第81話 エクスタシー
「下がれ! いったん下がれ……!」
俺はそう指示するしかなかった。あんな状態のモサにはドンでも近づけない。
俺たちは大きめの木が何本も生えているあたりに退避した。
ドンはさすがにかなり興奮しているみたいだ。汗だくで、身体から湯気が立っている。
「オレも、肝、冷ヤシタ……!」
「よく言うぜ」
俺はドンと腕を打ちあわせて笑った。
「なんと果断な……」
ミリリュは呆気にとられているようだ。
ハイネマリーも目をきらきらさせ、仰ぎ見るようにしてドンを見ている。何しろちっちぇーから、どうしたって見上げることになっちまうんだけどな。
「ドワーフは勇敢さにかけて他の追随を許さぬ種族だと思っていたのだが……オークとはこんなにも恐れを知らぬものなのかッ。おぬしは……漢だッ、ドン・ブラグンどのッ。ナイス・漢……ッ!」
満面に笑みをたたえてビッと親指を立ててみせたハイネマリーを、ドンは、
「ムゥ……?」
と怪訝そうな顔で見ている。まあ、そりゃ意味不明だよな。
とにかく、モサのやつが少し落ちつくまで、まずは待つことだ。
その間に俺たちはフォーメーションを確認した。
さっきと同じ轍を踏むわけにはいかない。モサに銃撃を浴びせるときは極力背後からにして、撃ったらすぐに身を隠す。これを徹底することにした。
このやり方だと、モサを目指す場所まで誘導するのが大変になるが、どのみち時間を稼がなきゃならない。焦る気持ちを抑えつけて、ゆっくり、じっくり事を進めることだ。
やがてモサが四肢と尻尾で地面をぶっ叩くのをやめた。
首を左右に振りながらうろうろして、たぶん俺たちを探している。
「まったりやるぞ」
俺はあえて軽い調子で声をかけた。気を抜いたら一瞬でやられるなんてことは、全員わかりすぎるくらいわかってるわけだしな。ただでさえ深刻なんだ。深刻ぶったってしょうがない。実際、腰を据えてまったりやるしかねーんだ。
俺とミリリュ、ハイネマリーとドンが組んで、二班に分かれた。
もちろん、接近戦は基本的にはしない。できっこねーしな。ドンはやってみせたが、だからやれるなんて考えは捨てるべきだ。ドンに頼るわけにはいかない。
俺がズドーンと銃を撃つ。
モサがムオオオオオオオオンと吼えて、振り返る。
そのときにはもう、俺とミリリュはそこにはいない。茂みの中に飛び込んで伏せている。モサは苛立って地団駄を踏む。尻尾でそのへんの木をぶっ倒す。
間もなく、銃声。ハイネマリーが撃った。
モサがムオオオオオオと方向転換。
「行くぞ」
俺はミリリュの背中をぴしゃんと叩いて起きあがる。
「はいっ……!」
ミリリュもオッパイをぶるんっと揺らして跳ね起きた。
俺たちは走る。低い姿勢で走る。できるだけ灌木や草の陰から出ないようにして走る。
ただモサの背後をとればいいというものじゃない。少しでもモサが目指す場所に近づくように計算して距離や位置を定める必要がある。ここだ、というポジションで、ある程度待ったりもするわけだが、待ちすぎてモサが痺れを切らしてしまったらまずい。ほどほどにしておかないといけない。ベストを求めないことだ。ベターでいい。最高の結果を手に入れるため、妥協に妥協を重ねる。誰の目にも明らかな最短距離を一直線にズバッと駆け抜ければいい、そんなたやすいレースじゃないってことだ。辛抱しろ。
繰り返すごとに、どんなことでも徐々に慣れて作業化していく。ミスが生じるのはそんなときだ。だから、作業だとは考えない。俺は隠れる。モサを背中から撃つ。すぐさまミリリュを連れて移動する。似たようなことを何度も何回もやっている。でも、同じことをしているんじゃない。毎回違う。似ているようでまったく違うといってもいい。俺は楽しむ。見える景色の違い。足場の違い。隠れ方の違い。少しでもさっきよりうまくやろうとする。ミリリュの動作を読む。呼吸をあわせる。ミリリュのことがわかってくる。モサの様子をうかがうたびに新たな発見がある。モサを知ることができる。俺は楽しむ。すべてを楽しんでやる。緊張感も、恐怖すらも。楽しめないことなんか一つもない。
「なんだか……楽しそうです」
すぐ隣に伏せているミリリュが俺の顔を見て不思議そうに小声で言った。
「おもしれーからな」
と俺は素直に答えた。
「……キサラギ様のように、こんな状況すら楽しむことができるようになれば、わたくしも変われるでしょうか」
「もう変わってんだろ」
「……え?」
「俺から見りゃあ、日々変わってるぞ。おまえにかぎらねーけどな」
「キサラギ様には、そうお見えになるのですか……?」
「気づいてねーだけじゃねーのか。よし……!」
俺は銃を撃つなり駆けだす。ミリリュも即座に反応した。
