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明の章 追憶の陽炎 ~身命~

4月中旬


比婆の山々に萌黄色の新緑が目立ち始めた頃、和久看護師が引っ越してきた。

「大戸野先生、よろしくお願いいたします」

和久は診察室のドアを開けながら、大戸野に挨拶をした。

背を向けて窓の外を見ていた大戸野は、ゆっくりと振り向き、ソファーに座るように促した。

いったん、窓から見える新緑に視線を戻したが、那美の介護の記録を手に取ると和久に渡した。

「木の芽立ちの季節は・・・」

大戸野はそこで言葉を切り、背を向けた。

介護記録を見ていた和久は、その続きをその中に見つけていた。


「問題行動ですね」

読み切った和久は介護記録を持ち、張り詰めた気持ちを整理するように記録の束でトンと机を打った。

「任せてください。先生。早速、介護プランを作ります」

和久を見て、疲れた表情の大戸野はよろしくとばかりに頷いた。

「後で、那美さんにご挨拶してもよろしいでしょうか?」

「お任せしますので、報告さえいただければ介護についてはすべて和久さんの判断で結構です」

「分かりました。また、ご相談させていただきます」

大戸野は家政婦の道返(ちがえし)を呼ぶと、和久の部屋に案内するように伝えた。

家政婦の道返は診察室とナミの病室の間の部屋に和久を案内した。

介護施設だった部屋は浴室とトイレ、簡単な調理ができる台所がついていて、道返の手できれいに掃除されていた。


部屋の整理を終えた和久は、那美の部屋をノックした。

那美は和久が入ってきても無反応だった。体を起こし、ぼんやりと外を見ているその瞳には感情の色はなかった。


「那美さん」

様子を伺いながら、和久は声を掛けた。

その声は那美には届いていないようだった。

和久は那美の傍らに立ち、もう一度声を掛けた。

うつろな目が和久に向けられた。

和久は笑顔を那美に向けながら、肩に手をかけた。

「こんにちは」

そう言い終わらないうちに、肩にかけた和久の手が激しく払いのけられていた。

一瞬だったが那美の目の中を憎悪の影が走ったように思った。和久は一歩後ろに下がった。

「那美さん、お久しぶりです。和久です。ご気分はいかがですか」

和久は気を取り直し、那美の視野にゆっくりと入っていった。

和久を視界にとらえた那美は穏やかに微笑んだ。

その微笑みの中には、先ほど垣間見た憎悪の感情はなかった。

「私の不安の感情が起こしたものかな」

和久は那美の部屋を出ると呟いた。


翌日から和久は看護師の役割として那美の体調管理を始めた。

栄養管理、運動プログラム、QOL向上プログラム等々、和久の知る那美の生活を取り戻せば、那美は幸せになれると信じていた。和久がリハビリの計画を話すと、那美は和久に分からぬよう短くため息をつき、頷いた。

「那美さん、大丈夫です。プラン通りに実行すればすぐに元気になりますから、頑張りましょう」

しかし、和久の思いとは裏腹に、那美は目を閉じてぼんやりと過ごすことが多くなっていた。


和久が那美の世話をするようになって1週間が過ぎた。

那美は食事には手を付けず、身体を動かすよう促しても反応はなかった。それでも身体状態に変化はなかったが、明らかに鬱の症状は悪化していた。

穏やかな五月日和の日、和久は、少々強引でも那美を車椅子に乗せ、外に連れ出すことを大戸野に相談していた。

「那美さん、外に出かけましょう。気持ちのいいお天気ですよ」

突然那美は、声をかけながら抱き起そうとした和久を突き飛ばした。想像を超えた力で、和久は床に転び肩を強打した。肩を抑えながら近寄る和久に、掴みかからんばかりの表情で叫んだ。


「あなた達は私に何をしたの?二度と、私は二度とあなたなんかに管理されることはない」


その時診察室にいた大戸野が、駆け込んできた。

大戸野は那美の姿を見るなり立ちすくんだ。那美は何かを和久に向かって叫んでいた。

「お前たちは、愚かで傲慢な生き物。孤高な虎は敷物のために皮をはがれ、知能の高いチンパンジーは実験のために頭蓋骨を切り取られた。食料のための牛は涙を流しながら殺され、行き場の無い熊はえさを探すことさえライフルの餌食になると覚悟しなければならない。屍の上の繁栄は、死をもって償うのだ」


豹変した那美の姿は、父親であり医師である大戸野の20年間を消し去った。

そんな中、那美の定まらない視線が部屋の入口に移った。

そこには道返と診察に訪れていた若い女性が驚いた表情で立っていた。那美は、若い女性と目が合うと別人のように落ち着き、一筋の涙を流し、求めるように若い女性に手を差し出した。


我に返った大戸野に促され、若い女性は那美の手を取り横に座った。

「お名前を教えてくださる?」

神積(かむづみ)桃子です」

「桃ちゃん、そう呼んでもいいですか?」

「はい」

若い女性は小さく頷いた。

那美はほっとしたように微笑み、桃子の手を握ったまま静かに横たわった。

桃子が帰った後、那美は大戸野や和久に背を向け、夕食も摂らずに眠り続けた。

診察室には沈痛な面持ちの大戸野と和久が、向かい合って座っていた。

2人とも数時間前の出来事を冷静にとらえようとしていたが、那美の言動は到底理解できるものではなかった。

「少し、性急すぎたのかもしれませんね」

「私の焦りが那美さんを追い詰めてしまいました」

「和久さん、あなたは看護師としての仕事をしています。行き過ぎてはいませんし、問題はないと思いますが、何故管理されていると那美さんが感じたのかが気になりますね」

大戸野は和久に、那美との距離を置くように指示をした。


初めて那美に声を掛けたとき、自分に向けられた嫌悪の表情を思い出したが、和久は大戸野には話さなかった。

「私を嫌っている?私が管理した?20年前のこと?また拒絶する?」

翌日そんな迷いを抱えたまま、和久は那美の部屋の前に立って入室をためらっていた。

ノックをすると平静を装い、看護師の顔で那美に近づいた。那美は目を外に向け、和久に対し何の反応も示さなかった。和久が安堵の感情を隠すために閉じた目を開くと、見透かしたような那美の無表情の乾いた視線と合った。

「那美さん・・・」

名前を呼ぶのが精いっぱいの和久に、那美は予期せぬ笑顔を向けた。

「いつもありがとう」

この数秒の那美の変化を、和久のキャリアは見逃さなかった。

その後、和久は那美の感情に立ち入ることを一切せずに距離を置き、接した。


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