表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
正義執行  作者: 凡人
9/14

報い

朝が来たことに、最初は気づかなかった。

カーテンの隙間から射し込む光が、無遠慮にまぶたを焼く。

それでも俺は動かなかった。

美優の絵が貼られたリビングの床に、体を投げ出したまま、何時間もそのままでいた。


眠っていたのか、気を失っていたのか、自分でもわからない。

ただ、夢は見なかった。それが唯一の救いだった。


目を開けると、天井の木目が歪んで見えた。

涙はもう枯れていた。

体も、心も、全部どこかへ置いてきたみたいだった。


美優の死が確定してから、まだ一日も経っていない。

でも、あの時から――俺の時間は止まっていた。



「何か、手続きとか……葬儀とか……」


呆然としたまま言葉を絞り出すと、警察の窓口の若い職員が静かにうなずいた。

だが彼の口調は、どこか事務的で遠い。

「お体のことを優先してください」と繰り返されるたびに、世界との距離が広がっていく。


手続きという言葉が、どうしてこんなにも薄情に聞こえるのか。

“死んだ”ではなく、“処理された”ような感覚。


俺の娘が、“処理”されていく。


それが、現実だった。



遺体の引き取りは、まだ先だという。

司法解剖の完了と、再鑑定の確認が必要とのことだった。

つまり、まだ“渡せない”。


その言葉を聞いた瞬間、俺は席から立ち上がった。

胸の奥から、黒く濁った怒りがこみ上げてくる。


「渡せない? ふざけるな……!」


声が裏返った。警察署の空気が、一瞬静まり返った。


だが、誰も反論はしなかった。

ただ、当たり前のことを淡々と伝えてくる。

遺体は証拠だと。

捜査のためだと。


俺にとっては娘でしかないのに、

彼らにとっては“殺人事件の被害者の遺体”でしかない。


この国の正義は、こんなにも遠いのか。



自宅に戻った俺は、部屋中のカーテンを閉め、電気もつけなかった。

それでも、美優の痕跡はどこにでもあった。

床に散らばった色鉛筆、冷蔵庫に貼られたクマのマグネット、洗面所に残った小さな歯ブラシ。


“いなくなった”という現実を、目に見えるすべてが繰り返し教えてくる。


何度も吐きそうになった。

何度も、床を殴った。


「なぜ、俺なんだ……なぜ……」


俺は、誰に問いかけていたのだろう。



その夜、スマホの通知が一件だけ届いた。


差出人不明のメール。

件名はない。本文もない。

添付されたファイルひとつ。


震える手でそれを開いた。


画像だった。


白黒の、監視カメラ風の静止画。

映っていたのは、俺の家の玄関前だった。

そしてそこに、美優の後ろ姿。


手には、小さなリュック。

髪は二つ結び。

扉の向こうに、誰かが立っている。

顔は映っていない。ただ、手だけが伸びていた。


次の瞬間、俺の中の何かが崩れた。


「見ていたのか……?」


あの瞬間を、あのわずかな“6分27秒”を。

誰かが、俺の不在を“選んで”そこにいたのか。


つまりこれは——偶然ではなかった。


そして、メールの本文に、最後にこう書かれていた。


「君が扉を開けたのではない。君が、彼女を外へ出したんだ。」


怒りも、悲しみも、もうなかった。

代わりに残ったのは、自分自身への恐怖だった。



深夜。

俺は机に向かい、報道時代の記録ファイルを引っ張り出していた。

古いノートPCを立ち上げ、過去の取材メモ、メール履歴、録音データを開いていく。


今、思い返せば、おかしい点はいくつもあった。


5年前の誤報。

不起訴になったあの教師。

強引に押し通した原稿。

“正義”の名のもとに潰した声。


そして今、死んだのは、美優。


「これは……報いなのか?」


誰かが俺に“正義”の定義を問い直してきている。

これは、復讐ではない。

裁きだ。


そして次に誰が狙われるか、俺にはわかっている。


それは——俺自身だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