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第九章 星なき海

越の商人を司紘へ引き渡した三日後、江龍は交州を離れた。


南へ戻るわけではなかった。

北へ上がるわけでもない。

周遜はいつものように行き先を多く語らず、ただ必要な荷を積ませ、必要な水を満たさせ、風が変わる前に港を抜けた。


交州の灯は、まだ背後に見えていた。


だが夜になる頃には、もう何も見えなかった。


星がなかった。


月もなかった。


雲ではない。

空そのものが、墨を流したように均一に暗い。

海面もまた、その暗さをそのまま返している。

境目は消え、空も海もひとつの黒になっていた。


その上、夜半を待たずに霧が出た。


最初は海面すれすれを這う薄い靄だった。

だが時間が経つにつれ、白さは厚みを増した。

舳先の龍の顔が半ば消え、帆柱の根元が曇り、数丈先の海すら白い壁の向こうへ隠れる。

江龍はまるで、空も海もない場所を進んでいるようだった。


甲板の空気は重かった。


こういう夜を、船乗りは嫌う。

嵐より嫌う者もいる。

嵐は暴れる。

だが霧の海は黙っている。

黙ったまま道を奪い、気づいた時には岩へ腹を裂かせる。


呂水ですら口が少なかった。

酒壺は持っているが、傾ける回数が少ない。

羅玄は舵輪へ手を置いたまま、普段よりも呼吸すら浅い。

雷彰は甲板の中央に立ち、揺れの具合と船員たちの位置を何度も見ていた。

誰もが声を潜めていた。

大きな声を出せば、それだけで霧の向こうから何かが返ってきそうだった。


少年は船首にいた。


見ても仕方がない。

前は白い。

右も左も白い。

海は見えず、道などなおさら見えない。


それでも彼は船首にいた。


龍の彫刻のすぐ後ろ。

いつもの位置。

海をいちばん早く受ける場所だ。


後ろから、板を踏む乾いた音が来た。

周遜だった。


少年の隣へ立つ。


しばらく何も言わない。

霧の向こうを見ているようで、見ていない。

見えぬ海の重みそのものを量るような目だった。


やがて、低く言う。


「どうだ」


少年は前を見たまま答えない。


見るものがない。


だが、何もないわけではなかった。


白い壁の向こうで、海はまだ動いている。

船腹を擦る音。

波が船首で割れて、左右へ流れていく音。

帆へ入る風の弱さ。

板の下を抜ける潮の重さ。


周遜が続ける。


「見えるか」


少年は小さく首を振った。


「見えない」


周遜の口元が、かすかに動く。


「なら、どうする」


その問いに、少年は少しだけ息を吸った。


答えはもう胸の中にあった。


「聞く」


周遜は何も言わない。


ただ、その沈黙が先を促していた。


少年は目を閉じた。


閉じても変わらない。

もともと何も見えていないのだから。


聞く。


船が鳴る。

帆が鳴る。

縄が擦れる。

甲板のきしみ。

水が船腹を叩く音。

舳先で割れた波が、左右へ流れて消える音。


そして、そのもっと下。


海そのものの音。


右から来る波と、左から来る波の当たり方が違う。

左は柔らかい。

右は少しだけ硬い。

まっすぐ進んでいるようで、船尾の下では水がわずかに片へ引いている。


「右が強い」


少年が言った。


周遜はすぐ問う。


「潮か。波か」


「潮だ」


「なぜそう聞く」


少年は目を閉じたまま言う。


「波なら、もっと上で鳴る」


「これは下から擦ってる」


周遜は振り向かず、船尾へ声を飛ばした。


「羅玄」


「いる」


「右へ半度」


羅玄が無言で舵を切る。

江龍がわずかに傾いた。


水の音が変わる。

右舷を擦っていた硬い流れが、少し遠のく。

代わりに船首の先で、細い波がほどけるような音がした。


周遜が少年を見る。


「続けろ」


霧はさらに濃くなった。


帆柱の半ばすら、もう白く滲んでいる。

見張りが上から声をかけることもない。

かけようがないのだ。

見えるものがない。


甲板の中央で、呂水が低く毒づいた。


「こんな夜は嫌いだ」


雷彰が短く返す。


「好きな奴はいない」


「船長は平気そうだがな」


「平気な顔をしてるだけだ」


そのやり取りに、誰も笑わなかった。


周遜は平気ではない。

ただ、恐れを顔に出しても意味がないと知っているだけだ。


少年は船首へ手を置いた。


龍の木が湿り気を吸って冷たい。

その向こうで、海は見えぬまま動いている。


耳を澄ます。


今度は別の音があった。


遠い。

ほんのわずかだ。

だが波の返りが一度だけ途切れ、そのあとで薄く跳ね返ってくる。


開けた海なら、音は散る。

だがどこかに岸や岩があれば、わずかに返る。


