親子
それは、別の世界のようだった。
朝、目が覚めると、窓の外には新鮮な空気を含む風景が広がっていた。辺境の地ということもあり、ここには街のような喧騒はない。代わりに、鳥のさえずりや木々のざわめきが私の一日を包んでくれる。
私の療養生活は、穏やかそのものだった。本を読んだり、庭を散策したり――特に庭で花の名前を教わる時間が心地よかった。屋敷の庭師は優しい老人で、名前を覚えるのが苦手な私にも辛抱強く付き合ってくれた。
「この花は『スノードロップ』。春の初めに咲く花ですね」
指先でそっと触れながら教えてくれるその声に耳を傾けていると、まるで自分が花の一部になったような気さえした。
そんな静かな日々が続いていたある日、伯爵が私を呼び出した。
「馬に乗ることはできるか?」
広い中庭で待っていた彼の第一声は、いつもながら感情が読めないものだった。伯爵は白い手袋をはめた手を優雅に動かしながら、私をじっと見つめている。
「馬に、ですか?」
私は戸惑いを隠せなかった。療養に来ている私が馬に乗る理由など、まったく思いつかなかったからだ。
「無理なら教えるが、どうする?」
「乗ったことはあります。ただ、それほど上手では……」
「それで十分だ」
私が答え終わる前に、伯爵はそう言い切った。執事が連れてきた美しい馬が二頭。私が見つめる間に、彼は手際よく馬具を整え、私の手を引いて馬に乗せてくれた。
彼の手は冷たかった。いや、それは手袋越しの感触のせいだろう。そう思おうとしたが、それでも彼の指先が妙に鋭く感じられた。
◆◆◆
馬を進めると、屋敷から遠ざかり、緑がどこまでも広がる草原へとたどり着いた。空はどこまでも高く、風が吹き抜けるたびに草が揺れ、その匂いが心地よかった。
「どうだ?」
伯爵が低い声で問いかける。その声は、草原の風の中でもはっきりと耳に届いた。
「とても綺麗です」
嘘ではない。この場所には街にはない自由さがあり、風景そのものが私の心を静かに揺さぶった。彼は頷きもせず馬を降り、遠くを眺めていた。その横顔はどこまでも冷たく、けれどこの広大な草原に不思議と似合っている。
そのとき、視界の端に動くものがあった。
「あ……!」
それは小さなうさぎだった。しかも、親子だ。小さな仔うさぎが親の足元にぴたりと寄り添い、草を啄んでいる。私は思わず馬から降り、少し離れた位置でその様子を眺めた。
かわいらしい。静かに動く親子の姿に、自然と微笑みが浮かんだ。こんな光景を見るためにここに来たのだと、少しだけ思った。
けれど、その瞬間、遠くで「カチリ」という金属音がした。
振り返ると、伯爵が銃を構えていた。その銃口は、まっすぐに親うさぎを捉えている。彼の目には一片の迷いもなく、引き金を引くための冷たい決意だけが浮かんでいた。
「やめてください!」
私は思わず叫び、彼の前に駆け寄った。
「どうしてそんなことを……あの子たちを撃たないでください!」
自分でも驚くほどの声の大きさだった。涙が溢れそうになるのを感じながら、私は彼の手にしがみつくようにした。その手は微動だにしない。
「理由がある」
彼の声は冷静だった。それがかえって私を震えさせた。
「理由なんて関係ありません! あの子たちはただ、生きているだけです!」
銃を持つ手を掴み、その動きを止めようとした。私の涙が頬を伝う。彼はしばらく私を見下ろしていたが、やがて銃口をゆっくりと下げた。
「……そうか」
それだけを言い残し、彼は銃を肩に担いだ。私がどれだけ泣いていたのかも、どれだけ動揺していたのかも、彼は気にする様子すらなかった。
帰りの道すがら、彼は一言も口を開かなかった。けれど、うさぎの親子が無事だったことを思うと、私は少しだけ安堵した。
この地での療養がどのような形を取るのかは分からない。それでも――私はこの場所に、少しだけ心を預ける気持ちになった。




