エピローグ:漂着した「原点」、あるいは回想の波頭
共和国の設立から月日が流れ、世界を巡る『パレット・フロンティア』の旅が第3巻に差し掛かろうとしていたある日のこと。
カツミ(北斎)たちは、東方の島国へと続く古い港町で、奇妙な荷物を受け取った。
「……にゃはは。なんじゃ、この薄汚れた封筒は。差出人も書いておらぬぞえ」
カツミは、宿のテーブルに置かれた封筒を、漆黒の左腕で器用に持ち上げた。パブロの補完によって強固な実体を得たその腕は、今やカツミの誇りでもある。銀髪のポニーテールを揺らし、真珠の髪留めを光らせながら、彼女は右手の指先でそっと封を切った。
中から出てきたのは、一葉の古い和紙だった。
それを見た瞬間、カツミの喉が「ひっ」と鳴った。
「……こ、これは……」
そこに描かれていたのは、逆巻く大波。富士を背に、舟を呑み込まんとする圧倒的な水の躍動。
それは魔術でも具現化でもない。かつて、嘉永の世で、九十歳の老絵師が心血を注いで描き上げた本物の木版画――『神奈川沖浪裏』の原画そのものだった。
「あら……懐かしいわね、その波」
背後から、レオ(ダ・ヴィンチ)がひょいとカツミの肩越しに覗き込んだ。彼女は銀色の指先で眼鏡を上げ、カツミの銀髪をよしよしと撫で回す。
「あなたがこの世界の路地裏に現れた日、最初に見せてくれたのも、そんな波だったわ。あの頃のあなたは、今よりもずっと小さくて、必死に『形』を追い求めていたわね」
「……レオよ。おぬし、覚えておったかえ」
「当たり前じゃない。……私の計算によれば、その波こそが、私たちの『物語』が始まった最初の特異点なんだから」
カツミは、和紙の表面に残るかすかなインクの匂いを吸い込んだ。
江戸の空。畳の匂い。描き切れなかった無念。
そして、この世界に来て、最初にボロボロの筆を拾ったあの日のこと。
(……なぜ、これがここに流れ着いたのかは分からぬ。だが、この波がわしを呼んでおる気がするのじゃ)
カツミは目を閉じた。
漆黒の左腕が、熱く脈動する。
脳裏に蘇るのは、まだレオたちと出会う前。銀髪の幼女として路地裏に降り立ち、絶望の淵で最初の一線を引いた、あの日々の記憶。
「あぅ……カツミさん。……その波、とっても温かい音がします。……向日葵の太陽に負けないくらい、力強い命の音が……」
ヴィン(ゴッホ)が隣に座り、カツミの袖をギュッと握りしめる。メアリ(フェルメール)もまた、真珠色の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「……そうね。……私たちの旅は、この一枚から始まったのね」
カツミは、手の中の『原点』をじっと見つめた。
魔王(かつての自分)と戦い、検閲という名の絶望を塗り潰したあの日々。そのすべての始まりには、この一筋の墨線があった。
「……にゃはは! よし、決まりじゃわい!」
カツミはポニーテールを凛と跳ねさせ、不敵に笑った。
「この波がどこから来たのか、突き止めてやるぞえ! それは、わしたちが『芸術家』になる前の、ただの『画狂』だった頃の物語に繋がっておるのかもしれぬな!」
「……いいわ。あなたのその『原点』、私の最新の演算で徹底的に解剖してあげる。……覚悟しなさいよ、マエストロ」
レオがカツミを背後からぎゅっと抱きしめる。
新しい事件の予感。だが、カツミの心は、不思議とあの路地裏で筆を握った時のような、純粋な昂揚感に満ちていた。
彼女たちの旅は、未来へ向かうと同時に、自分たちの『ルーツ』を辿る新しい頁へと突入しようとしていた。
「――さあ、語ってやろうではないか! わしがこの世界で、最初にいかにして筆一本で国を救ったのかをのう!!」
カツミの咆哮が、港町に響き渡る。
物語は再び、あの日の路地裏へと回帰していく。
(……第1話:『画狂、銀髪幼女になる』へと続く)