「左が近い」


少年が言った。


周遜が問う。


「岸か、礁か」


「まだ分からない」


「どれくらいだ」


少年は眉を寄せる。


距離ではない。

湿り気の詰まり方。

返る音の薄さ。

それをどう言葉にするか、少し迷った。


「まだ遠い」


「でも、海が開いてない」


周遜はすぐに船尾へ声を飛ばした。


「左へ寄るな。まっすぐ保て」


羅玄の低い声が返る。


「了解」


呂水が舷側から白い霧を睨む。


「本当に分かるのか、そんなもん」


少年は答えない。


呂水は舌打ちし、それから自分に言い聞かせるように続けた。


「いや、分かるんだろうな。分かるから面白くねえ」


その声に、羅玄がぼそりと落とす。


「お前はうるさい」


「お前は静かすぎる」


霧の中のそのやり取りは、妙に遠く響いた。


だが、空気は少しだけ和らいだ。

船員たちは怖れている。

だからこそ、誰かの声が要る。

呂水はそういう時に甲板へ息を戻す男だった。


少年は再び耳を澄ませた。


今度は、前方の水の音が妙だった。


まっすぐ進んでいるはずなのに、船首で割れる波が左右均等でない。

右は流れる。

左は少しだけ溜まる。

そこへさらに、下から細い返しが当たる。


「前は狭い」


周遜の声が低く落ちる。


「どこが開いてる」


少年は目を閉じたまま、海の音を追った。


右は流れる。

だが速すぎる。

このまま入れば、船首は抜けても船尾が持っていかれる。

左は近い。

返りが強い。

正面は、死んでいる。


その正面の少し右。

ほんのわずかに、水の音が落ちる場所があった。

消えるのではない。

一度沈んで、奥でまたほどける。


「右前」


少年が言った。


「大きくじゃない。少し」


周遜が問う。


「理由は」


「真ん中は詰まってる」


「左は返る」


「右は速い」


「でも、そのあいだに一つだけ、逃げる音がある」


甲板の者たちが黙った。


見えない海を、音だけで選ぶ。

それがどれほど危ういか、皆知っている。


周遜は一息だけ置いた。


それから言った。


「羅玄」


「いる」


「右へ一度。深くは切るな」


舵輪が鳴る。

江龍がわずかに身をひねる。


その瞬間、船底の下を抜ける水が変わった。

さっきまで押しつけてきた潮が、ふっと薄くなる。

代わりに、前へ吸うような細い流れが船首を撫でた。


少年の背筋に、熱に似たものが走る。


「そこだ」


思わず声が強くなる。


「そのまま」


羅玄が舵を保つ。

呂水が白い前を睨む。

雷彰は無言で足を開き、何かにぶつかった時の備えをしている。

船員たちの呼吸まで浅くなっていた。


数十息ほどの時間が、異様に長かった。


そのあと。


霧の左側で、突然、低い砕け音がした。


ざばん、と。


近い。

かなり近い。


白い壁の向こうで波が岩へ砕けた音だった。


呂水が喉の奥で呪う。


「左に何かいたぞ……」


羅玄が短く言う。


「今さら言うな」


だがその声には、いつもの乾いた皮肉だけではない重みがあった。

認めているのだ。

今の一筋を、少年が聞き当てたことを。


周遜は前を見たまま言う。


「もう少し聞け」


少年は頷かない。

ただ耳を澄ませる。


今度は右だ。

少し離れたところで、波の返りが高くなった。

左右を挟まれている。

つまり今江龍は、狭い道へ入っている。

だがまっすぐではない。

前で、片方が開く。


「次は左」


少年が言う。


周遜が問う。


「なぜだ」


「右の返りが遠くなった」


「左はまだ近い。でも前は開いてる」


「道が曲がる」


その言葉に、周遜の目がかすかに細くなる。


「羅玄」


「聞いてる」


「左へ半度」


江龍がまた静かに身をひねる。


白い霧の中、何も見えない。

だが、船は確かに何かを避け、何かに沿って進んでいた。


それが十分ほど続いた。


やがて、ふいに風が変わった。


冷たい湿り気の中へ、ほんの少しだけ乾いた空気が混じる。

少年は目を開けた。

まだ白い。

だが、霧の奥にわずかに色が違う場所がある。


「抜ける」


小さく言った。


周遜が聞く。


「分かるか」


「風が変わった」


「それに、音が散った」


その直後だった。


前方の白が、ゆっくり薄くなった。


霧の壁が裂けるように左右へ流れ、その向こうに夜の海が現れる。

星はまだない。

月もない。

だが、さっきまでの白い墓場みたいな海ではない。

風がある。

波がある。

広さがある。


江龍は霧の帯を抜けていた。


甲板のあちこちで、長く息を吐く音がした。

