其の二十九「ただ、そのなまえをよんで」
「なに……やって……」
響き渡る噂話。
ここ一週間で、できうるだけの人脈で、使えるだけの手段を使って、広め続けた話が反響して木霊する。
既に噂が広まっている状態で放送を流す必要なんて、本当はない。
けれど理由はある。この噂はまだ雛形であり、今のままではこの噂に基づいた別の怪異が生まれてしまうだけになってしまうからだ。
これを紅子さんのものとするためには、そもそも噂自体を彼女に『自分のものだ』と認識してもらわなければならない。
その他大勢が知っていても、その他大勢は姿なんて知らない。いろんな人にこの噂を信じてもらうためには、全身赤色の少女という特徴をつけることくらいしかできなかったのだ。
元となる話があるなら別だが、紅子さん自身や彼女が死んだことを知っている人自体がごく少数。しかも彼女が殺害されそうになって自殺したことを知るのは更に少ない。それこそ、彼女を殺そうとした少女達くらいしかいない。
紅子さんの姿を噂話だけで固定することはできない。
ふわっとした『魂を持たない噂』を、『器だけ』のそれを彼女に当てはめる必要がある。
でも、紅子さんは必ず否定するだろう。
それは分かっている。そんな救済いらないと跳ね除ける。意地でも受け入れようとはしない。そんなことは分かっている。それが彼女だからだ。
「仕上げだ、紅子さん」
「……お兄さん、バカなことをしないで。こんなのがアタシのためになるとでも思っているの? アタシをバカにしないでよ。こんなことされても、嬉しくなんて」
「分かってるよ、当たり前だろ? 紅子さんが言いそうなことなんて、分かってる。君がこれを嫌がるだろうことも、最初から分かってた。君は意地を貫き通して消滅したいんだろ。長く一緒にいれば、分かるよ」
「なら、どうして」
彼女のためだと言えば、必ず否定する。
だが、これは彼女のために行なっていることではない。
「君のためなんかじゃない、これは……他ならない俺のためにやっていることだからだ」
完全なる、俺のわがままだからだ。
「君の意思なんて関係ないな。『俺』が、紅子さんを必要としているから。『俺』が、消えてほしくないと思っているから。『俺』が、まだ一緒にいたいと願っているから……」
「なにそれ、キミ、なにを言ってるか分かってるの? そんな自分本意なこと」
ああそうだ。自分本意だ。俺の自己満足だ。
でもそれがなんだよ。嫌なものは嫌。そう言ってなにが悪い?
紅子さんだって意地を張って自分の意思を貫き通そうとしているのに、それに対抗して俺が意思を貫こうとすることのなにが悪い?
開き直って強い言葉で一歩、足を進める。
彼女が一歩後退する。
「紅子さんがわがまま言うなら、俺だってわがまま言っていいだろ?」
一歩、歩み寄る。
一歩、気圧されたように紅子さんが後退する。
「あのねぇ、そう簡単にいくわけがないんだよ」
「上手くいかせるんだよ。そのために取れる手段はなんだって掴んだ。それだけ、俺だって必死なんだ」
「アタシにそこまでする価値なんてないでしょうに。キミとの関係は、ただ惰性で続いていただけの友達ってくらいで」
その言葉は、さすがに看過できなかった。
「そんなの、俺が、紅子さんのことを好きだからに決まってるだろ」
「……へえ、アタシは嫌いって言ったのに?」
「嘘は嫌いなんじゃなかったっけ?」
「……」
押し黙る紅子さんに詰め寄っていく。
背後はもう、屋上の縁しかない。このまま、もう一度彼女が飛び降りれば彼女は永遠に消滅するだろう。逃げていく腕を掴み、強引に引き寄せる。
怪異である彼女のほうが力が強かったはずなのに、抵抗しようとする彼女を実にあっさりと、腕の中に閉じ込めることができた。それだけ、力が弱っていることの現れで、でも毅然として強気に出ていないと涙が溢れてきてしまいそうで、そのまま強く強く抱きしめる。
「やめて」
「やめない!」
「離してよ令一さん」
「嫌だね!」
子供のようなやりとり。他愛もない口喧嘩。
離すまいとする俺と離れようとする彼女の攻防が続き、やっとの思いで叫ぶ。
「ねえ、お兄さん! 分かっていてやろうとしてるの!? 前にも言ったよね、その方法は」
