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第20話:伝説の読者、あるいは最強の「推し」


 ルーシーのパン屋は、今やリベルタで最も活気のある場所の一つとなっていた。カツミ(北斎)の描く漫画によって「物語のあるパン屋」として知れ渡った結果である。

 だがその日、カウンターの隅に座った一人の老人が、店内の空気を凍らせていた。

「……ぬう。この、生地の弾力。そして、この断面の気泡の並び。……合格だ」

 ボロボロの外套を羽織り、眼光だけが異常に鋭いその老人は、パンを一口食べるごとに深く頷き、そして手元の『週刊パレット』を食い入るように見つめていた。

「だが、この三ページのパンを捏ねる描写……。肘の角度が、わずかに甘い。……作者を呼べ。この『カツミ』という画工に、真の職人の何たるかを教えねばならぬ」

 その報せがパレットハウスに届いた瞬間、アトリエは「対魔王戦」を彷彿とさせる緊張感に包まれた。

「……演算終了。あの老人の魔力残滓、リベルタの結界システムを容易に書き換えるレベルだわ。カツミ、あなたは一歩も外に出てはダメ。私がこの黄金比の防護壁クレイドルの中に、あなたを完璧に隔離してあげる」

 レオ(ダ・ヴィンチ)が、銀色の指先で部屋中に複雑な幾何学模様を展開し、カツミを中央のソファへ押し込める。

「 ふ、ふみゅうぅ……っ!? レオよ、隔離などせずとも、わしは今からその『肘の角度』を直しに……」

「……ダメよ。……あの老人が放つ『影』。……あなたの純粋な線を濁らせるノイズだわ。……私が、あなたの視界を真珠の霧で包んで、不浄なものを見せないようにしてあげる」

 メアリ(フェルメール)が至近距離でカツミの瞳を覗き込み、視覚を優しく、けれど完全に「保護」する。

「あぅぅ! カツミさんに意見しようなんて、私がその頑固爺さんの熱を、私の向日葵で上回って追い払ってきます!!」

「ヴィン、待つのじゃ! 相手はただの読者ファンかもしれぬぞえ!!」

 ヴィン(ゴッホ)が今にも窓から飛び出そうとした時、アトリエの扉が、音もなく――だが圧倒的な威圧感とともに開いた。

「――ここか。この『命の宿った線』を描く者がいる場所は」

 現れたのは、先ほどの老人。彼はパレットハウスの面々の「殺気」を柳のように受け流すと、真っ直ぐに、レオたちの腕の中に埋もれているカツミを見据えた。

「……ふむ。案外と小さいな。だが、その瞳。……お前、このパンの『匂い』を、白黒の線だけで表現しようとしたな?」

 カツミは、お姉さんたちの腕を強引にすり抜け、机の上に仁王立ちした。

「 にゃはは! いかにもじゃ! おぬし、わしの絵の『粋』が分かるのかえ?」

「……分かるどころか、昨夜は続きが気になって一睡もできんかった。……元・王宮筆頭魔導師としての名にかけて言う。貴様の線は、魔法以上の奇跡だ。……だが、先ほどのパンの描写、あれはまだ『本物』ではない」

 老人は懐から、古びた、けれど手入れの行き届いた麺棒を取り出した。

「私はかつて、パン職人の神とも称された男の魔法を封じたことがある。……その私が、真の『捏ね』を教えてやる。それを描きなさい。……次号、楽しみにしておるぞ」

 老人はそれだけ言うと、満足げに去っていった。残されたのは、圧倒的な「知識」のプレッシャーと、カツミの中に湧き上がる猛烈な創作意欲だった。

「……パブロ! 見たかえ! あのおっつけ、わしに『挑戦状』を叩きつけていきおったわい!!」

 カツミの紅い瞳が、黄金色に輝く。

「……ええ。最高のマーケティングね。あの老人は、街の重鎮たちに絶大な影響力を持つ伝説の隠者よ。……さあ、カツミ。彼が跪くほどの『神の捏ね』を描きなさい。……落稿ボツは許さないわよ」

 パブロ(ピカソ)が不敵に笑う。

「 ぬおおお! 燃えてきたぞえ!! レオ、メアリ、ヴィン! メシじゃ! 力をつけるゆえ、わしの口に最高の滋養を放り込めい!! 」

「「「イエス、マエストロ!!」」」

 レオが計算された栄養剤を注ぎ、メアリが指先を温め、ヴィンが魂のハグでエンジンを温める。

 お姉さんたちの「過剰なメンテナンス」が、今度は「伝説の読者」の期待に応えるための最強のバフへと変わる。

 カツミの筆が、リベルタの夜を切り裂くように踊り始めた。

(つづく)


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