正義
人は“正義”を語るとき、自分の背後に何人の死者を立たせているかを知らない。
俺はその数を知らなかった。
いや、知ろうともしなかったのだ。
あの日――美優が死んだあの日から、俺の背中に立つ人間の顔が、夜ごと浮かぶようになった。
名前も知らないまま、踏み越えてきた他者たち。
気づけば、俺は“正義”の名のもとに、彼らを静かに殺していたのかもしれない。
そして今、俺は――その報いの最後に立っている。
*
それは、唐突なメールだった。
差出人不明。本文はたった一行。
「君が最後の“完成”だ」
添付された画像には、俺の後ろ姿。
新宿西口地下、藤倉澄子に記事のコピーを手渡した瞬間のものだった。
あれは、俺が初めて「声を救った」と思えた日。
けれど――犯人にとっては、「作品が始まった瞬間」だったのだろう。
声を拾ったことすら、彼の手の中だったというのか?
背中に冷たい汗が這う。
だが、今さら逃げる理由もない。
メールの末尾には、こう記されていた。
「場所は屋上。私が書く最後が待っている」
あの場所だ。
最初の犠牲者・村上克典が発見された、廃ビルの屋上。
犯人はそこで始め、そこで終えるつもりだ。
俺は、その“最後のページ”として――呼ばれた。
*
その日、東京はよく晴れていた。
窓の向こうには、冴えた青。
太陽は冷たく白く、ビルの陰がアスファルトに長く落ちていた。
俺は書きかけの原稿を閉じ、引き出しを静かに開けた。
中には、取材ノートが数冊。
壊れかけたICレコーダー。
美優が残した、小さなスケッチブック。
すべての罪がここにある。
俺はスケッチブックを手に取り、鞄に入れた。
美優の声を聞きたかった。
……でも、録音なんて、どこにもなかった。
あの子の声は、俺の頭の中にしか残っていない。
「パパは、良い人なんでしょ?」
その言葉が、今でも痛い。
正しい人間など、どこにもいなかった。
正しさの“ふり”をしていた俺がいた。
それだけだった。
*
午後六時。
俺は廃ビルの前に立っていた。
以前に来たときと何も変わらない。
誰にも知られない裏路地に面した、老朽化した五階建ての建物。
張り紙の色も剥げ、壁には落書きが増えていた。
玄関の錠はすでに壊されていて、軽く押すだけで開いた。
内部は暗く、鉄のにおいがした。
一歩ずつ階段を登るたびに、靴音が埃を巻き上げる。
五階まで来ると、屋上へ続く非常階段が現れた。
かつて、あの男――村上克典が殺され、晒された場所。
あれは序章だった。
今、幕が降りる。
俺は、扉を開けた。
*
屋上は無風だった。
ビルの谷間に囲まれた空間に、乾いた空気が満ちていた。
まるで、時間そのものが静止しているようだった。
そして――そこに、いた。
黒いコート。白いマスク。帽子の下から伸びる髪。
背格好は中肉中背。年齢も性別も判然としない。
だが、目だけは見えた。
冷たく、しかしどこか静かな熱を宿していた。
「……君が、俺を殺すのか?」
俺が問いかけると、相手は微かに首を横に振った。
「違うよ。君が君自身を“完結”させるんだ」
「……完結?」
「私が書きたかった“物語の終わり”は、もうすぐ書き上がる。
だが、そのページに“君という存在”が残っていては、美しくない」
俺は少しだけ笑った。
「美しい、ね。
人の死が、“芸術”になるとでも?」
「なるさ。
報道も、文学も、真実も、誰かに届かなければ存在しない。
君の“正義”がどれほど語られても、君自身が死ななければ完成しないんだ。
君は“加害者であり、被害者”であり、最後には“象徴”でなければならない」
「……ただの人間じゃ、ダメなのか?」
その問いに、犯人はゆっくりと首を横に振った。
「ダメだ。
君がこの世界に生きている限り、正義は揺らぐ。
だから“終わらせる”。
君自身の手で」




