証人
夜の国分寺駅は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
南口のロータリーには人気が少なく、街灯の光が濁った空気に滲んでいた。
メールにはこうあった。
「明日、夜9時。国分寺南口のビル屋上。
次の“裁き”を見届けろ。君が見届けなければ、裁きは完了しない」
時計は、20時58分を指していた。
俺はゆっくりと歩きながら、指定されたビルへと向かった。
その建物は、築数十年の古びた雑居ビル。
1階にはシャッターの下りた中華料理店。
2階には空きテナントの貼り紙。
3階には看板のないスナック。
4階より上には、何も書かれていなかった。
屋上へ続く階段は、錆びついた鉄の匂いが鼻をついた。
誰もいないことを祈りながら、俺は一歩ずつ踏みしめて登った。
扉を開けると、夜風が一気に吹き込んできた。
そして、そこには――いた。
屋上の中央。
薄いビニールシートの上に、男が縛られて座らされていた。
両手は背後で結束バンドに固定され、口にはガムテープ。
顔には殴打の痕、額からは血が滲んでいる。
だが、生きていた。目だけが、俺を睨んでいた。
その顔には、見覚えがあった。
5年前、失踪した少女の継父。
俺が当時、噂を打ち消すような記事を書いた男。
名前は——佐原義久。
*
「……なぜ、ここに……」
呟いたその瞬間、屋上のスピーカーから低く割れた音が響いた。
「ようこそ、村瀬記者。あなたにしか見届けられない裁きが、今ここで行われる」
それは、機械音声ではなかった。
誰かが録音した、生の声。
だが抑揚が抑えられ、男か女かも判然としなかった。
「この男は、あなたがかつて“守った”人物。
被害者の家族が訴えた声を、あなたは“根拠がない”と一蹴し、原稿から削除した。
結果として、彼は警察からも疑われず、事件は闇に消えた」
俺は唇を噛んだ。
当時の記憶が、脳裏に焼きつくように蘇る。
佐原の暴力団との関係。
証言はあった。だが“信憑性が薄い”という理由で削った。
その判断が、彼を“無罪”にした。
「今、ここで行われるのは、“報道では裁けなかった正義”だ。
君が証人だ。これは、君の物語でもある」
音が止んだ。
静寂の中、俺は数歩、前へ出た。
「やめろ……本当に殺すつもりか? こんなやり方で、正義が通ると思ってるのか……!」
声が夜空に吸い込まれていく。
返事はない。
その時だった。
屋上の隅から、何かがカチリと動いた音がした。
ライトが点いた。
その瞬間、俺の全身が凍りついた。
佐原の頭上に、簡易な落下装置が取り付けられていた。
ワイヤー。タイマー。重り。
まるで、公開処刑のような仕掛け。
足元には小さな表示パネル。
残り時間を示す赤い数字がカウントダウンを始めていた。
00:01:59
あと、2分。
「ふざけるな……やめろ! やめろって言ってるんだ!!」
俺は駆け出した。
佐原の元へ、足をもつれさせながら走る。
結束バンドを外そうとしたが、固く締まりすぎていた。
ポケットから鍵もナイフも出てこない。
タイマーは、止まらない。
00:01:21
佐原の目が、涙で濡れていた。
あの時の高圧的な表情は消え、ただの“助けを求める人間”の目をしていた。
「……俺じゃない……俺は……やってない……」
ガムテープの隙間から漏れるように、絞り出された声。
信じろというのか。
今さら。
00:00:49
それでも俺は、手を止めなかった。
腕をこすり、バンドを引っ張り、足で踏みちぎろうとした。
でも、間に合わなかった。
最後の一秒。
00:00:01
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
鋭い音とともに、重りが落下した。
佐原の首が、勢いよく引かれた。
悲鳴はなかった。
ただ、体がぶらさがり、微かに揺れた。
俺の喉から漏れたのは、声ではなく、嗚咽だった。
「……違う……こんなのは……違う……!」
力が抜け、膝が地面についた。
遠く、夜の風が吹いた。
ビル群の中に、誰かの気配があったような気がした。
だが、誰の姿もなかった。
*
その日の深夜。
再びメールが届いた。
「君は証人になった。
次の裁きも、見届けてもらう。
正義とは何か。
本当に問うべき相手は誰か。
君がそれを知らなければ、この国はまた一人、静かに死んでいく」
添付された画像は、公園のベンチで眠るホームレスの女性だった。
彼女は、かつて俺が追っていた“高齢者孤独死問題”で取材した人だった。
その時、記事にしなかった。
理由は、「読者受けしない」と編集長に言われたから。
次は、彼女が殺されるのか。
もう、偶然ではない。
犯人は――俺の足跡の上だけを選んで、殺している。
そして今、俺はそれを、見ているだけの人間になっていた。
誰が正しいかなんて、もうどうでもいい。
誰が間違っていたかなんて、とうに知っている。
問題はひとつだけだ。
“俺が、今ここで何をするのか”だ。