「分かってるよ。『怪異への名付けは、その怪異との一生の付き合いになる』って話。覚えてる。雨音の怪異のときに、言ってたよな。名付けをしたら親や恋人になるようなものだって。なら、望むところだ」
「……」
俺の顔を見上げて、潤んだ瞳を大きく開いて、細めて、そして目を伏せる。
一瞬だけ見せた期待の感情と、それを覆って蓋をするような自制心の言葉が彼女から漏れ出でる。
「嫌だ」
「嫌じゃない」
「このまま消滅してもいいって」
「でも、紅子さんはそう思ってない」
「どうして……どうして……なんでアタシの心を揺らすようなことを言うの。これだから、キミのことは嫌いなんだよ」
ぎゅっと瞑った彼女の目蓋の上にそっと口を寄せながら、やっと捕まえた紅い蝶をしっかりと掴んで離さないようにする。抵抗は、もうなかった。
涙で濡れる睫毛を指で軽く触れて、ようやく自分の想いを全て言えると確信する。それからは、言葉が止まらなくなった。
「俺、ずっと一人でさ。あいつに利用されたままで、ずっと永遠に救われないまま壊れるまで使い捨てられると思ってたんだ。でも、そんなときに紅子さんに会って、事件を一緒に追って、やるせない結末もたくさんあったけど、全部君がいたから耐えられたし、俺はここまで成長して来れたんだよ」
感謝している。
俺は、紅子さんに救われたんだ。
「それにさ、まだ約束は有効じゃないか? 紅子さんだけ反故にして一人で逃げるなんて、許さないから」
―― 「約束だ。俺は君を守るよ。そして、もう無茶をしないし、死んだりしない」
――「約束。アタシは守られて、大人しくしている。無茶もしない」
ゆびきりげんまん。
約束し合った、あの言葉。忘れない。忘れるはずがない。
そして、覚えている。あのとき確かに……紅子さんは俺に助けを求めてくれて、そして俺はその迷う手を取った。
「守られてくれるって言ってたじゃないか」
「……そう、だね」
だから今度も一人で迷子になってしまった彼女を連れ戻すだけでいい。
「ねえ、紅子さん。神中村のときは、素直に助けを求めてくれたろ? 今度は、言ってくれないのか? 俺、そんなに頼らないか?」
「そんなことは、ない。だって、でも」
紅子さんは、根本的なところでは臆病だ。
この期に及んで俺に拒絶されることを恐れているのだから。
「あのとき、既に決めていた。紅子さんのことは、全部受け入れるって約束もした。知った君の過去ごと、俺は一生覚えていられる自信がある。紅子さんはどうだ?」
「珍しく……強気なんだから。そうだね、キミの弱さ、強さ、大っ嫌いな優しさも含めて……アタシも」
そこで言葉が止まる。
「俺は好きだよ」
「………………嫌いじゃない」
「そうか、なら素直に好きって言ってもらえるくらいに、魂に刻み込むくらい俺を忘れられないようにしてやらないと」
「すごく病んでる人みたいなこと言ってるよ?」
「だってそこまで言わないと紅子さん、受け入れてくれないじゃないか」
「そうかも」
だからだよ、と笑いかける。
腕の力を緩めても、紅子さんが逃げることはもうない。
「本音、教えてくれよ。紅子さん」
「……アタシは、消滅したく、ない。ただ消滅して、ゼロになって、なにも残らないなんて、嫌。キミとの思い出も、アタシのこの想いも、全部消えてしまうのは、嫌だ」
「うん」
「だから、お兄さん……アタシを、もう一度、助けてくれる?」
「否定なんて、するわけないだろ。もちろん助けるよ、何度でも。君が望めば」
ちゃんと、約束を果たすから。
君を守ると、決めているから。
「ねえ、令一さん。アタシの名前を呼んで、この名前を、呼んで」
それは、俺のことを受け入れるという承諾の言葉だった。
「……キミの名前は、紅子さん。昨今流行りの、『紅い夢の幽霊、紅子さん』こそが、君の名前だよ。それが、君の本当の名前だ」
「………………」
器に魂を。
魂に器を。
「……お兄さん、驚かないで、ね」
「紅子さん?」
「ごめん、ちょっと、トラウマを刺激……するかもしれない、かな」
「紅子さん!?」
紅子さんの首からどろりと血が流れ出す。
目が虚に変化し、俺が逃げないようにと閉じ込めていた腕の力が一気に緩む。
その中心から、炭のような黒い粒子だけがざらざらと崩れて宙に消えていって、思わず取り乱しながらそれを掴もうとした。
けれど、どれも掴むことはできずに目の前で紅子さんの姿が掻き消える。
間に合わなかった?
