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決別

 なんとか、玲奈を負ぶって、家までたどり着いた。

 何かを言われるかとも思ったが、親父と母は、玲奈の宿泊をすんなりと受け止めた。祭りの出店で俺も玲奈も、たらふく食った後だ。あとはお風呂に入って寝るだけだった。


「母さん、玲奈がケガしてるんだ。傷口を洗ってやってくれないか」


 母は軽く返事をした後、風呂場へと玲奈を連れて行った。その間、俺は親父と一緒に押し入れから来客用の布団を出した。


「ちょっと匂うかも知らんが、仕方なか」


 来客用の布団なんてしばらく使っていなかったから、すこし黄ばんでしまっている。布団カバーだけは洗ったものに変えたが、どこか古臭い匂いが残った。


「これ、どこに敷けばいい?」


 親父に尋ねると、親父は白髪頭をポリポリとかいた。

 家は平屋で、そこまで部屋数があるわけではない。親父と母は、祖父母の仏壇のある和室に布団を敷いて寝ている。俺はそこから襖で分けられた隣。縁側のある窓が開いている和室で寝ている。それ以外は風呂場と台所兼食卓――もっともテレビが俺の寝ている和室にしかないため、食卓で食事をすることはあまりない――があるだけで、あとは廊下とトイレ。


「……凪と同じ部屋に敷くか」


 半ば予想は出来たが、少々気まずいものがあった。

 布団を並べて敷き終えたところで玲奈が風呂から上がってきた。まだ足の裏の傷が痛むらしく、一歩一歩の度に顔を歪めている。洗い髪はシャンプーの香りを漂わせていて、まだ濡れている皮膚に吸い付いた服は身体のラインを浮き立たせていた。


「凪兄の家に泊まるなんて、懐かしいわ」


 くしゅくしゅと長い髪をタオルで拭いながらつぶやく。


「あ、ああ。その……俺と同じ和室で、寝ることになったみたいだ」

「そう」


 あっけらかんとした返事が、返ってきた。いや、別に取り立ててかき乱されるようなことでもないか。――俺は冷静さを取り戻すために湯を浴びた。

 風呂から出ると、玲奈は先に布団に入っていた。寝入ってはおらず、縁側のある窓の閉じられた障子をじっと見つめていた。


「ねえ、凪兄」

「――なんだ?」


 俺が、武骨な脚を、冷やっこい布団の中に入れたところで、玲奈が背中越しに言葉を投げてきた。


「凪兄の中で答えは出ているの?」

「どういうことだ?」

「自分で自分を許すことができるのって聞いてるの」


 くるりとこちらを振り向いて、俺の瞳をのぞき込んだ。障子越しの月灯りのみ、真っ暗闇に近い視界の中でも、彼女の眼力は伝わった。


「大丈夫だ。きっと大丈夫」

「なら、いいけど――」


 もぞもぞと布団の中で身体を動かし、寝入ろうと姿勢を変える玲奈。


「明日の朝、行ってみようと思う場所がある。――俺が帆波の幻影と出会った場所だ」


 玲奈の家の近く。カシオペア座がよく見える岩礁。そこで俺は、瑠璃色の髪をした少女に出会った。非現実的な髪色をした彼女は、帆波とよく似た匂いがした。自身のことは、帆波になりたくてなれない存在だと謳った。

 やっぱり、あれは、俺の中にいる帆波に寄せた慕情だった。だから俺がどれだけ想っても幻影は幻影のまま。それどころか、俺が求めれば求めるほど、俺を責め立てる影の色も強まった。

 荒波(アラナミ)(サザナミ)も。すべては俺の中にいる未練から産まれたもの。


「……いっしょに来てもらってもいいか」

「分かった」

 

 親父もそれを読み取っていたんだろう。

 同じく玲奈もそれを読み取っていた。だから、俺は俺自身と向き合わなくてはいけない。それに俺は、親父も母も玲奈のことも、周りを巻き込み続けてきた。最後くらい自分で落とし前をつけるべきなのに。

 こんなときまで俺は、玲奈の助けを求めてしまっている。それに玲奈は嫌がるわけでもなく、即答してくれた。


「あたしは、凪兄の力になりたいから」


 そっと目を閉じる。――俺は帆波のためにしか生きれなかった。帆波を失い、俺は生きる目的を失った。残された時間をただただ消化していた。


 だけど、皆はそれを許してくれない。

 いや、許さないでくれたんだな。


『お父さんも、お母さんも。みんな、他人なんかになりたくないの』


 そんなひたむきな期待を、俺はずっとへし折って来たのか。

 それで俺は自分が弱いことを言い訳にして、ずっと顔を俯けてきたんだな。なんだそれ。俺が一番残酷じゃないか。

 今更、こんな俺に何ができるだろう。そんな思考を、頭の中でぐるぐると回していた。


 明くる朝。あのむせ返るほど湿った空気は、どこへやら。爽やかな日差しが天から降り注いでいた。昼に向かって少しずつ大地に熱を持たせ、逃げ水を湧きたたせる準備をしている。

