第二十九話 父と師
ヒミコは王の私室の入り口に立っている。父に暇乞いをしに来たのだ。しかし、入り口に立ったまま中に入るのをためらっている。ヤヒコは不思議そうな顔をして話しかけた。
「入らないのか?」
「いや、父上とふたりきりで話をするのはいつ以来だったかと思ってな」
「親子なんだから、そんなに緊張することはないだろ」
「それはそうなんじゃが……」
ヒミコは過去の記憶をたどった。確か今のスサノオと同じくらい幼い頃のことだ。その時は狩りから帰った父を母と共に出迎えた。大きな獲物を獲ったと聞いて好奇心にかられて、父と従者たちの一行に駆け寄った。しかし、自分よりもはるかに大きな熊の死骸を見て泣いてしまった思い出がある。あの時、父は自分を抱きかかえて慰めてくれた。それから父の部屋に連れて行かれて果物をもらった。その時に何を話したのかは覚えていない。ただ、あの時食べた桃の味は鮮明に覚えている。
あれから十年くらいは経っただろう。戦乱の世の王には娘とふたりきりの時間を過ごすなどという暇はそうそうない。狩りですら一種の軍事演習なのである。
父とはここ数ヶ月感情的な対立があった。しばらく会えなくなるその前にわだかまりを解消しておきたいという思いがヒミコにはあった。
「父上、ヒミコです」
「おお、入れ」
父の許しを得て、ヒミコはヤヒコを外に残して王の私室に入った。床にはその時の熊の毛皮が相変わらず敷かれている。ヒミコはその敷物にゆったりと座る父の前に正座した。
「出発の準備が整いました。ソナ国へ行ってまいります」
「そうか。しっかり役目を果たしてこい」
「はい」
「自分の役割はわかっているな?」
「クナ国への備えです。そしてソナ国の負傷者の回復もしたいと思います」
「それだけではないぞ。ソナ国内部の実情も逐一知らせろ」
「はい……」
もどかしい思いが募る。こんな王と家臣の会話のようなものでなく、父と娘としての会話もしたい。
「父上、その熊の毛皮も長いことお使いですね」
「熊か。ソナ国のオオヅヒコは狩りなどはやるまいな。なんならこれも持っていくか?」
「いえ……父上がそれを獲って帰られた時のことを思い出しておりました」
「だいぶ前のことだな。そんなことを思い出しても何にもならんだろう」
「その熊が恐ろしゅうて、わらわは泣いてしまいました」
ヒミコは笑顔をたたえながら思い出を語った。しかし、父の反応は乏しい
「そんなこともあったか? よく覚えてないな」
「そうですか。そのあと父上から桃をいただきました。あれは美味しかった……」
「そんなことよりも、ヒバリとは打ち合わせをしているのか? ヒバリは守護霊を使って連絡を取り合えると話していたが」
「はい。思念を呪符に乗せて守護霊に運ばせれば連絡を取り合うことができます」
焦りの感情が沸く。なにか父との共通の話題があるはずだ。もう少し話をしておきたい。
「父上、母上が……」
「出発まで間もないぞ。早くヒバリとも打ち合わせをしておけ」
「……はい」
ヒミコはややうつむき加減になって返答した。あの頃の優しい父はもういないのか。乱世を戦い抜いていくうちに父はすっかり変わってしまった。ヒミコは懸命にすがっていた最後の絆を断ち切られた思いがした。
「では、行ってまいります」
ヒミコは部屋を後にした。会話は本当に短い間だった。ヤヒコが拍子抜けした顔をして出迎えたほどだ。
「ずいぶん早かったな。もっと話しておけばよかったのに。もうしばらくは会えないぞ」
「そうじゃのう。じゃが、今生の別れというわけでもあるまいし……」
ヒミコは寂しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
その後のヒバリとの打ち合わせは簡単に終わった。ヒミコもヒバリもお互いが使役する守護霊は見慣れている。ただ、どれくらいの頻度で連絡を取り合うのかを話し合うだけだった。その後は雑談となる。
