#2 討伐命令、ただし無視
翌朝。
昨夜の騒ぎが嘘だったかのように、ダズリンの空には穏やかな朝日が差していた。
けれど、街の空気は明らかに昨日までとは違っていた。
宿屋の窓から見える通りでは、荷物を抱えて急いで歩く家族がいる。
港には普段より多くの馬車が集まり、街を離れようとする者たちが順番を待っていた。
三か月後に、魔族がまた来る。
その言葉は一晩で街中へ広まっていた。
デイジーもいつもより早く起き、出かける準備をしていた。
「デイジーさん、おはようございます」
宿の一階へ下りると、受付にいた女将がいつものようににこやかに声をかけてきた。
「昨夜はお休みになれましたか?」
「はい。ありがとうございます」
デイジーもいつもの笑顔を返す。
「ちょっと出かけてくるので、部屋の鍵預けときますね」
鍵を受け取りながら、女将の顔が少し曇った。
「昨日はあんなことがありましたから……どうかお気をつけてくださいね」
「うん。ありがとう」
デイジーが笑うと、女将も少し安心したように笑った。
「それにしても、デイジーさんがこちらに滞在されてから、もう随分経ちましたね」
「そうだねぇ」
「知る人ぞ知る吟遊詩人のデイジーさんが、こんな小さな宿に長くいてくださるなんて、本当に光栄なんですよ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃありませんよ。最近は暗い話ばかりでしょう? でもデイジーさんが広場で歌ってくださる日は、街のみなさんが楽しそうで」
女将は少しだけ声を落とした。
「こんな世の中だからこそ、歌って必要なんでしょうね」
「……そうだといいな」
昨晩、魔族が現れるほんの少し前まで、子どもたちは笑っていた。
大人は酒を飲み、みんなで歌っていた。
デイジーは、そんなダズリンが好きだった。
「素敵な街だからさ。つい長居しちゃった」
「まあ、嬉しい」
「海を見ながらゆっくり詩も書きたいし、もうちょっといるつもり。しばらくよろしくね」
「もちろんです! どうぞゆっくりしていってください」
――それに昨晩のことも気になる。
もっと調べたい。
「そうそう!」
女将が何かを思い出したように声を上げた。
「デイジーさんにお渡ししないといけないものがありました」
「ん?」
女将が受付の奥から、一通の封書を取り出す。
「お手紙です」
デイジーの視線が封筒へ落ちた。
見覚えのある紋章が目に入る。
「誰から?」
分かっていた。
それでも聞く。
「国家軍司令部からです」
ほんの一瞬、デイジーの笑顔が止まった。
「早急にお渡ししてほしいとのことで」
「……そう」
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「ありがとう」
デイジーは封筒を受け取った。
女将は少し驚いたようにそれを見る。
「デイジーさんって、本当にすごい方なんですね」
「なんで?」
「国家軍ともお知り合いなんて。吟遊詩人のお仕事で、軍の方とも――」
パチン。
乾いた音が響いた。
デイジーが指を鳴らしていた。
「……え?」
女将の言葉が止まり、目から表情が消えた。
身体は立ったままだが、意識だけが少し遠くへ退いたような顔になった。
デイジーは女将を見ながら、小さく息を吐く。
「ごめんね」
さっきまでの明るい声とは違う、静かな声だった。
「やっぱり気が変わった」
女将は無表情のままデイジーを見る。
「今日、この宿を出る。チェックアウトしていい?」
「はい。かしこまりました」
女将は機械のように返事をした。
デイジーは財布を取り出す。
「これまでの宿泊料金」
「はい。かしこまりました」
金を差し出すと、デイジーは少しだけ女将の顔を見た。
「それから」
もう一度、パチン、と指を鳴らす。
今度は女将の身体から力が抜けた。
「……っ」
