其の三十一「紅くて砂糖よりも甘い夢」
俺を見下ろしながらくすりと笑いをこぼす彼女。
「言っているでしょうに。アタシは『言わないこともある』って。まったく、そんなにアタシに忘れられるのが怖かったの? それはそうだよね。あんなに熱烈な告白をしてくるんだもの。アタシも忘れられるわけがないよ」
「そ、それじゃあ」
今までのは、もしかして分かっていてわざと。
そう言おうとしたとき、彼女が机の山の上から身を乗り出して人差し指を唇に添え、俺の言葉を封じる。
「アタシの心はもう、キミだけのもの」
妖しい笑みから、ふんわりとした笑みへ。
そして、目を伏せて熱を持ったようにほのかに顔を赤くする彼女に、俺の目は釘付けになっていた。
なんて、殺し文句。
そんなことを言われてしまうと……俺ってこんなに涙もろかったかなあと思いつつも、目の前が滲んでくる。いつもいつも、肝心なときに卑怯で、小悪魔的な彼女だ。
「さて、お兄さん。ここから出る方法は変わらないよ。キミはもう、失敗しないよね?」
「当たり前だよ。もう躊躇いはしない」
疑問符というよりも、確認するような問いかただった。
確かに初対面のときは怖くて手を出せなかったけれど、もう大丈夫。俺はもうあのときみたいに、中途半端な優しさを奮ったりしない。むしろ我儘を言うことを覚えたくらいである。ある程度欲に忠実になることは悪いことではない。
「さてさて、この空間においては『アタシはポケットを探られようと、たとえ押し倒されようと抵抗しない』よ。おにーさんは……アタシとどうしたい?」
僅かな期待が込められた瞳。
欲に忠実になることは悪いことではないとは言ったが、そうやって露骨に誘い受けしてくるのもどうかと思うんだ!
しかし、そんな切なそうな顔をされてしまっては、もうどうしようもなくて。気持ちが抑えられそうになかった。ぐっと唇を噛んで、気合いで多少の我慢を強いながら机をおっかなびっくり登っていく。
どちらにせよ彼女の隣に行かないと凶器を取り出すこともできないわけだからな。
「ああ、その机達は空間に固定されているから揺らしても崩れはしないよ。大丈夫。どったんばったんしても……そうだね、少し背中が痛くなるくらいかな」
やっぱり紅子さんは卑怯だ。
「なあ、紅子さん。今がどういう状況か分かってるか?」
「……状況って?」
きょとんと目を丸くした彼女に、嘘だろと思う。多分全部わざとやっているんだろうが、根本的なところで無自覚だったりするのか? それとも俺が本気で手を出さないとでも思っているのだろうか?
そうやって信頼してくれているのは嬉しいんだが、正直なところ生殺しはきつすぎる。
「だってここは夢の中で、俺達しかいなくて、二人っきりで……邪魔だって絶対に入らない」
机の上に登りきり、紅子さんの肩に手をかける。
ようやく状況と俺の様子を察したらしく、紅子さんは硬直し、真っ赤になりながら視線を泳がせた。しかし、頬を赤くして恥じらいながらも首を振って不敵な笑いを浮かべる。
「ご褒美がほしいなら、まずはアタシのゲームをクリアしてもらわないとね。じゃないと、逃げちゃうかも」
「そうか」
そうやって不敵に笑う彼女が好きだ。
そうやって強がってみせる彼女が好きだ。
俺を手のひらで転がしてこようとする小悪魔的なところが。
皮肉屋なところが。
言葉遊びが好きなところが。
自分でからかう癖に逆襲されると弱いところが。
頼もしい先輩然としているところが。
幽霊らしく闇討ちが得意で一撃で決める格好良い一面のあるところが。
それなのにすぐに照れてしまうようなところが。
いじっぱりで一度決めたことを曲げないところが。
自分の芯をしっかりと持っているところが。
根本的な部分は誰よりも優しいところが。
弱みを決して見せようとせず、自分だけで無茶してしまうところが。
インテリ系な雰囲気なのに不器用でよく力技に頼るところが。
料理を美味しそうに食べてくれるその笑顔が。
猫のように甘えて来たり素っ気なくしてくるところが。
実は甘いものが好きなところが。
可愛いものと女の子に対して特別優しいお姉さんになるところが。
好意を伝えてくるのに、その距離が心地良くて進展できないところが。
助けてほしいのに、そう言えないところが。
優しさを利用して頼り切ってしまうのが怖いと、そう言ってしまうところが。
――彼女へ向ける『好き』はいくらでも言葉にできた。
もちろんどこが好き? と訊かれたら全部としか答えようがないけれど。頑張って言葉と文字にすればどれだけの時間があっても語りきれないくらい、思い出と好きなところが多すぎる。
でもそれらを全部ぶつけてしまえば、きっと彼女は照れて、照れて、隠れてしまいそうだから内に秘めたままにただ一言言葉にする。
「好きだよ、紅子さん」
「もう、危機が去ったからってここぞと言わんばかりに伝えて来なくても」
困ったように眉を寄せる彼女と向き合う。
肩にかけていた右手をそっと首筋に沿わせて、その傷痕に指を這わせた。
「あのね、遊んでいる場合じゃなくて」
「ごめん、ちょっと……」
紅子さんの反応がはっきり言って煽情的すぎる。
つい、と顎を上げて早くゲームクリアしなさいと促してくるのだが、その仕草とズレたセーラー服、指が当たるたびに漏れる吐息に我慢しろというほうが酷なほどの仕打ちだ。責任とってほしい。
「……」
よく考えれば、紅子さんの傷口からガラス片を取り出すのは初めてなのだ。
確か痛くはないと言っていたはずだが、やはり気になるものは気になる。血が溢れ、痛々しい傷にそっと指を差し入れて中に光る凶器に手を触れる。
本来は恐ろしい行為、恐ろしい傷の見た目のはずなのに……どうしてかそれにすら魅了されて喉を鳴らした。
「ぁ……んん、いっ……」
「……紅子さん、痛みはないんじゃなかったか?」
「そ、そのはずだったんだけれど……どうしてかな? 前はそんなことなかったはずなんだけれど、ちょっと痛い」
夢の中でやっていることとはいえ、やばい。
お願いだからそんな反応しないでくれ。理性さんがどっか行く。
「あ、もしかしてアタシが復活してから『はじめての相手』がお兄さんだからかな? それともキミがアタシの生みの親みたいなものだから? ううん、どうなんだろう? あは、破瓜するときってこんな感じなのかっ」
力がこもる。
「やっ、お、おにーさんちょっと……!」
自分の顔が今どうなっているのかは分からないが、少なくとも紅子さんは非常にエロいとしか言えない状態になっていることは確かだった。
「こんなときにそんな冗談を言う紅子さんが悪い」
「だからってそんな本気にならないでよ……! んん、だから早く抜いてって!」
いやそれもアウトだろ。やめろってば、本当に無理。これで押し倒していない俺って頑張ってるよな?
