其の二十八「今、君を迎えに」
夕闇の中を走る。
何度も、何度も「大丈夫」と自分自身に言い聞かせながら。
どこからか放送される、流れるピアノの音を頼りに走る。
――場所のお知らせは、放送を聴けば分かるでしょう。
スマホに連絡があったのは、今朝のことだった。
非通知でところどころ文字化けしたメールの差出人。けれど、それが誰かはすぐに分かった。キーワードは『お知らせ』と『放送』だ。こんなことをするのは、学校の放送室に潜むという七不思議の七番目『放送室のお知らせさん』こと鈴里しらべさんのみ。
しかし、待てど暮らせど昼間までは放送がされなかった。
ゆえに、不審者と取られることを覚悟で七彩高等学校に訪ねてみたり、あやかし夜市で彼女を探したのだが成果は得られず……そして夕方になった頃、ようやくその放送が流れてきた。
ピアノの旋律。
それに乗って聞こえてくるタイムリミットのカウントダウン。
その放送を聞いた瞬間、俺は弾き出るように鏡界から現実世界へと飛び出していた。なりふり構わず、そして全力で。
――振り返る。
「あとは、俺がやるべきことだよな。だから、刹那さん達はここまでだ。吉報を待っていてくれ」
散々頼って、散々協力してもらった。
けれど、迎えに行くのは俺の、『俺だけの』役目だから見送りに来た二人にそう言った。
「そうかい、旦那がそう決めたんなら、男らしく有言実行してもらわねぇとな」
爽やかに笑って、刹那さんが手を振る。
静かに頷き、手を振った春国さんにも同じようにして背を向けた。
「さあ、走れ旦那! タイムリミットは今日の日の入りまでだ!」
「行ってください、あなたなら大丈夫だと信じています」
親友二人の言葉を背にして走る。街角を、延々と続いていくように錯覚するほどの道を。どこからか、不思議と「こっちだ」と分かる放送に引き寄せられるようにして。無機質なカウントダウンは感情がこもっていないようでいて、しかし確かに俺を導いていた。
今日――八月七日を過ぎたら紅子さんは消えてしまう。明日になる前に、駆けつける必要があった。ただでさえ弱っているのに、姿を隠して驚かすこともやめてしまったので時間がない。
この耳に届くその音を頼りに七彩高等学校を過ぎ、人間の限界を超えて足が疲れたら「リンッ」と己の相棒を呼び出して、その力の片鱗を借り受けて無理矢理足を動かした。
やがて見覚えのある景色になり、その高校を目の前に一度だけ立ち止まる。
その場所は、前に一度だけ来たことのある高校だった。都ノ鳥町……メリーさんの依頼で来て、最後に誰とも知れない人の死のために花を手向けた場所。
その高校からピアノの旋律と放送が延々と漏れ続けている。
そう、そこは紅子さんが本来死んだ高校だった。
さとり妖怪である鈴里さんの管轄は七彩高等学校の七不思議だけのはずなのに、こうして放送が流されている。それだけで、この場所に彼女がいると確信が持てた。
彼女が死んだ場所。
彼女が殺意に触れた場所。
彼女がその手で人生を終わらせた場所。
彼女が――同盟入り試験のために、意地を貫き通した場所。
記憶の中でしか見ることのなかった光景が脳裏に過ぎる。
「はやくっ、迎えに行かないと」
止めていた足を動かす。そうして、放課後とはいえ人っ子一人いないという異常な高校に足を踏み入れた。
目指すは屋上。
きっとそこに彼女がいると信じながら、いや、確信を持って向かう。
そのときが、すぐそこに迫っているのだと心の底から湧き上がってくる想いに身を任せて。
歯を食いしばり、階段を駆け上がり、音楽の響く教室を横切り、一番上へ。
そうして鍵のかけられていない鉄の扉を軋ませながら開ききり、屋上へと足を踏み入れる。
――なまえを よんで。
細く細く、風に紛れてしまうほどに弱々しい旋律が投げ出される。
そこには希望を亡くし、何者にも捕まらず、翅を千切られたひとひらの蝶がいた。
