き抜ける音だけが耳に残る。

 それが、妙に遠く感じた。


 足取りが重い。


 肩の傷が脈打つように痛むからではない。

 一歩を踏み出すたびに、何かが胸の内側から押し返してくる。


 進むな、とでも言うように。


 身体が、拒んでいる。


 それでも足は止まらない。

 止まってしまえば、ここに留まってしまう気がした。


 視線が動くたびに、目に入るものすべてが重しになる。


 血。肉。緑の塊。骨。


 動かなくなったものたちから流れ出た血は、石の床に染み込み、細い流れとなって一箇所へと集まっていた。

 その先にできたのは、黒く濁った血溜まり。


 ぴちゃ……。


 小さな音がした。


 視線を落とす。

 自分の左腕だった。


 矢に貫かれた傷口から、血がゆっくりと伝っていく。

 指先へ、重く溜まった一滴。


 それが落ちた。


 血溜まりの中へと沈み、何事もなかったかのように混ざって消えた。


 腕から、血が出ている。


 肩を見ると、服が赤く滲んでいた。

 じわりと広がる色が、現実を突きつけてくる。


 出血は多くない。

 むやみに矢を抜けば、逆に危ない。


 分かっている。

 分かっているのに、見てしまったことで痛みが増した気がした。


 杖を一度離し、右手で傷の周りを押さえる。


「ぅっ……」


 息が漏れる。


 堪えた分だけ、苦しさが増す。

 呼吸が浅く、速くなる。


「はぁ……はぁ……」


 自分の呼吸音だけが、やけに大きく響いた。


 ゆっくりと顔を上げる。


 目の前にあるのは――潰れた何か。


 それを見ないように、意識的に視線を逸らしたまま屈み込む。

 手探りでポーチを探る。


 硬い感触。


 それを掴み、引き抜く。


 歪んだ金属。


 冒険者証だった。


 曲がり、凹み、元の形を失いかけている。

 オークの一撃でそうなったのか、それとも最初からか。


 考えようとしたが、思考は続かなかった。


 そのまま、自分のポーチに押し込む。


 視線を巡らせる。


 ――ケインがいない。


 剣も盾も、何も残っていない。


 口が、わずかに開いた。


「ケ……」


 音にならない。

 呼べば、そこにいる気がした。


 確か、あの時。

 オークに弾き飛ばされて――


(……助け……)


 声が蘇る。


 ――やめた。


 唇を閉じる。

 そのまま、視線を落とした。


 胸の奥が、鋭く痛んだ。


 考えない。

 もう、そっちは見ない。

 それ以上、思い出す前に思考を切り捨てる。


 無理だ。


 考えたら、壊れる。


 落ち着いている。

 なのに、何もまとまらない。


 ケインの冒険者証は――回収できない。


 諦める。


 私には、できない。


 ラウドの姿がよぎる。

 あの状態。


 その先を想像した瞬間、胃の奥が冷たくなる。


 ディルも、見られない。


 見てはいけない。


 視線を逸らし、半ば逃げるように足を動かした。


 ぴちゃ、と靴裏が鳴る。

 血で濡れた石床が、足にまとわりつく。


 セナのところへ戻る。


 二人を見下ろす。

 ――どうすればいいのか、分からない。


 運びたい。

 せめて、ギルドへ。


 この人たちには、帰る場所があるはずだから。

 誰かが待っているはずだから。


 私にもいる。


 母さまも、父さまも。


 だから。


 人として、弔われる最期がいい。


 そう思うのに。


 右手一本で杖を握るだけの自分には、何もできない。


 二人どころか、一人すら運べない。


 無理だ。


 脳裏に浮かぶのは、あの男。


 万年Dランクの冒険者――ガルド。


 即席のソリを作って、怪我人を運んでいた姿。


 でも、ここから街まで?

 この状態で?


 私に、そんな体力があるのか。


 ――あれ?


 おかしい。


 家訓。


 言ったなら、やる。

 思ったなら、動け。


 なら、どうして。


 どうして私は、動けない。


 ――動け。


 頭の中で、声がする。


 一歩。

 出そうとした。


 ぐらり、と視界が揺れる。


 息が詰まる。

 肺がうまく動かない。


 踏み出した足は、半歩も進まずに止まった。


 違う。

 動けないんじゃない。


 ――動かない。


 身体が、拒んでいる。


 一歩が出ない。


 それをしたら。


 ――私は。


 咄嗟に首元へ手を伸ばす。

 冒険者証を掴み、それを見つめる。


 冷たい金属の感触。


 それが、急に恐ろしくなった。


 まるで――

 今まで集めたそれらと同じ側に、自分が落ちるような予感。


 一歩、後ずさる。


 視線が定まらない。


 ここにいてはいけない。


「……なさい」


 声が、かすれる。


「ごめんなさい……」


 もう一歩、下がる。


 足が何かに引っかかる。


 バランスを崩し、そのまま尻もちをついた。


 鈍い痛み。


 けれど、その瞬間。


 反射的に、杖を構えていた。


 何もいない。


 それを確認して、初めて自分の息の荒さに気づく。


 躓いたものを見る。


 緑と赤の、何か。


 形を持たないそれ。


「……気持ち悪い」


 足で蹴る。


 ぐに、とした感触が靴裏に伝わる。


 その感触が、離れない。


 もう無理だ。


 耐えられない。


 数歩、走ったところで足が止まる。


 振り返れば、まだ見える距離だ。

 二人の場所。

 わかっている。


 見れば、戻れなくなる。

 呼吸が乱れる。

 喉の奥が詰まる。


 ――見ない。


 視線を無理やり前へ戻す。


 私は、逃げるように走り出す。


 振り返らない。


 見ない。


 考えない。


 通ってきた道へと、ただ戻る。


 洞窟の暗がりの中へ。


 その影に飲み込まれるように、私は消えていった。

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