交差
パソコンのファンがうるさく唸っていた。
熱で膨張したボディが軋むたび、俺の神経はその音に刺された。
モニターに映し出されたのは、五年前のメールのやり取り。
被害者家族、地元の警察官、そして当時のデスクとの打ち合わせ記録。
再読するたび、胃が締めつけられる。
文字の行間に、無視した声が詰まっていた。
「取材の限界だ」「裏が取れなかった」「証拠がない」――
すべてが言い訳だった。
真実を追うふりをしていた俺は、ただ“使える材料だけ”を選び取って記事にした。
それが報道だと思っていた。
世間に伝わる「正しさ」を、選び取ること。
でも今、俺の娘は死んだ。
俺が選ばなかった“声”の先にいた、あの子が。
*
「遺体が見つかりました。千葉県の廃団地。被害者は40代男性。名前は……村上克典。記憶にありますか?」
刑事・芹沢からの連絡だった。
彼は沈んだ声で、淡々と情報を読み上げた。
村上克典――その名は、すぐに思い出せた。
五年前、誤報事件の舞台となった女子高生失踪事件で、当時“保護者側の協力者”とされていた男。
だが後の報道で、俺は彼の証言を無視した。
理由は単純だ。
矛盾が多かった。発言に感情が入りすぎていた。
デスクに「この証言は使えない」と言われ、捨てた。
その村上が、死んだ。
「現場には何か……ありましたか?」
震える声で尋ねると、芹沢は沈黙のあと、低く答えた。
「現場には……お前の名前が書かれた紙切れが落ちていた」
目の前の世界が、わずかに歪んだ。
「おそらく、“彼を裁いたのはお前だ”というメッセージだろう。犯人はお前を、正義の代行者と見ている」
芹沢の言葉は、もう遠くから聞こえてくるようだった。
頭の奥で、何かが砕けていく音がした。
*
夜。
リビングのテーブルに、美優の遺影をそっと置いた。
本当は、写真なんてまだ見たくなかった。
でも、そこにいなければ、俺はもう立っていられなかった。
「ごめん、美優……」
それしか、言えなかった。
手元には、犯人から届いたメールのコピーがある。
それは印刷するだけでも、吐き気がする内容だった。
「君は一度、真実から目を背けた。今度はどうする?
君の正義が、また一人を殺すか。
それとも、今度こそ、本当に書くか?」
メールの末尾には、ひとつの地名が記されていた。
それは、美優の事件現場とは別の、まだ何も起きていない土地の名前。
「次はここで、誰かが死ぬってことか……」
犯人は俺に、選ばせようとしている。
報じるか、黙るか。
守るか、見殺すか。
*
翌日、俺はかつて所属していた新聞社の編集局を訪れた。
アポなしの来訪だったが、受付の若手社員が俺を見るなり目を見開いた。
「……村瀬さん? 久しぶりです……あの……」
「会わせてくれ。木原デスクに」
編集局長代理となっていた木原は、今も昔も変わらず仏頂面だった。
会議室に通され、椅子に座った瞬間、彼は低く口を開いた。
「……娘さんのこと、聞いたよ。言葉がない」
「ありがとう。でも、今日は同情をもらいに来たんじゃない。報道に関する過去のデータを見せてほしい。5年前の事件の、未掲載記録」
木原の眉がぴくりと動いた。
「まさか、お前……今さら“正義”でも語るつもりか?」
「違う。俺が、何を潰したのか確かめたいんだ」
しばらくの沈黙ののち、木原は短く吐き捨てるように言った。
「勝手にしろ。ただし、社外には漏らすなよ。死人に口なしって言葉、信じてないからな」
*
編集局の資料室。
埃臭いファイルの山から、俺は当時の未掲載分の証言記録を掘り返した。
すると、あった。
村上克典が、当時語っていた証言の全文。
そして、そこには“あの教師”とは別の名前が出ていた。
地元のボランティア団体代表。表沙汰になっていないが、複数の女子生徒に対して不適切な接触をしていたという噂。
だが、どのメディアもその名前を出さなかった。
証拠不十分。訴訟リスク。忖度。
俺もまた、それを無視した側だった。
「……全部、あの時、わかってたんじゃないか」
そうだ。
正義は、知っていた。
でも、信じなかったのは、俺だった。
だから、今――
誰かが俺を、逆の形で“使って”いる。
*
夜。
帰宅した俺のスマホに、新しいメールが届いていた。
「明日、夜9時。国分寺南口のビル屋上。
次の“裁き”を見届けろ。君が見届けなければ、裁きは完了しない。
最後に、君にも問う。
『君は、報道の名で誰を守った?』」
添付された画像は、見覚えのある男の顔だった。
5年前の事件で“被害者の母親”の再婚相手として、一度だけ取材した人物。
当時、彼の過去に暴力団との関係があると噂されていたが、俺は「関係なし」と判断して、その部分を削除した。
今、犯人は言っている。
「次は、お前が“見逃した男”を裁く」と。
俺は椅子に崩れ落ちた。
目の前の世界が、再び濁っていく。
“次の犠牲”を止めるためには、
俺が、過去を全部、曝け出さなければならない。
守るために書いた言葉が、
奪うための刃になっていた。
正義とはなんだ。
正しいとは誰だ。
裁かれるべきは――俺自身なのかもしれない。