誰かが膝の力を抜き、誰かが笑うより先に呪いを吐き、呂水が空へ向かって大きく唾を吐いた。


「生きたな、畜生」


羅玄は舵輪を握ったまま、珍しくはっきり言った。


「助かった」


雷彰は何も言わない。

だが少年の横へ来て、龍の彫刻を一度だけ拳で軽く叩いた。

それがあの男なりの祝いだった。


周遜はまだ前を見ていた。


しばらくしてから、ようやく少年へ目を向ける。


「何を聞いた」


少年は少し考えた。


「返り」


「……」


「波が砕ける音じゃない」


「そのあと、どこへ逃げるか」


周遜は黙る。


少年は続けた。


「海は見えなくても、黙ってない」


「狭ければ詰まるし、開けば散る」


「岸があれば返る」


「だから、聞ける」


その言葉のあとで、甲板が静かになった。


船員たちが、皆こちらを見ていた。


呂水が言う。


「見えるじゃなくて、聞こえる、か」


羅玄が低く吐く。


「そういうことか」


その声は、自分に言い聞かせるようでもあった。

海の職人として長く舵を取ってきた男が、ようやく少年の本質へ言葉を与えた声だった。


「こいつは見てるんじゃない」


羅玄は舵輪を軽く叩いた。


「聞いてる」


その一言が、甲板の上へ重く落ちた。


周遜が、ほんのわずかに笑った。


大きくではない。

だが、これまででいちばんはっきりした笑みだった。


「ようやく追いついたか」


呂水が顔をしかめる。


「何にだ」


周遜は答えない。

代わりに、海の先を見たまま言う。


「星も月もない海で、道を持たぬ船は死ぬ」


誰も口を挟まない。


「読める者が一人いれば、船は生きる」


周遜の声は静かだった。


「だがそれだけでは足りん」


少年がその横顔を見る。


周遜は続けた。


「一人の頭にしかない道は、そいつが死ねば海へ消える」


風が帆を鳴らす。

霧の帯は後ろへ遠ざかり、夜の海はまだ暗い。


「道は残さなきゃならん」


その言葉を聞いた時、少年の胸の奥で、第七章の夜に芽生えたものがもう一段深く刺さった。


海に道はあるか。


ある。

だが、読める者が一人いるだけでは足りない。

誰かが死んでも消えぬ形で、残さなければならない。


司凌の言葉が蘇る。

流れを仕組みにする。

港と港を結ぶ。

誰でも使える道にする。


周遜はそれをまだ嫌うかもしれない。

海は読める者だけのものだと、どこかで信じているからだ。

だが今夜、霧の海を抜けたこの甲板で、船員たち全員が知った。


道は要る。


海賊だからでも、商人だからでもない。

生きるために要るのだ。


呂水が小さく笑った。


「だったら、名なしの耳を切り取って艫に吊るしとくか」


雷彰がぼそりと言う。


「お前から切る」


呂水が肩をすくめる。


「冗談だよ。半分は」


その軽口に、今度は笑いが起きた。

さっきまでの重さを、ようやく人の息へ戻す笑いだった。


少年は船首へ手を置いた。


木は濡れている。

冷たい。

だが、その下で江龍はたしかに生きていた。


見る海。

聞く海。

そして、その先にある残すべき道。


霧を抜けた夜の海は暗い。

それでもさっきまでとは違っていた。

何もない暗さではない。

見えぬ道が、確かにどこかを走っている暗さだった。


周遜が船首を離れる前に、ひとことだけ落とした。


「三度目だ」


少年は顔を上げる。


周遜は振り向かない。


「考える、じゃない」


短く息を吐く。


「認める」


それだけ言って、船尾へ歩いていった。


呂水が目を丸くする。


「こりゃ本当に今夜は星がねえな。船長の口までどうかしたぞ」


羅玄は何も言わない。

だが、口元がほんの少しだけ動いた。

雷彰は少年の肩を一度だけ叩いて通り過ぎた。


少年はその場に立ち尽くした。


認める。


それは大声の称賛より、ずっと重かった。


江龍は夜の海を進んでいく。


後ろに霧を残し、前に見えない水路を抱え、黒い龍は黙って進む。

その甲板の上で、名を持たぬ少年は初めてはっきりと思った。


海の道は、ただ見つけるものではない。


聞き、読み、繋ぎ、残すものだ。


そして、いつか。


誰か一人の勘ではなく、

艦隊が、国が、世界が使える道にしなければならない。


星なき海のただ中で、その思想はようやく輪郭を持ち始めた。


まだ言葉にはなりきらない。

だが火ではなく、骨のように、体の中へ入っていく。


海に道はある。


ならば、作ることもできるはずだ。


その夜、江龍の上で、

少年は初めて「海を読む者」から、

「海の道を残す者」へ踏み出し始めていた。

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