屋上の柵を乗り越えた先、そのヘリに腰掛けて足をぶらぶらと揺らしながら彼女が歌っている。鈴里さんのピアノ演奏に合わせるように、しかし、その演奏がなぜされているのかを知らないように。
「紅子さん!」
声をかける。
紅子さんが前屈みになって落ち――。
「紅子さん!」
悲鳴のように声をあげて走り寄り、柵にガシャリと拳を叩きつける。
間に合わ――。
「どうしてここにいるの」
背後から声がして、振り返る。
そこには、ひとひらの紅い蝶が舞い、黒い霞が集まって人の姿を形成しながら話す彼女の姿があった。
以前よりもずっとずっと薄れた黒い霞。
彼女を形成する『赤いちゃんちゃんこ』の噂のエネルギー。
もう、それをうまく集めることができないのだろう。身体中が記憶の中で見たときのようにボロボロで、制服も所々千切れまさしく『幽霊』としか言えないその姿。痛々しい、好きな人の姿にどうしようもなく涙が滲みそうになった。
「迎えに、来た」
「来ないでほしかった。手を離してほしかったよ、バカな人」
自嘲するように笑って、紅子さんが背中を向ける。
「ねえ、お兄さん。ここまで来たなら、手伝ってよ」
「な、にを?」
震えそうになる言葉を律し、会話を続ける。
噂は充分。あとは、あとは、仕上げをするだけだ。
「アタシは今、霊体。こんな柵、意味がない。だからね」
紅子さんは背中を向けたまま、ボロボロのセーラー服をゆっくりと捲り上げていく。そして、ちょうど背中にある赤い蝶のような痣を見えるまで裾を捲ると、俺を見返るようにして目を細め、笑う。
「アタシをここから突き落として」
頬まで染めて、俺にそうしてもらえるなら嬉しいのだと声に滲ませながら。
殺意に触れた、肩甲骨の下の手のひらのあとを見せつけるようにして。
「キミの手で、アタシを終わらせて。あと一回、あと一回死ねばきっと、安息が待っているから」
俺に、殺せと。
「もうアタシはあの世にいけないから、消滅するしかないけれど、疲れちゃったから」
殺してほしいと。
「一人はやっぱり嫌だね。うん、キミが落としてくれたら、そしたら吹っ切れられるはず。だからね、お願い」
――彼女はそう望んでいる。
粟立つ肌に、拳を握りしめた。こんなこと、こんなことってあるか?
あのときと同じ、青凪さんと同じようなことを、彼女が言うだなんてこと……!
「ふう、そっか……そうだよね、キミのことだから、できないって言うよね。なら……」
彼女が背を向けた状態からこちらを向く。
その瞳にもはや光は亡く、どこを見つめているのかも分からない。俺を見てさえいない、その瞳に妙に苛立ちを覚えた。
「おにーさんなんて、大っ嫌い」
その言葉に、息を飲んだ。
「キミなんかに邪神の呪いを跳ね除けるほどのすごい力なんてない。ただただ利用されて死んでいくなんてバカな人だよね。可哀想。独りよがりで自己満足ばっかり。こっちのことなんて考えもしていない。そういうところがね、ずっとずっとずっと嫌いだった」
口から紡がれるのは、否定の言葉。
淡々と、そして容赦なく俺へと向けられた言葉の群れが襲いかかってくる。
だけれど、その言葉のひとつひとつが、なぜか寂しくて、悲しかった。
「おにーさんなんて、死ねばいいのに」
――だから、アタシを嫌いになって。
風に乗って聞こえた、最後の言葉。でも、俺にはその言葉が別の言葉に聞こえていたから、だから。
「俺は」
もう、優しいだけでは終わらせないと決めたから。
俺は、俺の我儘を押しつけてでも、たとえ彼女の嫌いな『余計なお世話』をしてでもその手を繋ぐと決めたから。
だから、迷わない。
いつのまにか、ピアノの旋律が止んでいる。
その代わりに、マイクの起動する高音が鳴り響く。
校舎に響く放送開始の音。
「…………こんな噂を、知っていますか『紅い夢の幽霊、紅子さん』」
手に持った端末には「頼む」という一言だけの言葉。
――そして、メール送信完了の画面が開いていた。




