報い
朝が来たことに、最初は気づかなかった。
カーテンの隙間から射し込む光が、無遠慮にまぶたを焼く。
それでも俺は動かなかった。
美優の絵が貼られたリビングの床に、体を投げ出したまま、何時間もそのままでいた。
眠っていたのか、気を失っていたのか、自分でもわからない。
ただ、夢は見なかった。それが唯一の救いだった。
目を開けると、天井の木目が歪んで見えた。
涙はもう枯れていた。
体も、心も、全部どこかへ置いてきたみたいだった。
美優の死が確定してから、まだ一日も経っていない。
でも、あの時から――俺の時間は止まっていた。
*
「何か、手続きとか……葬儀とか……」
呆然としたまま言葉を絞り出すと、警察の窓口の若い職員が静かにうなずいた。
だが彼の口調は、どこか事務的で遠い。
「お体のことを優先してください」と繰り返されるたびに、世界との距離が広がっていく。
手続きという言葉が、どうしてこんなにも薄情に聞こえるのか。
“死んだ”ではなく、“処理された”ような感覚。
俺の娘が、“処理”されていく。
それが、現実だった。
*
遺体の引き取りは、まだ先だという。
司法解剖の完了と、再鑑定の確認が必要とのことだった。
つまり、まだ“渡せない”。
その言葉を聞いた瞬間、俺は席から立ち上がった。
胸の奥から、黒く濁った怒りがこみ上げてくる。
「渡せない? ふざけるな……!」
声が裏返った。警察署の空気が、一瞬静まり返った。
だが、誰も反論はしなかった。
ただ、当たり前のことを淡々と伝えてくる。
遺体は証拠だと。
捜査のためだと。
俺にとっては娘でしかないのに、
彼らにとっては“殺人事件の被害者の遺体”でしかない。
この国の正義は、こんなにも遠いのか。
*
自宅に戻った俺は、部屋中のカーテンを閉め、電気もつけなかった。
それでも、美優の痕跡はどこにでもあった。
床に散らばった色鉛筆、冷蔵庫に貼られたクマのマグネット、洗面所に残った小さな歯ブラシ。
“いなくなった”という現実を、目に見えるすべてが繰り返し教えてくる。
何度も吐きそうになった。
何度も、床を殴った。
「なぜ、俺なんだ……なぜ……」
俺は、誰に問いかけていたのだろう。
*
その夜、スマホの通知が一件だけ届いた。
差出人不明のメール。
件名はない。本文もない。
添付されたファイルひとつ。
震える手でそれを開いた。
画像だった。
白黒の、監視カメラ風の静止画。
映っていたのは、俺の家の玄関前だった。
そしてそこに、美優の後ろ姿。
手には、小さなリュック。
髪は二つ結び。
扉の向こうに、誰かが立っている。
顔は映っていない。ただ、手だけが伸びていた。
次の瞬間、俺の中の何かが崩れた。
「見ていたのか……?」
あの瞬間を、あのわずかな“6分27秒”を。
誰かが、俺の不在を“選んで”そこにいたのか。
つまりこれは——偶然ではなかった。
そして、メールの本文に、最後にこう書かれていた。
「君が扉を開けたのではない。君が、彼女を外へ出したんだ。」
怒りも、悲しみも、もうなかった。
代わりに残ったのは、自分自身への恐怖だった。
*
深夜。
俺は机に向かい、報道時代の記録ファイルを引っ張り出していた。
古いノートPCを立ち上げ、過去の取材メモ、メール履歴、録音データを開いていく。
今、思い返せば、おかしい点はいくつもあった。
5年前の誤報。
不起訴になったあの教師。
強引に押し通した原稿。
“正義”の名のもとに潰した声。
そして今、死んだのは、美優。
「これは……報いなのか?」
誰かが俺に“正義”の定義を問い直してきている。
これは、復讐ではない。
裁きだ。
そして次に誰が狙われるか、俺にはわかっている。
それは——俺自身だ。