倒れる前にデイジーが身体を支え、そのまま近くのソファへ運んだ。
呼吸が楽になるよう身体を横向きにし、髪が顔へかからないよう、そっと横へ避ける。
「ごめんね、おかみさん」
デイジーは少し寂しそうに笑った。
「ご機嫌な吟遊詩人デイジーちゃんはね、国家軍と繋がってるって、知られちゃいけないの」
眠っている女将へ話しかける。
「今ね、ちょっと記憶を消させてもらった。全部消したわけじゃないよ。私が軍から手紙を受け取ったところと、その少し前後だけ」
国家軍にいた頃、彼女は人の記憶に触れる術を学んでいた。
今は軍を離れているが、旅の途中で集めた情報を司令部へ売ることがある。
その関係が広まれば、自由な吟遊詩人として各地を歩くのも難しくなる。
忘却術は万能ではない。
人間の記憶を大きく壊せば、その人そのものまで壊しかねない。
だから、できるだけ小さく、必要な部分だけを抜き取る。
それでも使いたくない術だった。
「何回もやるとよくないから、本当にごめん」
デイジーは女将の手を握った。
「この宿のご飯、おいしかったなぁ」
返事はない。
「また来るからね」
少しだけ強く握る。
「絶対,無事でいてね」
三か月後、この街がどうなるか分からない。
「……どうせ、私がここに長くいたことも、少し曖昧になっちゃうかもしれないけど」
デイジーは立ち上がり、荷物を背負った。
そして国家軍の封筒を開く。
「なになに〜?」
読み進めるうちに、表情から笑みが消えた。
「……軍議への召集」
日時と場所、そして最優先事項が記されている。
「……やっぱりね」
*
数日後。
国家軍司令部の会議室には、何人もの軍幹部が集まっていた。
五年前の大戦で王国が崩壊して以来、国家軍は生き残った兵士や各地の有力者たちと協力し、国の秩序をどうにか維持してきた。
王宮で行われていた昔の軍議とは違い、会議室は質素だった。
大きな木の机を囲む軍人たちの表情にも、かつてのような余裕は見られない。
その中で、旅芸人の格好をしたデイジーだけが、明らかに浮いていた。
「デイジー・ウォーカー」
正面に座る議長が呼ぶ。
「はーい」
「急な召集に応じてもらってすまない」
「ほんとですよ。こっちは予定がいっぱいだったんですから」
「今回は緊急事態だ」
「分かってますよ」
デイジーは椅子へ深く座り、足元に置いた楽器を寄せた。
「満月の夜にダズリンへ現れた魔族部隊についてだ。特に、鉄の魔女について話を聞きたい」
議長が一枚の資料を取り出した。
「我々の調査では、あの日現場に君がいたことが分かっている」
「よく調べましたねぇ」
「元隠密部隊の人間の居場所くらい把握している」
「それ怖いなぁ」
デイジーが苦笑すると、議長は構わず続けた。
「鉄の魔女について、何か分かったことはないか」
「見たよ」
「詳しく話してくれ」
「正体も分かりました」
会議室が静まり返った。
「何?」
議長が身を乗り出す。
「誰なんだ?」
「北の島の魔族の有力者か?」
「どんな人物だ?」
質問が一気に飛んでくる中、デイジーは片手を上げた。
「待って待って。先に情報料をください」
「……何?」
「情報料です」
議長の顔が引きつった。
「国家の危機だぞ」
「だから?」
「元軍人だろう」
「元です」
「国が滅びようとしているんだぞ!」
「そうですねぇ。でも、情報は情報ですから」
デイジーはにっこり笑った。
議長はしばらく彼女を見つめていたが、やがて大きなため息をついた。
「十万ゴールド」
「じゃ、帰ります」
デイジーが椅子から立ち上がる。
「待て!」
「それじゃ次の街までの旅費にもならないじゃないですか」
「五十万!」
「もう一声!」
「……百万ゴールドだ」
デイジーは少し考えるふりをした。
「うーん……ま、いっか。成立!」
議長が部下に合図すると、大きな金貨袋が机の上へ運ばれてきた。
デイジーは中を確かめ、満足そうに頷いた。