 潮騒は穏やかで。海鳥たちの歌声がよく聞こえる。海に突き出た岩礁を歩く俺と玲奈の足音も。

 まさに彼女の名前に相応しい情景だ。

 (サザナミ)、彼女は帆波によく似た容姿をしている。それが故に、海の青さをそのままにした非現実的な髪色が、不協和音を奏でている。


「……来たんだ」


 岩礁の先端に腰かけた彼女は、すくっと立ち上がる。可愛らしい膝小僧を手ではらい、俺のところへてくてくと歩いてきた。


「教えてくれ。お前は、俺が帆波に寄せた未練なのか」


 瑠璃色の瞳に、うっすらと涙をにじませる。


「そう。それを認めたら、私はもう形を保てなくなる。私が、帆波に似ている必要性もなくなってしまうから。――それでいいの?」


 俺はゆっくりと頷いた。


 その瞬間、それまでの穏やかな波とは、不釣り合いな激しい波音が木霊した。


「それでも消えたくないと、私が……」

「あたしが言ったらどうするのっ」


 消えたくない。その言葉とともに、背後に気配を感じた。

 太陽は(サザナミ)の背中の方向から差しこんで、俺の方に向かって彼女の影を伸ばしている。

 ちょうど、その影の先端で、その気配は立ち昇った。


「凪兄っ」


 玲奈が叫ぶ。きっと、恐ろしい姿だろう。俺を何度も苦しめてきたそいつは。だけどもう、逃げないと決めた。

 気配の方へと、向き直る。そいつはやはり、鼻の曲がるような腐臭を漂わせて、青紫色に変色した死人の肌をして。ずたずたに引き裂かれた白いワンピース。毒に侵されて、ただれた皮膚。絡みついた海藻に漁網。俺が覚えている限りの、帆波を襲った痛みを背負って現れた。


 こいつは――


 一歩。一歩と、いつもは、いたぶるような足取りで、俺に歩み寄ってきたこいつに、今度はこちらから歩み寄った。するとそいつは、一歩、また一歩と後ずさりをした。

 そして、ついには尻餅をつき、がたがたと震え出した。


「来ないでっ」


 か細い声を振り切って、腐臭も、ぐっちょりと濡れて、ずるずると汁を滴らせる醜悪な肢体も、すべてを受け入れるように抱きしめた。

 そいつは、しばらくがたがたと震えるのみだったが、やがて細っこいその腕を俺の背中へとまわした。

 冷たい。(サザナミ)の手とも、玲奈の手とも違う。そいつの手は、まさしく死人の温度をしていた。


「……もう。大丈夫なんだね……」


 死人は、静かにそう呟いた。

 

 ぼとり。ぼとり。死人は腐臭を放ちながら崩れ落ち、その肉片は、岩肌に触れるととろりとした水になった。あとには泡沫を浮かべたいくつかの小さな潮だまりとなり、死んだ海月くらげと根無し草となった海藻が、地面に張り付いていた。


 俺はこいつの存在を求めていたんだ。帆波を救えなかった自分を呪うために。


 もうひとり。――生きたままの姿をした、(サザナミ)ももちろん、俺が求めていた幻想だ。


「さざな――」


 振り返って名前を呼ぼうとしたとき、彼女はそこにはいなかった。

 (サザナミ)荒波(アラナミ)も、消えるときは突然だ。泡沫がはじけ飛ぶように。


 どこか寂しい。終わりは、濃い潮水のような味がした。


「……凪兄」


 少しだけ自失に堕ちそうになっていた俺を、その声は呼びとめた。玲奈に俺は、歪んだ笑みを向ける。


「――まだ痛い。痛いなあ」


 (サザナミ)は言った。形を保てなくなると。でもそれは、形がなくなるだけで、幻想や痛みが消え失せることではない。それらは形をなくしても、ずっと残り続ける。

 それが分かっても、どこか気持ちは晴れていた。

 玲奈は、俺の歪んだ不器用な笑みの奥にそれを読み取ったのか、静かに口角を上げた。

 見上げた空に一羽のカモメが飛ぶ。

 

 どうしてだか、その姿が目に焼き付くように感じられた。それこそ、何度見たか分からない光景なのに。


     ***


 それから、ほどなくして、俺は湘南に戻った。

 心を洗ってくれる透き通った海はないけれど、心の濁りは薄まった。以前は湘南には住んでいただけで、仕事先は横浜にある貿易関係の会社だったが、今回の勤め先は湘南の沿岸付近の観光開発を手掛けるコンサルタント会社。

 仕事の関係上、海の家の経営者や、プロサーファー、ダイビングセンターと海に縁のある人々との交流が多くなった。正直、前の仕事場よりも性に合っている気がする。


 観光雑誌やローカル放送のスタッフと打ち合わせをして、レジャー産業との仲介を取り持つのが、主な仕事だ。打ち合わせの終了後は、気ままに海岸沿いを散歩してから帰る。

 前に住んでた家は、引き払おうかとも思っていた。

 もともと、理海(りみ)帆波(ほなみ)と住んでいた家だ。マンションとはいえ、ひとりで暮らすには広すぎると思っていた。だけど、バルコニーから海を臨めるというロケーションが気に入っていた。


 干していた服に潮がつく。理海(りみ)はよくそれをゴネていたかな。懐かしい想い出が蘇っても、以前ほど痛みはなくなっていた。

 コンクリート製の階段を上がる。帆波が、ここを始めて自力で上り下りできるようになった時のことを思い出す。故郷の長崎に俺を追い立てた呪縛は、どこか愛おしく、ひっそりとひとり笑いを漏らす。

 心に開いた穴は、塞がれたわけじゃないけれど。それも海辺の風穴のようで、どうにか見れるものになってきた。


 二階の階段の降り口から三番目のドアが、俺の家だ。

 鍵を挿して回す。こちらがドアノブに手をかけようとした瞬間に、内側から回された。

 細い腕。染めた金髪。そして、笑顔。


「おかえりっ、凪兄」


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