一瞬、嫌な予測が脳裏を過った。
けれど、視界の端にひらりと紅色の燐光が映りそちらを視線を移す。
そこには宙をひらひらと舞う一匹の紅い蝶。
そして、その周りに渦巻く同じ紅色の粒子のようなものがあった。紅い蝶が粒子の周りをひらひらと飛んでいき、その中に入っていく。
前みたいに、黒い煙が蝶を絡めて捕まえるような強引なものではなく、蝶自ら飛び込んで優しくその周りを象っていくように。
紅色の人影が出来上がり、足元から靴、靴下、足、スカートと形作られ、そしてふわりと風をはらみながら服が揺れ、いつものポニーテールが落下と共になびいた。
「紅子さん!」
ゆっくり、ゆっくりと目を瞑ったまま落ちてくる彼女を抱きとめる。
その目蓋の下にある紅い目が姿を現すことはなく、伏せられたまま。
俺の腕の中に落ちてきた彼女は力なく、眠ったように目を開かない。
「せ、いこう、してる、んだよな……?」
不安に駆られた俺は眠ったままの紅子さんを見つめる。
安らかに眠っているようにしか見えない。しかし、目を覚まさないとなると不安が増していく。まさか、俺のことを綺麗さっぱり忘れているとかそんなことになるんじゃ……?
そんなのは嫌だ。
「終わりましたか?」
ぐるぐると考えているうちに、背後から声をかけられて驚いた。
慌てて紅子さんを姫抱きしにしたまま振り返ると、そこにいたのは鈴里さんだ。終わったと見て、放送室からここまでやってきたらしい。
「あの、でも紅子さんが目を覚まさなくて」
「噂の定着に時間が少しかかるだけですよ。元からあった身体ではなく、魂だけを別の身体に移植したようなものですから。人間の物語にもあるでしょう? 永遠に生きるために若い身体に精神だけ移植するとか……そういう難しさがあるんです」
「な、なるほど」
妙な分かりやすさがあって思わず紅子さんの寝顔を見る。
「しばらくは目を覚まさないでしょう。けれど、心配ならば彼女の部屋で一緒に寝てあげなさい。肉体と精神を近くに置くことで安定するのが早くなるでしょう」
「一緒に!?」
「……なにを迷っているんですか。もう想いをを伝えたのですから添い寝くらいわけないでしょうに」
呆れられた。
しかし、そうか。それが紅子さんのためとなるなら、やるか……?
なぜかしてはいけないことをするような背徳感が襲ってくるが、それが必要なことならばするべきなんだろう。下心はさすがにしまいこんで頷く。
「ありがとう鈴里さん。それじゃあ、俺、紅子さんの部屋に帰るよ」
「ええ、さようなら。後ほどどうなったかは教えてくださいね」
「え?」
「告白の返事はきちんともらってはいないでしょう? それのことです」
「わ、分かった」
案外、あっさりと終わってしまった。
けれど、詩子ちゃんが言っていたとおり〝そのとき〟でないと、後がないからこそこのタイミングでなければならなかったんだろう。
つまり、それ以外で同じことをしようとしても、必ず失敗していたということと同義だ。それはそれでゾッとする。
しかし、まあ……。
穏やかに眠り、そしてしっかりと『俺を選んで』この腕の中にいる少女の寝顔を眺めては自然と頬が緩んだ。
我慢強く待っていた甲斐が、あったものだ。
この辺はゼロの調律聴きながら書いてました。