「うん。ちゃんとある」
「早く話せ!」
「分かりましたよぉ」
デイジーは袋を足元へ置き、椅子へ座り直した。
「あれこれ説明するのも面倒だから、結論から言うね」
軍幹部たちが彼女へ顔を向けた。
「あの鉄の魔女の正体だけど」
デイジーは一度だけ息を吸った。
「レオナ・ジョーンズだよ」
誰も声を出さなかった。
「……何?」
やがて、一人の軍人が口を開く。
「レオナ……ジョーンズ?」
「五年前に戦死した、王の犬の兵士長か?」
「そう」
デイジーは静かに答えた。
「レオナ・ジョーンズ。間違いないと思う」
会議室が一気に騒がしくなった。
「あり得ない!」
「レオナは死んだはずだ!」
「遺体は発見されていなかったが……」
「では、魔族に回収されたということか?」
「それならなぜ、魔族側にいる!?」
「人間を裏切ったのか!」
「それは違うと思う」
デイジーの声に、何人かが口を閉じた。
「なぜそう言える?」
「知ってるから」
「五年前の彼女をか?」
「うん。少なくとも、私が知ってるレオナ先輩は、人間が嫌になったから魔族側につくような人じゃない」
「では、操られていると?」
「分からない」
「魔族の魔法か?」
「それも分からない」
デイジーは腕を組んだ。
「私は医者でも魔族の研究者でもないからね。ただ……何かあったんだと思う」
「しかし、君は正体が分かったと言ったな。顔を見たのか?」
「顔は仮面で隠れてた。でも、槍の動きが同じだった」
デイジーは机の上に置かれた資料へ目を向けた。
「それに、声も聞いた。あの人の声だったよ」
軍人たちは顔を見合わせた。
やがて、年配の軍人が静かに口を開いた。
「仮に本当にレオナ・ジョーンズだとすれば……厄介だな」
別の軍人が頷く。
「王の犬でも最強の一人だった」
「槍に関しては、軍内でも並ぶ者がほとんどいなかった」
「しかも今は魔族の力を得ている。ダズリンでの報告が事実なら、広範囲の人間の身体を一度に止められるらしい」
「正面から兵をぶつければ、被害は甚大だ」
「では、どうする?」
年配の軍人は、机の上の報告書を指で叩いた。
「大軍を送っても意味はない。百人集めようが千人集めようが、近づく前に全員動けなくなれば同じことだ」
「では、少数精鋭で?」
「そうだ。ただし、一人一人が並の兵士とは比較にならないほど強くなければならん」
そこで、議長の視線がデイジーへ向いた。
「デイジー・ウォーカー」
嫌な予感がした。
「……何?」
「君に頼みたいことがある」
「嫌です」
「まだ何も言っていない!」
「顔で分かるんだもん」
「聞け!」
議長は少し身を乗り出した。
「鉄の魔女に対抗できる者を集めてほしい」
デイジーの笑顔が消えた。
「……私が?」
「レオナ・ジョーンズの強さを知っている者でなければ、人選は難しい」
「軍の中から選ばればいいじゃないですか」
「それができれば、そうしている」
議長は資料を机へ置いた。
「元国家軍の兵士長が魔族となり、人類への攻撃を宣言した。この事実が広まれば、軍の権威にも関わる」
デイジーは眉を寄せた。
「……それが理由?」
「理由の一つだ」
「人間を守るより、軍の面子が大事なんですか?」
「言葉を選べ」
「選んでますよ」
会議室の空気が重くなる。
議長は彼女の言葉には答えず、説明を続けた。
「表立って大部隊を動かせば噂になる。だから、正式な軍部隊としては動かさない」
「私兵団ってこと?」
「そうだ。表向きは軍とは無関係の部隊として動いてもらう」
「都合いいですねぇ」
「必要な措置だ」
デイジーは肩をすくめた。
「それで? 期限は?」
「三か月後の、次の満月の祭りまでだ」
「そんな短い期間で、レオナ先輩と戦える人なんて簡単に集まりませんよ」
「分かっている。だが、それまでに可能な限りの戦力を整えてほしい」
「条件は?」
「鉄の魔女と戦えること」
「雑だなぁ」