「しかし、父上はソナ国の何を探ろうとお考えなのでしょうか」
「父親のイワタツ殿はヤマト国に忠誠を誓っておったが、息子のオオヅヒコもそうとは限らんということじゃろうな」
ヒミコは深いため息をついた。敵だけでなく、同盟国同士でさえ疑い合う。なんて悲しい状況なのだろう。だが、自分も兄とはつい最近まで対立しあっていた。人間とはそういうものなのか。
「ババ様、わらわは両国の仲を取り持ちたいと思います」
「うむ。そうするが良い」
ここでヒバリの脳裏にこの前の戦勝祝いの宴でのイザナギとオオヅヒコのやり取りが浮かんだ。オオヅヒコはヒミコを妃にしたいと望んだのだった。ヒミコとヤヒコの仲のことはイザナギに話をしたが、ヒミコがどちらと婚姻しようがヤマト国にとっては同じことだと軽く流された。
「ヒミコよ、ヤヒコの兄についてはどう感じた?」
「立派なお方だと思いましたが、ババ様はなにか引っかかりがあるのですか?」
「いや、そうではない。ただ、ヤヒコに比べると色々思惑を隠して動く人物のように感じてな」
「そんなに悪いお方ではないと思いますが」
「うむ。悪人ではなかろう。じゃが……」
ヒバリは少し沈黙して思案をする顔を見せていたが、すぐに笑顔に戻った。
「とにかく、そなたの目で見てこい。迷ったことがあったら遠慮なくワシに相談すれば良い」
「はい。その時はお願いいたします」
ヒミコも笑顔で答えた。
「ババ様、父上が熊を狩って帰られた時のことは覚えておられますか?」
「ああ。今、敷物になっているやつじゃな」
「はい」
同じ王族としてだけでなく巫術の師弟として長年触れ合っていたおかげもあって、やはりヒバリとは何隔てなく語り合える。雑談にもすんなりと入っていけた。やはりヒミコにとっては欠けがえのないつながりだ。
「そなたは熊を見て大泣きしておったのう」
「ええ。あの時はそれはそれは恐ろしくて、見に行かなければよかった思いました」
「覚えておるか? あの時、そなたは真っ先に陛下に抱きついて離れなかった。カグツチが熊の前に立ちはだかって、そなたを守ろうとしておった」
「そんなことがありましたか」
「ははは、大泣きしておったから気づかなかったじゃろ?」
「はい」
「ミズヒが『カグツチ、それはもう死んでいるから大丈夫だ』などと言うもんじゃから、そこにいた者がみな笑ったものじゃ」
「よく覚えておいでですね」
「あの頃は、おまえたち兄妹も無邪気なものじゃったなぁ」
「ええ」
ヒミコは満面の笑みになった。ただ、その表情の裏には少し寂しさも隠されていた。父との間よりもヒバリとの間のほうがはるかに近い。その事実が余計に父との心の距離の遠さを実感させられた。
◇ ◇ ◇
いよいよ出発だ。母親のイナツメも出迎えに門まで来てくれた。ヒミコに従うのはヤヒコが率いる護衛のほかに荷物の運搬など二十名ほどの者たちだ。身の回りの世話役に侍女のスズメも一緒に付いていくことになった。
「では、母上。行ってまいります」
「ええ。道中、気をつけてくださいね」
「ご安心ください。これだけの頼もしい者たちがついておるのです。何も心配はいりません」
「そうですね。スズメ、ヒミコの守役を頼みますよ」
「母上、わらわはもう子供ではありませぬ」
「ふふふ。イナツメ様、姫様のおしめもちゃんと替えますから大丈夫です」
「スズメ! 何を言っておるのじゃ!」
一同に笑いの輪が広がった。
ヒミコは父への報告だけでなく、母に向けても守護霊に託して便りを送ろうと思った。ヒバリならばそれくらいは大目に見て、母に伝えてくれるだろう。
「さあ、出発しよう」
ヒミコの号令で一行はソナ国までの旅路についた。母のイナツメはその姿が見えなくなるまで見送っていた。
これにて第一部完です。
ここまで読んでいただき、まことにありがとうございました。
第二部 阿蘇攻防戦ではヒミコが父の元を離れて、より力強く活躍します。
ご期待下さい!




