看病
夜風が冷たい。
ふと目を覚ましたとき、部屋の中に微かなざわめきが聞こえてきた。窓の隙間から入る風がカーテンを揺らし、その先から廊下を急ぐ足音が微かに耳に届く。
何かあったのだろうか。辺境の地での静かな夜には似つかわしくないその音に、私はベッドを降り、ドアを開けて廊下に顔を出した。
「……どうしましたか?」
慌ただしく行き交う召使いの一人に声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。少し迷うようにしてから、やがて声を低めて言った。
「申し訳ありません、アリシア様。エーヴェルト様が……少しお体の具合を崩されまして」
「お体の具合……?」
彼女の言葉を反芻する。冷静で揺るぎない、あの「氷の伯爵」が体調を崩したという事実がすぐには理解できなかった。
「高熱が出ておりまして……もともとお身体があまり強くない方でございますので、無理をされてしまったのかと」
召使いの表情には心配が浮かんでいた。彼女たちがこんなにも慌ただしく動く様子を見ると、事態が尋常ではないことが分かる。
「……私も行きます」
そう告げると、彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに深く頭を下げた。
伯爵の部屋に向かう廊下はひどく冷たかった。いや、それは私の足元が感じた空気のせいではなく、心に流れる妙な緊張のせいだ。
扉の前に立つと、中からわずかに人の話し声が聞こえた。執事が医師と話しているらしい。その合間に漏れるかすれた声――それが、伯爵自身のものだと気づくのに数秒かかった。
「入ってもよろしいでしょうか?」
扉を軽く叩いて声をかける。中にいた執事は驚いたようだった。
「アリシア様……しかし、こんな場所に……」
「気にしないでください。何かできることがあれば、お手伝いさせていただきたいのです」
その言葉に執事は少し迷ったようだったが、やがて静かに扉を開けてくれた。
部屋に入ると、熱気がこもっているのが分かった。暖炉の火が赤々と燃えているが、それ以上に感じたのは、病に伏した伯爵の体が発する異常な熱だった。
ベッドの上に横たわる彼は、冷静なときの面影を微かに残しながら、どこか苦しげに顔を歪めていた。額に汗が浮かび、呼吸は浅い。彼の冷静さや冷徹さを象徴するかのようなその顔が、今は崩れている。
「どうしてここに来た?」
彼が薄く目を開け、かすれた声でそう言った。だが、その目に力はなく、声にも普段の冷たさは感じられなかった。ただ弱々しい響きだけが耳に残る。
「放っておけるわけがありません」
私はそう言いながら、側に座った。彼の額にそっと触れると、その熱さに驚き、思わず手を引っ込めそうになる。けれど、それを堪えて、濡れた布を用意して額に置いた。
「……必要ない」
彼はそう呟いたが、その言葉に反抗するように、私は布を押さえたまま動かなかった。
「必要があるかないかは私が決めます」
その言葉を聞いて、彼が僅かに笑ったように見えた。だが、それは錯覚だったかもしれない。すぐに彼の顔から表情が消えたからだ。
「……無駄なことだ」
「無駄だと思うなら、どうぞお好きにおっしゃってください。私は無駄だと思っていませんから」
彼がそれ以上何かを言うことはなかった。ただ目を閉じ、浅い呼吸を続ける。その間に私は、彼の額の汗を拭き、冷たい布を何度も取り替えた。傍にいた医師が小さく頷き、私に任せるようにその場を離れていくのが見えた。
◆◆◆
時間がどれほど経ったのか分からない。部屋の中は静まり返り、ただ彼の呼吸音だけが響いている。
「……君は、なぜ泣いた?」
突然の問いに、私は驚いて顔を上げた。彼は目を閉じたままだったが、その声が確かに問いかけている。
「……うさぎのこと、ですか?」
「そうだ」
私は少し考えた後、答えた。
「命が失われるのが、ただ悲しかったのです」
彼は答えなかった。ただ、再び静かな呼吸だけが部屋に戻ってきた。そのまま眠りについたのだろう。私はその姿を見つめながら、もう一度冷たい布を取り替えた。
彼の冷たさと、この部屋の熱――それがどこかで混ざり合い、彼の中にどんな感情を生んでいるのかは分からない。ただ、彼がほんの少しでも休まるのなら、それで十分だと思った。