「破瓜の痛みと同じかどうかはそのうち知るんだからそのときに比べてくれ」
「ひうっ、待って待って、それって……!」
「嫌か? 紅子さんが嫌なら俺はいくらでも我慢するけど」
「い……やじゃないかな。そ、そうだよね……もう遠慮する必要なんて、ないからね……」
理性がぶっ壊れそうだからお願いだからそんな顔しないでってば!
「っふ、うう……はあ……取れた? やけに長かった気がするんだけれど、もしかしてわざとアタシを弄んでたの?」
「そんなわけないだろ。少なくとも最初は痛かったら嫌だからゆっくり抜き取ろうとしていただけだって」
「最初はってことは、途中からはやっぱりアタシの生娘みたいな反応を楽しんでいたんでしょう? これだから童貞はねちっこいって言われるんだよ」
「どこの話だよ。どっちもこのあと卒業するんだから、もう童貞とは言わせないからな」
「え、今から!?」
ここまで熱が入っている状態でおあずけとか死ねって言われてるようなもんだぞ。本気で無理。
「本当に邪魔が入らない場所なんて、夢の中くらいじゃないか?」
「そ、そうだけれど。心の準備がね?」
「自分では誘うくせに」
「そ、そうだけれど!」
「あ、誘ってる自覚はあるんだな」
「うっ……言質取ってくるお兄さんなんてお兄さんらしくない」
やっぱり誘い受けはわざとか。
「紅子さん」
「な、なに?」
彼女の血に塗れたガラス片を目の前に取り出し、そっと脇に置く。それから両手で彼女の肩を押してゆっくりと、その体を押し倒していく。抵抗は不思議となかったので了承されたようなものだが、あくまで言葉で許可を取らないとな。紅子さんの嫌なことはしたくないから。
「名前で呼んでくれよ」
「…………令一さん」
「うん、紅子さん。ずっとずっと前から、好きだった。アイツに利用されるだけで絶望していた俺を、君が助けてくれた。君と一緒にいるだけで、心が軽くなった。最初は面倒くさい子だなって思っていたけれど、いつからか目が離せなくなった」
「……うん」
机の上に広がった黒髪に、胸の前で祈るように両手を握って恥じらう彼女の目蓋にそっと唇を寄せる。
「愛してる。これからも、俺と一緒にいてほしい」
「あ、アタシはキミに助けてもらって、名付けまでされたんだからもう離れられないのは確定事項かな……」
「素直じゃないよな」
苦笑すれば、むっとされた。そういうことじゃないってのは紅子さんも分かっているだろうに。
「……分かったよ。仕方ない、かな。もう……アタシだって、令一さんが好き」
まっすぐと、紅色の瞳が俺を射抜く。
「中途半端な優しさは嫌いだけれど、頑張るキミのことが好きなんだよ。おかしいよね、ずっと嫌いだと思っていたのに。いつのまにかキミがいないとダメで……アタシ、こんなに女々しくなかったのに」
「俺としては頼ってくれるのは嬉しいから、ずっとそれでいてほしいな」
「そう。ねえ令一さん」
「ん?」
瞳を伏せて、彼女の睫毛が震える。
「愛ってやつの形が性に直結するとは限らないけれど、アタシはちょっと我慢させすぎちゃったかもね」
「気がついてくれてありがたいよ。これで何回目の生殺しかと思った。一緒に露天風呂まで行ったりしてるのにな」
「そうだね。令一さんには悪いことをしたかな」
くすくすと笑いながら紅子さんが俺を見る。
その瞳の中に映る俺も、そして紅子さん自身もきっとそれを求めているから。
「だからね、きていいよ」
そして、ゆっくりとその腕を押し倒している俺の肩にかけて引き寄せるように、力が込められた。自然と互いの額と額が触れるくらい近づいて……。
「令一さん。アタシを弱くした責任、取ってくれるかな?」
「……もちろん」
一度瞬きをして、濡れた瞳から不適な笑みへ。
そんな『いつも通り』に俺も笑いながら応える。
いつのまにか彼女の普段被っているベレー帽が、視界の端で机の上に転がっていくのが見えた。




