立の章 ~断~ 非命
餌・羽純の結婚そしてジャーナリスト卯月との再会
前世を犬と言われた雷樹は、その言葉に縛られながらも前に進もうとしていた。
そんなとき、向出手の元を去った羽純から連絡があった。
結婚するという。
雷樹は、オートロックのマンションと、築年数も分からない外観の建物が混在した中野で暮らす羽純を訪ねていた。
雷樹は2階建てのアパートの屋外階段を上がり、一番奥の部屋の前に立った。
チャイムが短く鳴った。
少しして化粧っ気のない羽純の顔が、わずかに開けたドアから覗いた。
羽純は人目を気にして外に出るのを拒み、部屋で話を聞くことにした。
羽純は秋に結婚すると淡々とした口調で言いながら、インスタントのコーヒーを入れてくれた。
結婚する割には、はしゃぐ様子もなく、冷めた言葉が並ぶ。
羽純は向出手の仕事をしながら、朱雲に誘われてネットビジネスにも参加していた。
しかし、いつの間にか借金が膨れ上がり、自己破産をしてライフタウンに入居するしかない状態にまで陥ったそうだ。
悩んだ末、向出手に相談すると、借金を肩代わりしてくれる人を紹介され、そのまま結婚を勧められた。
両親に心配をかけたくない思いと、ライフシェアタウンに入らずに済むのならと、向出手の言うとおりに見合いをして、結婚を決意したという。
年が離れた相手との結婚は想像していたものとは違っていたが、お金の苦労はもうこりごりだと言っていた。
「私は夢を見る権利と未来を他人に預けてしまったの。人を頼ったことで夢を見ることを奪われるなんて、思ってもみなかった・・・でもお金はあるし、私若いから、大丈夫よ」
追い詰められて出した結論を、羽純は大丈夫と自分に言い聞かせながら受け入れていた。
痛々しい様子の羽純に、雷樹はかける言葉が見つからず、結婚祝いを渡すと部屋を出た。
見せつけられた羽純の選択肢のない苦い現実は、雷樹の人生そのものだった。
引きずり込まれた沼の底にはほくそ笑む朱雲がいた。
「くそったれ・・・」
2階から見送ってくれる羽純を振り返ることもせずに、雷樹は走り出していた。
連休明けに出勤すると、朱雲が向出手に羽純の後釜にと、女子大生を紹介していた。
その知花という女の子を帰したあと、向出手と朱雲の話し声が部屋から漏れてきた。
「朱雲さん、あの子は使いものにならないよ、もうちょっとマシな子連れてきてちょうだい」
「そうね、そう言うだろうと思ってたわ・・・はいはい、探してみるわ」
「羽純ぐらいはないとね・・・で、あの子どうするの?」
「アルバイト探してたから、ネットビジネスさせるわ」
「それがいい、それしかないわ」
「ところで羽純の紹介料はいくらもらったの?豪く金持ちだって聞いたけど」
「そりゃあ、あんな若い子紹介したんだからね、ほどほど頂かないとね」
2人の乾いた笑いが聞こえてきた。
羽純に使った向出手の手口、そして知花という女の子を、まるで使い捨ての道具のように扱う朱雲と向出手に、雷樹は怒りを抑えることができなかった。
「人の人生を何だと思っていやがるんだ」
雷樹は拳を机に押し当てた。
笑い声が止み、朱雲が出てきた。
「あら、雷樹ちゃん、こんにちは。次はかわいい子連れてくるから、もうしばらくひとりで先生を手伝ってね」
朱雲はバイバイと手を振って、機嫌よく帰って行った。
雷樹は怒りと虚しさが混ざりあった感情が喉元に詰まり、息苦しさを感じた。
のみ込むことも吐き出すこともできない感情は、雷樹を朱雲が関係しているというNPOへと向かわせた。
その法人は自己破産をした若者たちが身を寄せるところだった。
朱雲はその中から計算ずくで選んだ若者を向出手の所、またはネットビジネスの世界に引きずり込んでいく。親の助けが受けられない者や、周りに心配をかけまいと頑張っている若者に狙いをつけて、借金という縄でがんじがらめに縛っていく。
そんな中、雷樹はその若者たちが足繁く通うカフェがあるという噂を耳にした。
そのカフェは雷樹を犬と言った教祖の率いる教団の近くにあった。
ある日の午後、雷樹はふらりとそのカフェに入ってみた。
入るなり、いくつもの目にじろじろと探られているのが分かった。
奥の席に座ろうとする雷樹は、肩を掴まれドキリとした。
ゆっくりと振り向くと、にやりと笑う顔があった。
忘れもしないあの男だった。
あの屈辱の夜、雷樹にとどめを刺した男。
「おや、この店に何の用かな?・・・」
雷樹は息を吸って、真剣な表情をその男に向けた。
