【第1話:処刑台の露が乾かぬうちに、わたしは十歳に戻った】
刃が落ちる直前、エリカ・フォン・アルテンベルクが最期に思い出したのは、薔薇の香りだった。
父が遺した調香台。朝の光に透ける琥珀色の香油。指先に染みついたジャスミンとサンダルウッドの記憶が、冷たい断頭台の上で鮮明に蘇る。
二十三年の人生は、無実の罪とともに散ろうとしていた。
「……婚約破棄の上に、毒殺未遂とは。アルテンベルク家の面汚しめ」
クロード・フォン・ランツベルト王子の冷徹な声が遠のいていく。
三年間、誠実を尽くした。だが彼は新しく見つけた伯爵令嬢との恋の邪魔になったエリカを、濡れ衣で「排除」したのだ。貴族社会は王子の言葉を妄信し、彼女の潔白に耳を貸す者は一人もいなかった。
(もし次があるなら……)
意識が暗転する瞬間、エリカは呪いのように誓った。
(もう二度と、あんな男のために香りなど作らない)
次に目が覚めたのは、天蓋付きのベッドの上だった。
小さな手、高い天井。鏡に映るのは、まだ幼さの残る十歳の自分。
(……戻ったのね)
驚きよりも先に、乾いた納得があった。神の慈悲か、あるいは未練の強さか。
記憶は処刑の瞬間まで克明に残っている。両親もまだ健在で、調香師として高名な父の背中もそこにある。
(二度目は絶対に王子と関わらない。香りの研究だけに没頭して生きる。それで十分よ)
エリカは、死の間際に完成させた「毒消しの香」の配合を脳裏に刻み直した。今度は、自分を守るために。
二年後。十二歳になったエリカは、王立学園の社交場にいた。
目的はクロード王子との「初顔合わせ」。前世ではここで目をつけられ、運命の歯車が狂い始めた。
(あと三分。挨拶だけ済ませて帰るわ)
会場がざわめく。くせのある金髪に、人懐っこい青い瞳。前世で愛し、殺された男が登場した。
王子は目ざとくエリカを見つけ、記憶通りに歩み寄ってくる。
「アルテンベルク侯爵令嬢。君の噂は聞いている。調香師の血を引く、才色兼備の令嬢だと」
前世では頬を染めていたエリカだが、今は冷めた目でシャンパングラスを傾けるだけだ。
「ぜひ、もっと話がしたい。私の隣に来てくれないか」
周囲の令嬢が羨望の眼差しを向ける中、エリカは薄く笑い、静かに、だがはっきりと言い放った。
「ご遠慮申し上げます。殿下のお召し物……ムスクの品質が著しく悪く、大量に使っておられるようで。調香師の家系ゆえ鼻が利くのですが、長時間お傍にいると酷い頭痛がしそうですの。どうかご容赦くださいませ」
静寂が広間を支配した。王子の笑顔は、彫像のように固まった。
「……今、何と言った?」
「お元気で、殿下」
凍り付いた王子を放置し、エリカは踵を返した。背後で「王子に加齢臭と言ったのか?」という的外れな囁きが聞こえたが、知ったことではない。
あなたと関わって死んだのだ、一度。
エリカは夜風に吹かれながら、自由な二度目の人生の始まりを確信していた。