「金は出す」
「いくら?」
「必要なだけ」
「それ先に言ってくださいよ」
デイジーが少しだけ笑った。
しかし、議長の次の言葉で、その笑みは止まった。
「そして」
議長がまっすぐに彼女を見た。
「鉄の魔女を殺せ」
デイジーは何も答えなかった。
「正体がレオナ・ジョーンズであろうと関係ない。三か月後に魔族が再びダズリンへ来る前に、可能なら接触して排除する。難しい場合は、次の襲撃時に討て」
議長は淡々と続けた。
「証拠として、首を持って帰れ」
デイジーの指が、机の下で僅かに動いた。
「……随分、簡単に言いますね」
デイジーの声は静かだった。
「複雑な気持ちは分かる」
「分からないでしょ」
「デイジー・ウォーカー。任務だ」
「……分かってます」
「国家軍隠密部隊の元精鋭だった君なら、抜かりなくやれると信じている」
「もう辞めたんだけどなぁ」
「国の未来のためだ」
「便利な言葉ですね、それ」
議長は答えなかった。
デイジーは足元の楽器を手に取り、椅子から立ち上がった。
「分かりました」
それだけ言って、会議室を出た。
*
司令部の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
デイジーは人通りの少ない路地へ入り、壁にもたれた。
軍議の間はできるだけ考えないようにしていたことが、ようやく頭の中へ戻ってくる。
三か月後、魔族はまたダズリンへやってくる。
あの黒い戦艦に乗って、鉄の魔女も現れるのだろう。
「……殺せ、か」
デイジーは鞄の持ち手を握り直した。
五年前、レオナは死んだと思っていた。
けれど、遺体は見つからなかった。
だから、どこかで生きているかもしれないと、何度も考えた。
そんな都合のいいことがあるわけないと、自分に言い聞かせたこともある。
それなのに、本当に生きていた。
姿はすっかり変わってしまっていたけれど、あの槍の動きも、声も、確かに覚えていたものだった。
「五年も待って、やっと会えたのに」
デイジーは壁に背中を預けたまま、空を見上げた。
レオナがどうして魔族側にいるのかは分からない。
操られているのかもしれないし、記憶を失っているのかもしれない。
あるいは、デイジーの知らない五年間に、本当に人間を憎むような出来事があったのかもしれない。
考えても答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ分かっていることがあった。
レオナが自分の意思であそこに立っているのかどうか、デイジーはまだ確かめていない。
それなのに、殺すと決めることなんて。
「……違うな」
デイジーは壁から身体を起こした。
「殺すの……やだなぁ!」
思わず声に出すと、少しだけ胸が軽くなった。
「私は……先輩を連れて帰りたいんだよ」
そのためには、まず彼女のところまで辿り着かなくてはならない。
声だけで大勢の人間を動けなくする相手だ。
軍が考えているように、並の兵士を何人集めても太刀打ちできないだろう。
それなら、レオナと渡り合えるだけの力を持つ仲間たちを探せばいい。
彼女のことをよく知っていて、一緒に戦してくれる人たちを。
デイジーの頭に、懐かしい顔がいくつも浮かんだ。
今はどこで何をしているのか、簡単には分からない人もいる。
事情を話したところで、すぐに協力してくれるとも限らない。
「……うん。そうしよ!」
デイジーは空を見上げた。
「先輩、ちょっと待っててね」
肩の鞄を背負い直し、路地から通りへ出る。
夕陽に染まる通りを歩きながら、デイジーは指を折って懐かしい顔を思い浮かべた。
「さて……誰から行こっかなぁ!」
三か月。
レオナ・ジョーンズを連れて帰る。
そのための仲間集めが、ここから始まった。
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