「ようやくお会いできました。その節は私の無作法のせいでせっかくの食事会を台無しにしてしまいました。お詫びをお伝えしたくてお探ししておりました」
「へぇ、わざわざ・・・ですか?」
あの夜と同じの見下した表情が雷樹の心を押さえつける。
雷樹は深々と頭を下げたまま、顔を上げずにいた。
静まり返った店内でその姿は人目を引いた。
「まぁ、そんなに堅苦しい挨拶はいいから・・・」
座れとばかりに側の椅子を指した。
雷樹は素直に視線の先の椅子に座った。
その男は料亭兎山の息子だった。
腕を組み、正面に座った兎山の冷めた目が、雷樹の本心を探っている。
雷樹は、その耐えがたい眼付きからその正体を思い出した。
この男は帖のグループの会合で見たネットビジネスをしている男だ。
朱雲と関係がある男だ。
「ありがとうございます。兎山さんに会えるなんて光栄です。このビジネスの世界で兎山さんのことを知らない者はいません。どのようにしたら兎山さんのような成功者になれるのか、是非ともご享受願えませんか」
雷樹は兎山に対して思いつく限りの賛辞の言葉を並べ、それからしばらく兎山の自慢話を聞き続けた。
1時間も経ったころ、兎山のスマホが着信を知らせた。
スマホを見ると、兎山は席を立ってカウンターに行き、雷樹の方を見ながら話をして、戻ってきた。
「また来いよ、店の者には言っておいたからフリーパスでいい。じゃぁな」
と言い残して店を出ていった。
兎山が出ていくと、店中の視線が雷樹に集まった。
なぜ?どうして?羨望?嫉妬?様々な感情が入り、乱れた視線が雷樹に注がれていた。
そんな視線を無視して、雷樹はコーヒーをゆっくり飲み終えて店を後にした。
その後雷樹は、カフェに通ううちにホストの経験が生かされて雷ちゃんと呼ばれ、教団の関係者にも名前を知られる存在になっていった。
雷樹は、兎山と朱雲が詐欺まがいのネットビジネスのリーダーであることや、兎山が料亭兎山の息子で、教団の幹部だということを突き止めた。
そして、兎山の母親は教団の中で覇者と言われる最高幹部らしいことも分かった。
教団の位置づけも分かった。
献金額が億の単位を超えたものが受ける称号が、覇者。
教祖霊命とされる指示を実行し、成功を重ねれば最高の来世格が保証される、賢者。
仮面を被り、暗躍するサンズと言われる教祖直属の実戦部隊。
朧気ながら教祖を取り巻く教団の構造が分かってきた。
雷樹は教団の奥深い闇に踏み込んだことを意識した。
だが、もしも再び教祖の前に引きずり出されることがあっても、俺は俺だ。
そう覚悟を決めた雷樹は、たまに兎山と鉢合わせしても動じなくなっていた。
そんなある日、カフェを訪れた雷樹は店の全貌が見える席に見覚えのある、いや忘れられない女が座っているのに気づいた。
俺が犬と言われたとき、冷笑を浮かべた女。
メニューを見ながら、さり気なく店内を探っている。
レポーターをしていたが、今は何を調べているのだろう。
コーヒーを運んできた女性店主に話しかけようとしている。
面倒はごめんだと、気づかないふりをして離れた席に向かった雷樹だったが、ふと目にした時計の時刻がその女の席に向かわせた。
教団の見回りの時間が、近づいていた。
この店には教団の幹部とみられる男たちが定期的に現れて、情報を入手しているのだ。
その女の席に座った。
「レポーターのお姉さん・・・久しぶりだな・・・」
その声に振り返った店主は驚いた様子で雷樹を見て笑ったが、突然話しかけた雷樹をレポーターの女は警戒心を露わに睨んだ。
店主はそんな様子を気にすることなく女の前にコーヒーを置き、雷樹の注文を聞くと別の席に行った。
怪訝な顔で何なのと口を開きかけるレポーターの女を制して、話しを続けた。
「俺だよ、犬、犬って言われた男だよ、思い出した?」
女は呆れ顔でため息をついた。
「まだ、そんなこと言っているの?馬鹿馬鹿しい。あなたは犬でも猫でもない。前世も今も人間、立派な人間よ。そんな風に自分を決めつけるなんてやめなさい。まったく・・・でもあなた少し変わった?」
「はははっ、そうですか?少し大人になったかな?」
「なんか、頑張ったんだね、そんな感じする・・・」
「・・・」
その言葉に雷樹は照れを隠して視線を落とした。
あの冷たい笑みを浮かべた女、俺を犬じゃないと言ってくれた。そして必死に生きている今の俺を分かってくれた。
額に刻まれた犬の文字が、ほわりと消えたのを意識した。
「嬉しいよ・・・俺・・・」
雷樹は女に聞こえないようにかすれた小声で呟いた。
ジャーナリストのキラキラした目が雷樹を質問攻めにしようと構えている。