俺もミリリュも、だんだん動作が淀みなくなってきている。向上も進歩も当然、変化だ。俺たちは変わりつづけている。一秒ごとに、何か判断するたびに、行動するごとに、俺たちの中で何かが動く。一つ一つは些細かもしれない。微細な変化かもしれない。でも、積み重なればそれは膨大だ。そのことに気づくかどうか。それだけでしかない。昨日の俺と、今日の俺、明日の俺はまったく別人だと認識できるかどうか。同じ味の空気なんかない。同じように感じるだけで、本当は同じなんかじゃない。俺たちは莫大な変化の中にいて、俺たちも刻々と変化している。そう意識すれば、what a wonderful world、素晴らしき哉この世界、その実感がこみあげてきて、あのモサ野郎さえいとおしくなってくる。でも、俺はおまえを殺す。おまえが生きて繁殖するために海サハギンどもを食らうのと同じくらい、俺の殺意もごくごく自然だ。俺はおまえを殺す。それも変わりゆく世界の一部だ。
俺たちは今や、だいぶその場所に近づいている。
三角山の麓。方角でいえば南。このあたりは背丈の低い密林といった風情だ。木々がかなり密生していて、俺たちにしてみれば身を隠しやすい。モサにしてみれば見通しが悪い。地形もわかりづらい。
ジャンカルロから聞いたとおりだ。俺はそのポイントもしっかり確認した。ここで間違いない。
ギンジーとジャンカルロのほうの首尾はどうか。
「まだか……ッ!」
ハイネマリーが発砲した直後にそんなことを叫んだ。
「焦れるな……!」
俺はモサを背後から撃って声を張りあげた。
素早く移動しながら、あたりを見まわす。
あれは。
「キサラギ様……!」
ミリリュが声を弾ませた。
「ああ!」
俺はうなずいた。
そう遠くない。せいぜい、ここから二百メートルかそこらだろう。煙だ。森の中から煙が立ちのぼっている。狼煙だ。
狼煙が上がっている。
きた。合図だ。ギンジー。ジャンカルロ。モサをここまで引っぱってくるのに、そうとう時間をかけた甲斐があった。やりやがったな、あいつら。
俺は例のポイントに目をやった。距離は百五十メートルってとこか。俺からモサまでは三十メートルくらいだ。
計算しようとして、やめた。ここまできたら、あとはのるかそるかだ。この勝負、乾坤一擲、血湧き肉躍る、楽しい楽しい、楽しくてしょうがねー大勝負だけは、頭を真っ白にしてドーンと挑まねーと損だ。アドレナリンがドバドバ出まくって、感覚が冴え渡り、研ぎ澄まされ、めちゃくちゃ気持ちいい。やるぞ。やるぞ。やるぞ。
「ミリリュ、命令だ」
「はい……っ!?」
「おまえはついてくるな。ここからは俺が一人でやる。俺の邪魔するんじゃねえ」
「で、ですが……っ」
「邪魔しやがったら、嫌いになるぞ」
「それは、いやですっ! 絶対に……っ!」
「泣くな、馬鹿。俺を信じろ」
怯む気持ちがまったくないわけじゃない。でも、ねじ伏せる方法を俺は知っている。こっから先はおもしれーぞ。俺は自分にそう囁く。何しろ、どうなるかわからねえ。未知の領域に、俺は足を踏み入れる。こんなにおもしれーことが他にあるかよ。
俺は銃に弾を込めて、走る。
「モサ……!」
大声でやつを呼んだ。
やつはもうこっちを見ている。俺を視界に収めて、オマエダ……! とやつはたぶん思っている。ニゲマワリヤガッテ! コソコソト! コナマイキナニンゲンメ! オマエヲクッテヤル……! まあ、やつが怒るのも無理はない。やつに比べれば、俺はちっぽけな、ちっぽけすぎる生き物だ。俺一人を食らったところで、やつにしてみれば腹の足しにもならないだろう。それでも、やつは俺を、俺たちを追いかけてきた。追いかけてきてくれた。俺はいっそ感謝している。おまえはそんなつもりなんてねーだろうけどな。結果的に、俺が売った喧嘩をおまえは買ってくれた。おかげで俺は今、こんなに楽しい。
「どうした、モサァァッ! こいよ、コラァッ! 俺はここだ……!」
俺は銃をぶっ放す。
銃弾がモサの鼻面をかすめた。
くるぞ。
くる。
モサが走りだす。
スピードに乗るまで、まだ間がある。そうはいっても、とんでもない迫力だ。地響きが俺の内臓まで震わしている。モサ。モサの突進だ。
「キサラギィィ……ッ!」
ハイネマリーが絶叫した。
「ユケ、キサラギ……!」
ドンはさすがにわかっている。
俺は笑う。笑いながら、駆ける。飛ぶように駆ける。すげえ。すげえ。俺ってこんなに速く走れんのかよ。俺はもう余計なことは言わない。言う必要がない。モサ。俺とおまえの勝負だ。できるものなら、この俺を喰らってみやがれ。
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