明の章 追憶の陽炎 ~身命~
那美は落ち着き、何事もなく3日が過ぎた
衣服の汚れは何かのはずみでついたものだろうと思い始めた和久だったが、その日の夜半過ぎ、コトリという音で目覚めた。
とっさに外を見た。中庭を何かが走り抜けたように思った。
外に飛び出し後を追った。県道に出ると、和久の視線の先に見えていた白い人影は霧の中に消えてしまった。
気配は比婆山に向かったように思った和久だったが、霧に覆われて先の見えない状況に冷静になろうと、和久は激しく首を横に振った。
「きっと見間違えた。私の勘違いだ。那美さんは部屋にいる」
急く気持ちを抑えて診療所に戻ったが、那美は部屋にはいなかった。
「先生、那美さんがいません。物音がしましたし、人影を見ました。外に出てしまったかもしれません」
大戸野は上着を羽織ると和久とともに外に飛び出した。だが庭を抜けると大戸野は立ち止まった。山の霧はふもとまで下りてきていて、足元を照らす明かりさえ役に立たなかった。
「霧が深くなっている。夜が明けるのを待って探そう」
「でも、先生・・・」
「大丈夫ですよ。そう遠くには行けないはずです。あの体ですから」
「ですが、・・・5月とはいえ山はまだ寒さが・・」
分かっていると言うように、大戸野は和久の肩に手を置き、自分自身を納得させるように告げた。
「この霧では私たちが危険です。明日捜索できるよう手配をしましょう」
大戸野の気持ちを思い、渋々承諾した和久だったが、夜明けを待たずに道返と共に比婆山へ向かった。
「黄泉の国、お墓」
あの日、那美は確かに比婆御陵のことを言葉にしていた。和久はなぜか、那美は比婆山御陵に向かったと確信していた。
比婆山古道に向う林道を車で5分ほど走ったとき、道脇に倒れている那美を見つけた。
那美は気を失ってはいたが、声を掛けると微かに反応した。
和久は、那美の血圧を測りながら大戸野に話しかけた。
「先生、あれだけの距離を歩いたのに大きな傷もなく出血も少なくて良かったですね」
「和久さん、那美さんは20年間常軌を逸する状態だった人です。僕は何があっても驚きません。ただ、感情や性格についてはこれからですね」
「感情や性格ですか?」
「そうです。20年間那美さんの人生は止まっていたのですから、年を取るということも受け入れられないでしょうね。
今も鏡を見せないのは那美さんの反応が分からないからです。そして和久さんしか知らない20年前の出来事。
那美さんはどう思っているのか、出産した我が子のこと、ご主人のこと・・・知りたいのか。無理を承知ですが、このことは和久さんにお願いするしかありません」
大戸野は深く頭を下げた。
しばらくすると那美は和久の努力で体力がつき、少しづつだが生きることを受け入れ始めていた。
そんな那美に対し、和久は20年前の事実の告白のタイミングを考えていた。
隔離病棟へ移ることが決まっていたあの日、まだ闇の中を和久は那美を車椅子に乗せ、病院を出ると三ノ宮駅で母親のナルと落ち会った。
「ありがとう。これからのことは帰ってから相談するわね。和久さん、赤ちゃんのことお願いね。」
ナルはそう言って大戸野との待ち合わせの場所に向かった。
そして帰路の途中で震災に遭い、帰らぬ人となった。和久は病院に帰るとすぐに乳児室に向かった。
だがそこには那美の子供の姿はなかった。
稲木が行動を起こしたに違いないとナースステーションへ戻った直後、激しい揺れに襲われた。病院は混乱のなか地震後の対応に追われ、自宅に帰ると言っていたはずの那美の夫の稲木も、被害者の治療に当たっていた。
安否を問う者のいない那美のことや、消えてしまった乳児のことは後回しにされ、翌日那美は行方不明者のリストに登録された。
そして消えた乳児は出生届を出さず、生存しなかったことになった。
和久は、父親である稲木がそれに対して異議を唱えず、那美の失踪に対しても沈黙したまま病院を去ったのが腑に落ちなかった。
「あなたの赤ちゃんは消えてしまったから安否がわからないと、今そのことを那美さんに話したとしても、那美さんは現実に耐えられるだろうか?那美さんは・・・」
和久は笑顔の戻った那美を見ながら、その笑顔の持つ儚さに胸を痛めていた。
神積桃子が社会不安障害の治療のためホテルに滞在し、道返の故郷の島根の東出雲町から大戸野の元で療養し始めて3ヶ月が経っていた。まだ雪の降る2月、ちょうど那美が目覚めた頃に来院した。
潔癖症の桃子は汚いものに触れるとパニックを起こした。初めは目につくものが気になる程度だった。
ある日服についた汚れに気づかずにいると、悪意のある言い方で指摘を受けた。
それ以来、必要以上に自分の容姿や服装、身の回りが気になり始めた。汚いと感じれば吐き気をもよおし、人に触れることも触れられることもできなくなった。
両親の勧めで大戸野の元にやってきたそんな桃子が、差し出された那美の手を包み込むように触れていた。桃子はその人の涙を見たとき胸が痛んだ。その人は傷ついていた。桃子の何倍も何倍も深い傷に苦しんでいると感じた。大戸野が助けてあげてと合図したように思った。
瘦せて冷たいその人の手は、小さく震えていた。心の怯えが桃子に伝わってきた。そしてゆっくりと桃子の怯えは那美に飲み込まれ、消えてしまった。
桃子は診療所を訪れる回数が増し、その度に那美の様子を大戸野に尋ね、那美に挨拶をするようになった。
桃子の怯えは優しさへと変わり、桃子は大戸野に那美の力になりたいと申し出た。
桃子は毎日のように那美を見舞った。
那美はそんな桃子に手放した娘を重ねていた。穏やかな日々は那美のかたくなな心をゆっくりとほぐしながら、那美に過去と向き合う機会を与えていた。
「私ね、若い頃赤ちゃんを産んだことがあるの」
紅茶のカップを口に運びながら呟き、一口飲むとカップを眺めて言葉を止めた。
思わず那美を見た桃子だったが、唐突すぎる切り出しに身を固くして次の言葉を待った。
「女の子だった」
那美は紅茶のカップの中に遠い記憶が映し出されているかのように、目を離さずに続けた。
「どうして手放してしまったのか、悔やんでも悔やみきれないの。・・・会いたい」
桃子は、那美の様子から今は届かぬ存在になっていることを察した。
「幸せになっていればいい。ちょうどあなたと同じくらいの年齢なの。生きていれば」
深くため息をつき、行く当てのない思いを巡らせ、祈るような表情で目を閉じた。
その日から那美は言葉少なになり、心ここにあらずの感は日課のように訪れていた桃子にも伝わり、桃子への影響を考えた大戸野は、しばらく面会を中止した。桃子の来訪が遠のくにつれて那美は再び笑顔を失い、表情には険しさが増していった。