「時間がないから、とにかく俺の言うとおりにして。手を出して、両手だよ」
その女は雨宮卯月と名乗り、迷うことなく素直に両手を出した。
そのとき、ドア飾りが来客を知らせた。
「来る・・・」
雷樹は緊張を隠して気付かぬ振りをした。
ドアが開き、ゆっくりと1人の男が入ってきた。
その男は検査でもするように店内を歩き、雷樹たちの席に近づいてきた。
雷樹は真顔で卯月の手相を見る。
そんな雷樹を面白そうに見ていた卯月が、雷樹の後ろに立った男に気づき、手を引っ込めた。
その男は軽やかではあるが、何か捉えどころのない雰囲気で雷樹に声をかけてきた。
「おや?この方は、見かけないお嬢さんですね?」
その声に雷樹は反射的に立ち上がって一礼した。
「はい、こちら昔の友達で、今日初めてご招待いたしました」
「そうですか、幸せが訪れるようしっかり見守ってあげなさい」
柔らかく重圧をかけてくる物言いの男は、目を細め探るように卯月を見たが、何も言わずにカウンターの方へ行った。
卯月は、男の登場や会話に面食らったように見えたが、そのあとはにこにこと笑顔を作っていた。
男と入れ違いに雷樹のコーヒーが運ばれて来ると、卯月が店主に尋ねる素振りを見せた。
雷樹は卯月に黙るように合図をした。
「聞きたいことがあるのに・・・」
不満げな顔の卯月を雷樹は宥めた。
「焦らないで」
「ねぇ、何なの?あの人・・・招待って・・・」
「手を見せて、続けるよ・・・」
「嫌よ、何なのって聞いているでしょ」
「ここを離れたら説明するから、頼むから今は俺の言うとおりにしてくれ」
卯月は引っ込めた右手を渋々差し出した。
「左も・・・」
卯月は左手を出し、雷樹に顔を近づけ、話を聴いている振りをした。
「あいつは誰?トラ野郎の手下?」
「とら?・・・静かにして、とにかく今は、質問はなし」
口を噤み、眉をひそめて雷樹の表情を見る卯月の目は、真実へたどり着こうとする強い光を放っていた。
しばらくして男が店を出ていくと、卯月がこの店に来た目的を話してくれた。
空空という暗号みたいなものの意味。それを調べているらしい。
雷樹は教祖が認めた者だけに与えられる賢者の称号だと聞いたことがあった。しかしそれはあくまで噂でしかなかった。
ここの店主なら知っているかもしれないと雷樹は考えた。
コーヒーを飲み終えた2人は、レジのあるカウンターに向かった。
支払いは済ませてあると言って、店主は笑いながら入り口の外まで見送ってくれた。
「てるちゃん、ごちそうさん。この人また招待するからよろしく頼むね」
「いいよ、いいよ。いつでもおいで」
「てるちゃんは何でも知ってるんだよ、どうしたら偉くなれるかとかね、賢者の話とかね、いろいろ話してくれて頼りになるんだぜ、なっ、てるちゃん」
卯月に話す誘い水の言葉に、てるちゃんと呼ばれる店主は少し自慢げな顔で頷いた。
「伝説の賢者とか、物知りなんだよ、あっ、そう言えば、そら、そらそらって言う」
「そらじゃないよ、空空の賢者でしょ。伝説の天女緋色様の守り神。素晴らしい人だったのに・・・」
「・・・お亡くなりに?・・・」
思わず、卯月が尋ねた。
「・・・来世に行かれたのよ・・・」
「てるちゃん、ありがとう、悲しいこと思い出させちゃったね」
「若いときからよくお店に来てたから・・奈穂ちゃん・・・」
「・・・?」
卯月は息をのんだ。
「あっ、いけないおしゃべりし過ぎた。忘れてね、聞かなかったことにしてね」
「大丈夫だよ、てるちゃん。家族だから言わないよ・・・」
店主は周りをきょろきょろと見て、店に入っていった。
雷樹がこれでいいかという顔で卯月を見た。
卯月は頷き、唇を嚙んで、なぜか涙をこらえていた。
時間を見ると、事務所に帰る時間が迫っていた。
雷樹は卯月と連絡先を交換し、改めて時間を作ることを約束して卯月と別れた。
取り敢えず急いで向出手の事務所に向かった。
教団が関係しているカフェに出入りしていることを向出手は知っていたが、黙認していた。
だが、今日は何故か胸騒ぎがした。
事務所の見える路地に着いた。
雷樹のプライベートスマホが鳴った。
知らない番号に雷樹は立ち止まり、迷ったがスマホに耳を当てた。
「雷樹くんか?すぐに逃げろ。向出手が君を探している」
それは、土屋だった。
「土屋さん?何が・・・?」
「真木さんが向出手を訴えたらしい。君を疑っている。とにかく身を隠しなさい。どうしようもないときは僕の所へ来なさい。いいね、気を付けるんだよ」
雷樹は踵を返し、元来た道を全力で走り出した。




