第30話 夜の廃工場⑤
大江イブキが山姥を威圧している。その理由が碓氷雅樹には良く分からない。
掟を破ったらしい事は分かったが、何をどう破ったというのか。
雅樹の近くでへたり込んでいる沢城里香は、雅樹以上に状況が分かっていない。
「あの……イブキさん、一体そいつは何を?」
会話に割って入るのを少し躊躇いながら、雅樹は状況の説明を願う。
「雅樹なら多少なり感じるだろう? この場に漂う淀みを。この前の復習さ」
この前というのは、きっと花山総合病院の事だろうと雅樹は考えた。
あの時もハッキリとは分からなかったが、2度目となれば何となく感じる。
湿った空気、嫌な予感を覚える空間。ここに長居はしたくないと思わせる何か。
「…………何となくは」
「あそこよりここは死が濃いからね。君が今感じているのが死の淀みだよ」
今日まで雅樹がイブキから教わった事。死の多い淀みがある場所では、幽霊の発生率が高くなる。
霊魂が集まっていて、強い感情を持つ霊魂が現れると集まって幽霊へと進化する。
「あれ? でも幽霊は居ませんよね?」
雅樹はそこで違和感を覚えた。教わった通りなら、ここには幽霊も居る筈だ。
しかし遭遇したのは操られた人間達と、山姥だけで幽霊は見ていない。
人間を使っているのだから、幽霊だって部下として使いそうなのに何故だろうと、雅樹が思い至るのは自然な流れ。
「そう。これだけ霊魂が集まっていれば、幽霊は発生する。だけど、何故居ないのか……答えは簡単だよマサキ。こいつが喰っていたのさ」
マサキへと向ける声音と違い、山姥に向ける声は鋭く棘がある。
山姥は自信の行いを指摘され、明らかに動揺した様子を見せる。イブキを相手に、隠そうとしたのが間違いだ。
「たまに居るんだよ、わざと幽霊を生んで喰らう馬鹿がね」
いつもは気怠げなイブキが、鋭い視線を山姥に向けている。珍しく怒りの感情を見せている。
「な、なんでそんな真似を………………あ!」
意味が分からないと思った雅樹だったが、これまで教わった知識を思い出した。
「人間を喰らい、幽霊化した人間も喰らう。確かにコイツみたいな雑魚が力を付けるには、最も効率が良い行為だ。しかしねぇ、妖異同士で喰い合うのは最大禁忌。それでは滅びに向かうからやめたんだ」
イブキは形の良い眉を不愉快そうに歪めている。人間を喰い荒らす以上の行いを、この山姥はやっていた。
何の為に人間を生み出し、代替としたのか。その前提を崩してしまっては意味がない。
例え元が人間だとしても、妖異へと進化したならそれはもう人間じゃない。
他の生命が妖異化した場合と同じで、妖異として認めねばならない。
だからイブキは花山総合病院で、幽霊を喰う事はしなかった。同じ妖異として、潔く殺した。
同族殺しと同族喰らいでは、似ていても別物だ。同族殺しは認められているが、同族喰らいは禁止されている。
そこを許してしまっては、せっかく生まれた秩序が崩壊してしまう。
また力を求めて妖異同士で喰い合い始めたら、滅びの未来が再び妖異達を追い詰める。
「たまに出るんだ……コイツみたいな奴がね。管理の甘い地域で、他所から来た人間を喰い荒らす。支配圏に定着しない旅行者なんかは、数としてカウントしない妖異は多いからね。支配者にバレ難いんだよ」
そんな妖異の実情を利用して、こうした禁忌を犯す妖異は過去に何度も見つかったとイブキは言う。
今回の件で言えば、怪談話を流して人間を集めた。心霊スポットに好んで行く人間は多い。
インターネットが普及した現在は、少し噂を流すだけで簡単に情報が拡散する。
配信者や度胸試しをする者、廃墟好きの人間など、呼び込む候補は沢山居る。
そうして現れた徳島県外の人間を、ピンポイントで狙い撃ちにする。
現代人はほぼ確実に、何かしらの身分証明書を所持している。
捕まえて確認すれば、支配圏の人間かどうかは判断出来る。もし徳島の人間なら、適当に記憶を弄って放流すれば良い宣伝にもなる。
本当に幽霊を見ただとか、地元の人間は怖がって近づかないとか、適当に言わせておけば良い。
