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正義執行  作者: 凡人
14/14

執行

俺はポケットから、美優のスケッチブックを取り出した。


表紙は、薄汚れていた。

中には、太陽や花や動物たち。

そして、最後のページに、俺と美優の絵があった。


大きな手と、小さな手が繋がれている。


その絵だけが――唯一、正しかった。


「君は何人を殺した?」


犯人の声が背後から問う。


「わからない。

でも、たくさんの“声”を殺したのは確かだ。

誰かの告発を切り捨て、誰かの恐怖を見過ごし……

あの夜、娘が鍵を開けたのも、俺が“語らなかった父親”だったからだ」


俺の声は震えていなかった。

もうすでに、何も怖くなかった。


犯人が懐から小さなナイフを差し出した。

それは、派手なものではなかった。

むしろ簡素で、安物に見えた。


「ここで死ぬことで、君は“物語”になる。

そして、全ての“報道されなかった声”の象徴になる」


俺はナイフを手に取った。


風が吹いた。


屋上から見える街の光は、誰の悲しみも知らずに瞬いていた。


「最後に、ひとつだけ教えてくれ」


俺はそう言って、背後の人物を見た。


「……君は、誰なんだ?」


少しの沈黙のあと、マスクの奥から、声がこぼれた。


「……君が殺した、“声のひとつ”だよ」


その言葉を聞いたとき、

俺は――ああ、と思った。


思い出せなかった。

でも確かに、俺はこの声を、かつて切り捨てた。


だから、今。

俺は、その声に“形”を与える。


自分の死を使って。


ナイフの刃先は、冷たくて、静かだった。


胸元にあてがうと、不思議なほどに心は落ち着いていた。

怖くなかった。

誰かのせいにすることも、もうなかった。


俺が殺した“声”たちに、ようやく形を与えられる。

報道できなかったすべてに、最期で報いを示す。


これは懺悔ではない。

これは、終わり方の選択だ。


俺は深く息を吸い、そして――刃を突き立てた。


視界が滲み、世界が遠ざかる。

目の端に、美優の姿が見えた気がした。

あの日のままの笑顔で、こちらを見ていた。


「パパ……、だいすきだよ」


それは幻だったのかもしれない。

けれど、それでよかった。


俺は、確かにそこに“正しさ”を見たのだから。



数日後。

新聞の社会面に、小さな訃報記事が掲載された。


元記者・村瀬直人、都内の廃ビル屋上で死亡

傷害の跡はなく、自死とみられる

近くに遺書などは見つかっていない

警察は事件性を慎重に調査中


報道は、それだけだった。


だが、別の場所に、もう一つの“記事”が投下された。


それは匿名ブログに投稿された、奇妙な声明だった。


「報道が正義を裏切った瞬間、人は“無名の死者”になる。

君の沈黙が生んだ声は、ついにひとつの“終幕”を迎えた。

これは復讐ではない。

これは芸術だ。

すべての未報道に捧げる、静かな造形。

作品番号7――“記者の死”。

完成。」


その日以降、同様の声明は投稿されていない。


犯人の正体も、行方もわからないまま。


ただひとつ残ったのは――

記者・村瀬直人という男の、死だった。



彼が伝えたかった“正義”は、

果たして誰かに届いただろうか。


そしてあの犯人の“芸術”は、

一体、どれほどの犠牲を背負っていたのだろう。


誰も、それを語らない。


ただ、ページの余白にぽつんと残された、

小さな文字だけが、最後に語っていた。


「正義とは、命と引き換えにしか生まれないものだ」


そして物語は、幕を下ろした。

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