いつもの朝
スマホが鳴った。朝七時。
真凛からメッセージ。『おはようございます。園田さんから連絡です。新しいヘルメットカメラが届いたので、今日持っていくと。吉田食堂で合流しましょう』
『了解』と打って、送った。
顔を洗った。タオルがふわふわしている。柔軟剤を買った。真凛が「篠塚さんのタオル、雑巾みたいです」と言ったからだ。——雑巾みたいで何が悪い。でも、ふわふわのタオルは悪くない。
*
吉田食堂。
引き戸を開けると、出汁の匂い。昆布と鰹節。五年間変わらない匂い。カウンター七席のうち三席が、いつものメンバーで埋まる。
「おっさん探索チーム御一行さま、いらっしゃい」
「おっさんって言うなよ、じいさん」
「おっさんだろ」
「……まあ、おっさんだけど」
朝定食が三つ並んだ。焼き鮭。味噌汁。白飯。漬物。
焼き鮭は皮がぱりっとしていて、身がほろりとほぐれる。箸を入れると、白い脂がじわっと滲む。白飯に乗せて、口に運んだ。鮭の塩気と白飯の甘さ。うまい。毎朝食べても、うまいものはうまい。
味噌汁を啜った。白味噌。出汁が濃い。前に一度、真凛が作ってくれた味噌汁もうまかったが、じいさんの味噌汁は年季が違う。同じ白味噌でも、味の深さが一段違う。何が違うのかは分からない。聞いても教えてくれないだろう。
園田が焼き鮭をほぐしながら言った。
「篠塚さん、装備の調整が終わりました。剣のグリップを巻き直しました。あと、防具の内側にクッション材を追加してあります。深層の衝撃に耐えられるように」
「ありがとう」
「真凛さん、九階層のデータまとめは」
「今日中に管理局に提出します。あと、配信のアーカイブ管理を整理したいので、午後に相談させてください」
「了解です」
二人が仕事の話をしている。俺は味噌汁を飲んでいる。
二週間前、このカウンターには俺しかいなかった。じいさんと二人で、焼き魚を黙って食べていた。
今は三人分の定食が並んでいる。三人分の湯気。三人分の箸の音。
*
C-087。配信準備。
ヘルメットにカメラを装着する。園田が新しいカメラの画角を確認してくれる。「少し左にずらします」と言いながら、ミリ単位で調整している。真凛がコメント管理のモニターを立ち上げる。配信スケジュールのチェックリストを読み上げている。
二週間前、ここには俺一人しかいなかった。猫のアイコンで、視聴者ゼロで、「見てる人はいないと思いますが」から始めた。
今は三人いる。機材も揃ってきた。朝定食を三人で食べて、準備をして、ダンジョンに潜る。帰ったら、吉田食堂で夕飯を食べる。そういうルーティンが、いつの間にかできていた。
配信開始。
視聴者数:二万三千。開始直後でこの数字だ。ゼロから始まった数字が、こうなった。
「えー、おっさん探索者です。C-087探索班、今日も潜ります」
『コメント:おっさんおはよう!!』
『コメント:真凛ちゃんおはよう!』
『コメント:園田さんおはよう』
『コメント:今日は何階層まで行くんだ??』
『コメント:九階層の下、まだあるのか?』
「九階層の竜を倒したあと、結晶にもう一度触れたら、奥にまた新しい通路が開いた。今日はその先に行ってみる」
『コメント:十階層きたああああああああ』
『コメント:底辺ダンジョンに十階層以上って前代未聞だぞ 管理局のデータベースに記録がない』
『コメント:>>2 元研究者だけどマジで聞いたことない 論文書けるレベル』
『コメント:このダンジョン一体何なんだ……』
『コメント:おっさんの冒険はまだまだ続く……』
「まあ、行けるところまで行ってみるよ。腹減る前に帰ってくるけど」
『コメント:出たww腹減る前に帰るwwww』
『コメント:おっさんブレなさすぎて安心する この安定感が好き』
『コメント:吉田食堂の夕飯が待ってるからな』
『コメント:吉田食堂が実質スポンサー』
五階層を駆け抜ける。いつもの道。いつものゴブリン。いつもの一振り。剣が空気を切って、三体の首が散る。手応えがない。蝋燭の炎を摘まむような感触。
六階層の結晶の間を通った。青白い光が顔を照らす。結晶がかすかに脈動している。手を伸ばすと、指先に温かさが触れた。いつもの温かさ。
七階層、八階層を抜ける。園田が整備した装備が体に馴染む。グリップの巻き直しが効いている。手首への負担が軽い。真凛がデータを読み上げてくれる。「七階層、異常なし。八階層、魔力濃度安定」。コメント欄が流れていく。
九階層を通過した。竜がいた場所は空っぽだった。黒い甲殻の破片が床に散らばっている。結晶の光がそれを照らしていて、破片の表面に紋様がかすかに残っていた。
その先の通路に入った。空気がさらに冷たい。さらに重い。でも、足は止まらない。体がもう覚えている。この重さの中で動く方法を。
通路の奥に、新しい空間が広がっていた。
「……広いな」
十階層。まだ誰も見たことのない場所。
壁の紋様が違う。八階層や九階層の幾何学模様ではなく——文字だ。はっきりと、文字。読めない言語だが、意味があるのは分かる。天井にまで文字が刻まれていて、空間全体が本のページの中にいるようだ。
真凛が隣にいる。魔力測定器を構えている。手が震えていない。もう慣れた。
園田が後方にいる。ツールボックスを肩から下げて、ヘッドライトで壁の紋様を照らしている。
コメント欄が騒いでいる。視聴者数が五万を超えた。
俺は剣を握った。手に馴染む。園田が巻き直してくれたグリップが、手のひらの形にぴったり合っている。
腹が減る前に、帰ってこよう。
*
配信終了後。
吉田食堂。
引き戸を開けると、煮物の匂いがした。甘い匂い。みりんと醤油。
定食三人前。じいさんが大盛りの白飯を出してくれた。今日は肉じゃがだ。じゃがいもがほくほくしていて、煮汁が染みている。牛肉がとろとろに柔らかい。白滝が煮汁を吸っていて、一本ずつ食べると味が濃い。
「今日はどうだった」
「十階層に着いた」
「ほう。すごいじゃん」
「すごくないよ。まだ奥があるみたいだから」
「まだあるのか」
「多分」
じいさんが笑った。目尻の皺が深くなる。
「遥一。お前、楽しそうだな」
「……そうか?」
「そうだよ。前より飯がうまそうに食ってる」
「飯は前からうまいだろ。じいさんの飯だぞ」
「そりゃそうだ」
真凛と園田が笑っていた。真凛は肉じゃがのじゃがいもを箸で割りながら、目だけ笑っている。園田は白飯を頬張りながら、肩が揺れている。
俺は白飯を口に運んだ。
うまい。いつもの飯だ。いつもの味噌汁で、いつもの漬物で、いつもの店で。カウンターの木の天板は年季が入っていて、腕を置くとひんやりする。壁にかかったメニュー表の字がかすれている。換気扇がかたかた鳴っている。
ただ、隣に人がいる。
それだけのことだ。
それだけのことが——まあ、悪くない。
肉じゃがの最後の一切れを口に入れた。煮汁の甘さが舌に残る。
明日も潜ろう。