「昔はこれほど簡単じゃ無かったけどね、今はこんな行為がやり易くなった。インターネットは便利だね。良くも悪くも」
「俺……ちょっとSNSが怖くなりましたよ……」
またしても嫌な現実を知った雅樹は、非常に複雑だった。
雅樹だって年頃の高校生だ。怪談話や都市伝説など、面白がった事ぐらいある。
しかしそれらの真実が、こんなものだったとしたら笑えない。
全部が妖異絡みかは分からない。だけきっと聞いた事のある幾つかは、こんなオチだったのかも知れない。
「ただ細々と人間を喰っているだけなら、見逃しても良かった。だけどお前を許すわけには……いかないよねぇ」
イブキはジロリと山姥を睨む。完璧な造形を持つ彼女が、キツく睨む姿はとても様になっている。
そんな事を考えている場合ではないのだが、雅樹は隣に居るイブキを見て思った。
対する山姥だが、逃げようとはしていない。何かここから逆転する手があるのだろうか。
雅樹には妖異から妖力を感じ取る事は出来ない。山姥がどれぐらい強いのか見た目で判断出来なかった。
ただイブキが言うには雑魚らしく、もう諦めて処罰を受けるのかと雅樹は考えた。
「ふ、ふん! 貴様ら鬼どもが大きな口を叩けるのも今日までだ! 私は十分な力をつけた! 見ろ! 腑抜けたお前の妖力は以前ほど感じない! 対して私の妖力は十分に高い! 今の貴様よりも!」
どうやらイブキを知っているらしい山姥は、今のイブキがかつて程の力がないと語る。
昔を知っているからか、イブキと対峙して最初は焦りを見せていた山姥。
しかしどうやら自分の方が強くなったと判断し、強気を見せ始めた。だがしかし――。
「くっ…………あははははは! 何て愚かな! やはり馬鹿だから馬鹿をやるんだねぇ! 笑わせてくれるよ!」
心底おかしそうにイブキは笑う。そんなリアクションが予想外だったのか、山姥はポカンとしている。
「な、何を言っている? 腑抜けただけでなく、マヌケにまでなったのか?」
山姥は理解出来ないと、まだ笑っているイブキを訝しむ。どう考えても今の妖力は、イブキの方が弱いのに。
今戦えば、確実に自分が勝つ。イブキを殺して女も喰らう。真実を知られたから男も殺す。
そうすれば何の問題もないと、山姥は計算していた。しかし1つ大きな勘違いをしている。
雅樹が身に着けた御守りへ込められた濃密な妖力は、ここに居るイブキが持っているもの。
今見えている情報だけが、真実なのではない。取るべき行動は、本来命乞いだったのだ。
「マヌケはお前だ。私が腑抜けた? そんなわけないだろう」
そう言うとイブキは、抑えていた妖力を解放する。瞳は紅く輝き、鋭い2本の角が額に現れる。
爪が長く伸びて、鋭利な輝きを放っている。黒かった髪も深紅に変わり、異様な気迫を放っている。
「な、なによこれ……」
雅樹の後ろで流れを見守っていた里香は、イブキの放つ威圧感を感じてガタガタと震えている。
「い、イブキさん?」
突然隣から放たれた強烈な波動を感じて、雅樹は混乱している。彼にとって初めての経験だった。
「私がちょっと力を解放するだけで、こうして人間を怯えさせてしまうんだ。仕方ないから普段は抑えているけどね」
人間には妖力を感じ取る能力はない。それでも何かを感じさせてしまう程に、イブキの所有する妖力は多い。
少し解放しただけで、プレッシャーを放ってしまう。これでは人間社会に紛れる事なんて出来ない。
だからイブキは、普段から抑えて生活している。普通の妖異ぐらいまで、かなり抑制しているのだ。
「ば……馬鹿な……これで……力の、一部だと?」
圧倒的な妖力の差に、山姥はただ怯えるしかない。こんな途轍もない強者に、勝てる筈なんてないと。
その認識へ至るには、あまりにも遅かった。一瞬で距離を詰めたイブキは、既に目の前だ。
「愚かな自分を、あの世で悔いると良い」
逆袈裟振り抜かれたイブキの右腕、宙を舞う山姥の上半身。ゴトリと音を立てて落下した山姥の表情は、恐怖に染められていた。
そしてサラサラと灰になり、山姥の肉体はこの世から消え去っていく。
あまりの呆気なさに、雅樹はただ呆然と見ている事しか出来なかった。




