執行
俺はポケットから、美優のスケッチブックを取り出した。
表紙は、薄汚れていた。
中には、太陽や花や動物たち。
そして、最後のページに、俺と美優の絵があった。
大きな手と、小さな手が繋がれている。
その絵だけが――唯一、正しかった。
「君は何人を殺した?」
犯人の声が背後から問う。
「わからない。
でも、たくさんの“声”を殺したのは確かだ。
誰かの告発を切り捨て、誰かの恐怖を見過ごし……
あの夜、娘が鍵を開けたのも、俺が“語らなかった父親”だったからだ」
俺の声は震えていなかった。
もうすでに、何も怖くなかった。
犯人が懐から小さなナイフを差し出した。
それは、派手なものではなかった。
むしろ簡素で、安物に見えた。
「ここで死ぬことで、君は“物語”になる。
そして、全ての“報道されなかった声”の象徴になる」
俺はナイフを手に取った。
風が吹いた。
屋上から見える街の光は、誰の悲しみも知らずに瞬いていた。
「最後に、ひとつだけ教えてくれ」
俺はそう言って、背後の人物を見た。
「……君は、誰なんだ?」
少しの沈黙のあと、マスクの奥から、声がこぼれた。
「……君が殺した、“声のひとつ”だよ」
その言葉を聞いたとき、
俺は――ああ、と思った。
思い出せなかった。
でも確かに、俺はこの声を、かつて切り捨てた。
だから、今。
俺は、その声に“形”を与える。
自分の死を使って。
ナイフの刃先は、冷たくて、静かだった。
胸元にあてがうと、不思議なほどに心は落ち着いていた。
怖くなかった。
誰かのせいにすることも、もうなかった。
俺が殺した“声”たちに、ようやく形を与えられる。
報道できなかったすべてに、最期で報いを示す。
これは懺悔ではない。
これは、終わり方の選択だ。
俺は深く息を吸い、そして――刃を突き立てた。
視界が滲み、世界が遠ざかる。
目の端に、美優の姿が見えた気がした。
あの日のままの笑顔で、こちらを見ていた。
「パパ……、だいすきだよ」
それは幻だったのかもしれない。
けれど、それでよかった。
俺は、確かにそこに“正しさ”を見たのだから。
*
数日後。
新聞の社会面に、小さな訃報記事が掲載された。
元記者・村瀬直人、都内の廃ビル屋上で死亡
傷害の跡はなく、自死とみられる
近くに遺書などは見つかっていない
警察は事件性を慎重に調査中
報道は、それだけだった。
だが、別の場所に、もう一つの“記事”が投下された。
それは匿名ブログに投稿された、奇妙な声明だった。
「報道が正義を裏切った瞬間、人は“無名の死者”になる。
君の沈黙が生んだ声は、ついにひとつの“終幕”を迎えた。
これは復讐ではない。
これは芸術だ。
すべての未報道に捧げる、静かな造形。
作品番号7――“記者の死”。
完成。」
その日以降、同様の声明は投稿されていない。
犯人の正体も、行方もわからないまま。
ただひとつ残ったのは――
記者・村瀬直人という男の、死だった。
*
彼が伝えたかった“正義”は、
果たして誰かに届いただろうか。
そしてあの犯人の“芸術”は、
一体、どれほどの犠牲を背負っていたのだろう。
誰も、それを語らない。
ただ、ページの余白にぽつんと残された、
小さな文字だけが、最後に語っていた。
「正義とは、命と引き換えにしか生まれないものだ」
そして物語は、幕を下ろした。




