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行かないで、と言ったでしょう?  作者: 松本雀


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14/20

看病

夜風が冷たい。


ふと目を覚ましたとき、部屋の中に微かなざわめきが聞こえてきた。窓の隙間から入る風がカーテンを揺らし、その先から廊下を急ぐ足音が微かに耳に届く。


何かあったのだろうか。辺境の地での静かな夜には似つかわしくないその音に、私はベッドを降り、ドアを開けて廊下に顔を出した。


「……どうしましたか?」


慌ただしく行き交う召使いの一人に声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。少し迷うようにしてから、やがて声を低めて言った。


「申し訳ありません、アリシア様。エーヴェルト様が……少しお体の具合を崩されまして」


「お体の具合……?」


彼女の言葉を反芻する。冷静で揺るぎない、あの「氷の伯爵」が体調を崩したという事実がすぐには理解できなかった。


「高熱が出ておりまして……もともとお身体があまり強くない方でございますので、無理をされてしまったのかと」


召使いの表情には心配が浮かんでいた。彼女たちがこんなにも慌ただしく動く様子を見ると、事態が尋常ではないことが分かる。


「……私も行きます」


そう告げると、彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに深く頭を下げた。


伯爵の部屋に向かう廊下はひどく冷たかった。いや、それは私の足元が感じた空気のせいではなく、心に流れる妙な緊張のせいだ。


扉の前に立つと、中からわずかに人の話し声が聞こえた。執事が医師と話しているらしい。その合間に漏れるかすれた声――それが、伯爵自身のものだと気づくのに数秒かかった。


「入ってもよろしいでしょうか?」


扉を軽く叩いて声をかける。中にいた執事は驚いたようだった。


「アリシア様……しかし、こんな場所に……」


「気にしないでください。何かできることがあれば、お手伝いさせていただきたいのです」


その言葉に執事は少し迷ったようだったが、やがて静かに扉を開けてくれた。


部屋に入ると、熱気がこもっているのが分かった。暖炉の火が赤々と燃えているが、それ以上に感じたのは、病に伏した伯爵の体が発する異常な熱だった。


ベッドの上に横たわる彼は、冷静なときの面影を微かに残しながら、どこか苦しげに顔を歪めていた。額に汗が浮かび、呼吸は浅い。彼の冷静さや冷徹さを象徴するかのようなその顔が、今は崩れている。


「どうしてここに来た?」


彼が薄く目を開け、かすれた声でそう言った。だが、その目に力はなく、声にも普段の冷たさは感じられなかった。ただ弱々しい響きだけが耳に残る。


「放っておけるわけがありません」


私はそう言いながら、側に座った。彼の額にそっと触れると、その熱さに驚き、思わず手を引っ込めそうになる。けれど、それを堪えて、濡れた布を用意して額に置いた。


「……必要ない」


彼はそう呟いたが、その言葉に反抗するように、私は布を押さえたまま動かなかった。


「必要があるかないかは私が決めます」


その言葉を聞いて、彼が僅かに笑ったように見えた。だが、それは錯覚だったかもしれない。すぐに彼の顔から表情が消えたからだ。


「……無駄なことだ」


「無駄だと思うなら、どうぞお好きにおっしゃってください。私は無駄だと思っていませんから」


彼がそれ以上何かを言うことはなかった。ただ目を閉じ、浅い呼吸を続ける。その間に私は、彼の額の汗を拭き、冷たい布を何度も取り替えた。傍にいた医師が小さく頷き、私に任せるようにその場を離れていくのが見えた。


◆◆◆


時間がどれほど経ったのか分からない。部屋の中は静まり返り、ただ彼の呼吸音だけが響いている。


「……君は、なぜ泣いた?」


突然の問いに、私は驚いて顔を上げた。彼は目を閉じたままだったが、その声が確かに問いかけている。


「……うさぎのこと、ですか?」


「そうだ」


私は少し考えた後、答えた。


「命が失われるのが、ただ悲しかったのです」


彼は答えなかった。ただ、再び静かな呼吸だけが部屋に戻ってきた。そのまま眠りについたのだろう。私はその姿を見つめながら、もう一度冷たい布を取り替えた。


彼の冷たさと、この部屋の熱――それがどこかで混ざり合い、彼の中にどんな感情を生んでいるのかは分からない。ただ、彼がほんの少しでも休まるのなら、それで十分だと思った。

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