貴婦人の楔 -3-
第二章 貴婦人の楔は、何回かに分けて投稿します。
ミルラは顎に手をやり、少し考える仕草を見せたが、ゆっくりと頷いた。
「……うん、分かった。あまり、無理しないで」
「ありがとうございます。魔女様は、お優しいのですね……。わたくしの実家であるサドリス家は侯爵家です。当主を継いだ父は、特に領地経営に能力を発揮しました。周囲から『グランツ侯に任せておけば間違いない』と言わせる程の手腕を持っていたのです。……しかし、わたくしが生まれた翌年、莫大な資金を投じていた造船事業に失敗して多額の借金を負い、多くの人間が父のもとから離れてゆきました」
フィオナさんはうつむいて、暗い目で自分の両手を見つめた。
「その頃から父の様子がおかしくなったと、当時屋敷に勤めていた使用人から聞いております。父は、仕事から帰ると浴びるように酒を飲み、毎日のように母に暴力を振るっていたそうです。……そして、わたくしを守ってくれていた母は徐々に精神を病み、わたくしが四歳になる頃には、部屋から出てこなくなりました」
彼女は自嘲するように小さく笑い、話を続けた。
「今はもう、その写真に写っている母の姿が、母との唯一の記憶なのです。おかしいでしょう? 家族ですのに……。その後は、お察しの通りです。母への暴力は、わたくしへと降り注ぎました。夫のアルベルトに出会った17歳までは、毎日……本当に毎日、どうすれば苦しまずに逝けるかばかりを考えておりました」
……あぁ、そうか。だから僕だけ、フィオナさんと目が合わないのか。
四歳からずっと一人で、どれだけの恐怖と孤独を抱えてきたのだろう。――僕にできることは何もない。むしろ、「何もしてはいけない」と思う。そのはずなのに、途方もない罪悪感と無力感が、ただでさえ乱れていた心を黒く塗りつぶしていった。僕のような、平穏無事にのうのうと生きてきた男が、この後も彼女の依頼に立ち会って良いとは到底思えない。
床にあったオイルの染みを見つめ、何と言ってこの場を立ち去ろうかと考え始めた時――ミルラが突然「えっほん」と大きく咳払いをした。調香に失敗して出た煙でむせているのはよく見かけるが、これは、何というか……すごくわざとらしい。思わず顔を上げると、彼女は腕を真っ直ぐに伸ばし、僕に掌を向けていた。……なるほど。『席は外すな』ということか。
相変わらず気は重いが、了解したことが分かるよう、僕は短く頷いた。
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