其の二十五「おやすみなさい」
それから、俺は刹那さんと春国さんと一緒に夜通し歩き続けた。鏡界内は広い。たまに移動用の水晶を使ったりしつつ、知り合いのところへと挨拶に行く。
ケルベロスであるアートさんのところには手作りのケーキを持って訪ね、グリフォンのルルフィードさんのところでは後日バイトすることを約束し、神中村では恩返しだと言われて無償で協力を申し出てもらえた。
「そのときが来たようだね?」
俺を一目見た瞬間、詩子ちゃんに言われた言葉である。
彼女目線でもしっかりと『そのとき』がやってきたと判断してまらえたようだ。実はそこも確認したかったため、非常に助かる。逆に言えば、今このとき動かなければ紅子さんに告白する機会は永遠に失われてしまうということなのだ。
「足が棒になってる……」
「旦那、もう空が白んできてるぜ。朝だ朝!」
「結局夜明かししちゃいましたね」
「もう眠い……あと帰りたくないな」
思えば朝から怒涛の一日だった。紅子さんの行方不明を受けてアルフォードさんのところへ相談しに来たと思ったら、神内の妨害で心を折られかけ、それからはいろんなヒトにサポートされながら打開策を考え出した。
怪人アンサーと問答してからは、夜通し知り合いのところへ行脚し続けて協力を要請したり、試練を全力で受けたり……途中から変なテンションになってきたり……本当に意地と根性で徹夜したのである。疲れた。
「あとはどんな噂を流すか決めねーとな」
「ああ、それはもう決めてるんだ。一応さ」
鏡界を一周してきて萬屋まで戻ってきた俺は、一旦足を止める。
流そうと思っていた噂や、紅子さんをどうするかは、実は最初から決めていた。
彼女の真名は今の状態だと「赤いちゃんちゃんこ」のほうなのだから、紅子さんを紅子さんと呼べるようにしなければならない。
だから、彼女の噂につける名前はただひとつ。
『紅い夢の幽霊、紅子さん』のみだ。
人を殺すという物騒な噂をつけてはいけない以上、彼女との脱出ゲームに失敗した場合どうなるかを決めておかなければならないのだが、そこもなんとかなるだろう。あとは、悪意を持って彼女の噂が変えられようとしたとき、軌道修正できるように今後ネット上で流れる噂を多少監視する必要が出てくるわけだが、これも俺が見回ったり、刹那さん達に協力してもらえばいい。
ネット上のことは全てをコントロールできるわけではないので安心できないが……それこそ、怪人アンサーにまた電話して約束を取り付けることもできるな。答えは覚えているから、今度も間違えずに同じことを言えばいいだけだし。
「旦那、今日はどうするんで? もう朝になっちまうし、一週間しかないんだ。屋敷に戻るわけにはいかねぇだろ?」
刹那さんの言葉に気がついた。そうだ、あの屋敷に今戻ったらどんな妨害が待っているかしれない。家出みたいな感じになるが、今後一週間は意地でも戻るわけにはいかなくなった。
神内のことだから俺を監禁するぐらい簡単にできるはずだ。なんせ、昔はずっとそうだったわけだし、妨害されないかもなんて甘い想定をしてはいけないだろう。
「神社の住居スペース、貸しましょうか?」
「えっと、一応アルフォードさんに空き部屋がないかを確かめておく。なかったら、そのときは頼むよ」
「分かりました。それじゃあ、聞きにいきましょうか」
ヘトヘトの状態ではあるが、確認は大事だ。
もう一度萬屋に戻った俺は、店内で本を読んでいた彼に声をかける。
彼には行くところがない。帰るわけにはいかない。空き部屋があったら貸して欲しいと申し出てみたわけだが……。
「え、紅子ちゃんのお部屋に泊まればいいんじゃない? たまに料理教えに来てるし、勝手知ったる好きな子の部屋でしょう?」
きょとんとした顔で首を傾げるアルフォードさん。
にやにやしながら「どうするんで?」と肩を組んでくる刹那さん。
刹那さんと真逆の困惑した表情で「どうするんですか?」と訊いてくる春国さん。
俺? 俺は……。
「じゃあこれ、紅子ちゃんの部屋の鍵ね! 令一ちゃんは人間なんだから最低五時間くらいは寝ておくこと! 流す噂は決めたんだよね? あとでここに書き出しておいてよ。キミが寝ている間に、オレ達が先に動いちゃうからさ!」
「分かりました」
欲望に負けました。
脳内にカンカンカンッ! と勝負を決した音と敗北の二文字が過ぎる。
いや、むしろこれは敗北ではなく勝利では? 好きな子の部屋に家主がいない間に泊まり込む。
……いや、冷静に考えてダメだろ。
頭を抱えて「変なことはなにもしない」と繰り返し呪文のように口にする。
体を使う試練を乗り換えながら徹夜した後遺症は重い。こんなに頭がゆるゆるな結論を即決で出してしまうなんて。彼女に顔向けできない。
散々刹那さん達に「よかったな」とからかわれながら別れ、部屋に入り、一気に膝から崩れ落ちる。
ほのかに香るローズの匂い。
薔薇は主張の激しい香りがするはずなのに、僅かにしか香らないその控えめな匂い。それは、紅子さんがまるですぐそばにいるみたいで……なのに隣には誰もいなくて、その現実に直面した俺はぼろぼろと流れる涙を止めることができずに泣いた。
これは徹夜明けで弱っているからだ。
きっと、とても疲れているせいだ。
そのせいで、きっと精神的にも参りやすくなっているんだ。
ベッドに寄りかかり、目を瞑る。
さすがにいきなりベッドを借りれるほど、勇気は出なかった。
今にも紅子さんが玄関から顔を出してきそうな、キッチンから「お兄さん、このあとはどうするの?」と料理の指南を求めてきそうな雰囲気。
あと六日でそれを取り戻さなければならない。
それは紅子さんにとってのタイムリミットでもあるし、多分俺の精神にとってのタイムリミットでもあるだろう。こんな環境で、潰れずにいられない自信がない。
無理矢理眠るように体を抱きしめる。
早く、早く、早く。早く休んで俺もまた行動しなければ。焦るほどに、眠気は遠ざかっていく。しかし、そんな俺の気持ちを察したのだろうか。隣からカタリと金属の動く音がして、目の前に影が差した。
「おやすみ、主ちゃん」
誰かと思う暇もなく、トンと優しく首を叩かれて意識を落とされる。
最後に聞いた声は多分身近な人だと気づいてしまったが……起きても知らん振りをしようと、そう、決めた。




