あの子が二度と還らぬように【生贄】
「助けてくれ、キャサリン!」
元婚約者のジュリアスが飛び込んできたとき、公爵令嬢キャサリンは新しい婚約者とお茶を楽しんでいた。
申し訳なさそうな顔の門番を叱る気にはなれない。
廃太子となったものの、ジュリアスはまだ王子なのだ。力尽くで追い払うわけにはいかなかったのだろう。
キャサリンは新しい婚約者のローレンスを見た。
彼は侯爵家の令息で、跡取りではないので家の持つ余剰の爵位をもらって独立することになっている。
ローレンスがずっと婚約者を決めなかったのは、独立してもどうなるかわからない不安定な立場ゆえ、と表明されている。本当は初恋相手を想ってのことだったと、今のキャサリンは知っている。
「どうなさったのですか、殿下」
「……ローレンス」
ジュリアスは複雑そうな表情を浮かべた。
ローレンスは王太子だったころの彼の側近候補だったのだ。
今のジュリアスの婚約者、男爵令嬢のディザイアとの不適切な関係に苦言を呈したため、ローレンスは早くに側近候補から外されていた。少し俯いて考えて、それからジュリアスは顔を上げた。彼はローレンスを見つめて言う。
「君も気づいていたのだよな?」
「なににですか?」
「ディザイアの髪がピンクではないことにだ」
キャサリンとローレンスは顔を見合わせた。軽く首を傾げて、ローレンスが答える。
「ディザイア嬢はピンクのお髪でしょう?」
「違う!……いや、確かに今はピンクの髪だ。でも昔は、出会ったころは金髪だったのだ。私の日記にはそう書いてあった」
「殿下の好みに合わせてお染めになられたのでしょう。始まりが不貞だったことは翻しようのない事実ですが、あの方の殿下への愛だけは本物ですね」
「違う! そうではなくて……君達は気づいていたじゃないか。彼女のピンクの髪を褒める私に、男爵令嬢の髪はピンクではない、どうしてそんなことを言っているのかわからないと伝えてくれたではないか。これも日記に書いてあった」
キャサリンとローレンスは首を傾げる。
「覚えていませんねえ。男爵令嬢は初めから、あるいはずっと前からピンクの髪だったのではないですか?」
「金髪だったんだ! 瞳だって青色で……」
「紫色でしょう?」
「違う、違う、違う! 変わったんだ、どこかで。ディザイア自身が彼女の日記で、違う色の髪と瞳を褒められると困惑していた」
「ディザイア嬢の日記?」
「彼女の父である男爵が見せてくれたんだ。なにかがおかしい、娘は変わってしまったと言って」
「男爵は……」
ローレンスに視線を送られて、キャサリンは言葉を続ける。
「酒毒でお亡くなりになりましたわね。ご令嬢が殿下の婚約者になられたことを喜ぶあまり、お酒に溺れてしまったとか」
「違うッ。私に日記を持って来てくれたとき、彼は正気だった。男爵は酒毒で亡くなったのではない。殺されたんだ……に」
ジュリアスの声が小さくなっていく。
彼は怯えているのだ。
廃太子がふるふると震えて言葉を失ったとき、彼を追って近衛の騎士達が現れた。騎士に連れられて出ていくジュリアスは、最後に一度だけ振り返り、瞳に絶望を滲ませて王宮へと帰っていった。
すっかり冷めたお茶を淹れ直してもらって、キャサリンは一息ついた。
愛しいローレンスを見つめて、尋ねる。
「殿下、随分参っていらっしゃるようですわね。奇行が原因で、王子ですらなくなることはないでしょうか」
「それはないよ。奇行の激しい元王子を市井へ放つほうが問題だしね。ディザイア嬢ごと王宮内の北の塔へ入れられるのが関の山じゃないかな」
「それで……あの子は満足するのでしょうか?」
「どうだろうね。とりあえず王子妃にはなれるんだから、それで満足して欲しいところだけど」
ジュリアスには、同じ名前の大伯父がいた。
同じように廃太子となり、北の塔で狂い死にした男性だ。
彼はジュリアスと同じように、婚約者がいながら学園で男爵令嬢と不貞を働いた。
ジュリアスと違うのは、彼は婚約破棄をしなかったことだ。
彼は政略的な婚約を破棄して後ろ盾を失うことを嫌がり、男爵令嬢のほうを始末した。
始末された男爵令嬢は絵姿が残っている。彼女の取り巻きに画家がいたのだ。描かれた男爵令嬢はピンクの髪に紫色の瞳の美しい少女だ。
その絵姿は、今の男爵令嬢ディザイアとそっくりだ。
でも、とキャサリンは思う。
学園に入学したころのディザイアとは似ていなかった。
そのころの彼女は先ほどジュリアスが言った通り、この国に多い金髪で青い瞳だった。
嫉妬するキャサリンの前でジュリアスに腰を抱かれていたときも。
だけどそのときはすでに、賞賛の言葉はピンクの髪と紫色の瞳に向けられていた。
「……同じ名前の王太子に同じ身分の浮気相手。だから、あの子はディザイア様に成り代わったのでしょうか」
「考えても仕方がないよ。人知を超えた存在なんだもの。僕達は祈るしかない。あの子が殿下の妃になることで満足してこの世を去り、二度と還ってこないことを」
「そうですね……」
仕方がないのだ、とキャサリンは思う。
ジュリアスが浮気心を出さなければ、本当のディザイアが不貞を受け入れなければ、こんなことにはなっていなかった。
まだ婚約者を愛していたころのキャサリンと、同じように異常に気づいていたローレンスがどんなに語っても、周囲は理解してくれなかった。彼女が落とした髪を見せれば、だれもがピンクではないと答えるのに。いっそ最後まで気づかなければ良かったのに、とキャサリンはジュリアスと男爵を哀れに思った。
「ねえねえキャサリン。僕達が異常に気づいたのはどうしてだと思う?」
「はい?」
キャサリンの答えを待たずに、ローレンスは言う。
「真実の愛のおかげだと思うんだ。君は婚約者の殿下を愛していたから。僕は横恋慕みたいなものだったけど、それでも初恋の君を心から愛していたから……君が殿下に婚約破棄される前は、君の想いが報われるようにって、ずっと祈っていたんだよ」
「ふふふ、ありがとうございます。状況は変わるものですわ。今の私は……」
男爵令嬢の髪や瞳の色が違って見える自分のほうがおかしいのではないか、キャサリンがそんな不安に襲われていたとき、救ってくれたのはローレンスの存在だった。婚約破棄されて苦しんでいたときも。
はっきり気持ちを言葉にするのが照れくさくて、キャサリンは卓上のローレンスの手にそっと触れて、近くで見守っていた侍女に睨まれた。
たとえ新しい婚約者であっても、貴族の男女は結婚するまで適切な距離を守るべきなのである。
<終>




