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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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91話:行ってらっしゃい

 蓮の声は、いつもより半音低かった。


 「ねえ、今日の放課後——大楠の下に集まらない?」


 昼餉の大広間で、蓮は粟粥を匙ですくいながら何気なく言った。隣で凌が椀を傾けている。善次郎が向かいで黙々と箸を動かしていた。いつもの昼の風景に、いつもの蓮の声。けれど朔には分かった。蓮の翡翠色の瞳が笑っていない——正確には、笑っているが、笑顔の下にもう一枚の表情がある。あの浄身院の廊下で見た蓮を知ってから、朔は蓮の笑顔の層を読めるようになっていた。


 蓮は「明日」を知っている。明日が日常の延長ではないことを。


 「別にいいが」


 凌が椀を置いた。もう中身は空だった。口元についた汁を袖で拭おうとして——蓮に睨まれ、手拭いに変えた。


 善次郎は何も言わず、一度だけ顎を引いた。


 「ちがうの。今日はちゃんと」


 蓮の声がすこし強くなった。ちゃんと、の先は続かなかった。蓮自身にもその先の言葉が見つからないようだった。凌が鼻で短く息を抜いたが、足はもう大楠の方角を向いていた。


 朔は匙を置いた。「分かった」とだけ答えた。


---


 放課後の大楠は、晩秋の風を枝いっぱいに受けていた。


 春には青い花で空を覆ったあの樹冠は、今は黄褐色に染まり、風が通るたびに乾いた葉がひとひら、ふたひら、根元に降りてきた。夕暮れ前の低い光が幹に斜めに差し、古い樹皮の凹凸に長い影を落としている。空は高く澄み、結界の琥珀色が薄く天蓋のように伸びていた。


 朔は幹に手を触れた。樹皮のざらついた感触の奥に、微かな法力の脈動がある。入学の日——この木の下に立ったときの手の小ささを、今はもう思い出せない。あれから七年が過ぎた。


 凌は根の上に腰を下ろした。練刀を膝の横に立てかけ、柄に手を添えている。蓮が凌の隣に座り、練弓の弦に指を触れた。弦が澄んだ一音を鳴らし、枯葉のあいだに溶けて消えた。善次郎は幹から少し離れた根の隆起に腰を据え、薙刀の柄を握り直していた。樹鎧の内張が防穢衣の襟元からわずかに覗いている。


 四人が揃った。いつもの場所。いつもの距離。


 けれどこの日、五人目がいた。


 郁が——大楠の根元に座っていた。


 一番班の輪の中に。はじめてのことだった。遠くから見ていた日があった。手を振ってくれた日もあった。けれどこうして根元に座り、四人の隣に肩を並べているのは、この七年で初めてだった。鳴弦が郁の左肩に止まり、灰銀色の羽を折り畳んで静かにしている。琥珀色の目が夕暮れの光を拾って、やわらかく光っていた。


 少し離れた場所に三番班の姿が見えた。千早が腕を組んで校舎の壁に背を預け、梶が落ち着かない様子で足を組み替え、いつきが静かに空を見上げている。千早の視線が郁の背中に向いていた。何か言いかけたように唇が動き——やめた。口を閉じて腕を組み直し、壁に肩を押しつけた。


 凌が練刀の柄を軽く叩いた。


 「今年は負けねえ」


 朔を見ていた。不敵な笑みだった。初穂を巡って朔と凌のあいだで繰り返されてきた言葉——しかし今回の「負けねえ」は、序列の話ではなかった。明日、灰輪に降りる。結界の外で本物の怪異と向き合う。その場で誰が何をできるか。凌の目にあるのは競争心ではなく、覚悟だった。


 朔は小さく笑った。「うん」


 蓮が弦から指を離した。「みんな装備の手入れはした? 明日になって『帯が緩んでた』とか言ったら治療の前にあたしが殴るからね」


 善次郎が無言で薙刀の柄を持ち上げ、蓮に見せた。木肌は丁寧に磨かれ、法力の回路紋が柄の節目に沿って静かに脈打っている。蓮が「よし」と頷いた。善次郎はそれだけで柄を戻した。


 郁が膝の上で苗札を回していた。小さな木札——入学の日に受け取った、大楠の枝から削り出された札。表面に「御影 郁」の墨書がある。裏面は空白のまま。七年間、肌に触れるたびに法力を吸い込んできた苗札は、もう郁の法力の色に染まっていた。


 「……明日だね」


 郁が呟いた。声はまだ小さい。半分しか言葉にならない話し方は変わっていなかった。けれど——その声は震えていなかった。入学の日の名乗りの儀で、声が小さくてやり直しになった日の郁とは、もう違う。


 鳴弦が郁の耳元で「キィ」と細い声を出した。いつも通りの、穏やかな声だった。


 朔が錫杖を立てた。環が微かに触れ合い、金属の澄んだ余韻が大楠の枝のあいだを抜けていった。法力が自然に指先を巡っている。安定した流れだった。かつて苗圃の壁を前にもがいた指先が、いまはこの杖を得て、迷わずに法力を操っている。


 五人でしばらく黙っていた。


 風が吹くと枯葉が五人のあいだに舞い落ちた。夕暮れの光が少しずつ傾き、幹の影が根元を越えて五人の足元にまで伸びてきた。この沈黙が心地よかった。言葉がなくても壊れない空気を、七年かけて作ってきた。


 蓮が膝を抱え直した。「……いい場所だよね、ここ」


 朔は頷いた。入学の日、保護者に連れられて門をくぐったとき、最初に目に入ったのがこの大楠だった。七年間、この根元で巻物を広げ、鍛錬の汗を拭い、蓮の笑い声を聞き、善次郎の沈黙を隣で過ごした。凌と背中合わせに座り、郁の小さな声を聞いた。記憶のすべてがこの幹に刻み込まれているような気がした。


 やがて日が落ち始め、訓導の鐘が遠くで鳴った。


 五人が立ち上がった。


 帰り道の分岐が近づく。ここを過ぎれば、五人はそれぞれの家路に散る。いつもの別れ。明日もまた会える——はずの、いつもの別れ。


 善次郎が口を開きかけた。


 唇が動いた。「また——」


 そこで止まった。善次郎の喉仏が一度上下し、唇が閉じた。


 「また明日」が出てこなかった。明日は抜穂の儀だった。明日の「明日」は——もう日常の続きではない。善次郎はそれを知っていた。四年間、「また明日」と言い続けてきた。合流する場所が同じで、朝が同じ角度で石畳を照らし、門をくぐれば大楠が迎えてくれる——その「明日」がもう保証されない世界に、明日から出て行く。


 善次郎の右手が胸元に上がった。法衣の襟の下にある結縁紐——「種火」の紐——に、指先が触れた。それだけだった。それだけで十分だった。


 凌が鼻で息をついた。分かっている、という息だった。蓮がすこし笑った。目元がわずかに潤んでいたが、蓮はそれを拭わなかった。朔は小さく頷いた。


 郁が一番班から半歩離れた。


 朔に小さく頭を下げた。くすんだ茶色の短髪が額にかかり、琥珀色の目が大楠の影の中から朔を見上げている。


 「……朔くん、明日」


 鳴弦が「キィ」と一声。澄んだ細い声が晩秋の空気を震わせた。


 朔は頷いた。「うん。明日」


 郁が歩いていった。左肩に鳴弦を乗せたまま、背筋がわずかに丸まった細い背中が遠ざかっていく。三番班の方角へ——千早がまだ校舎の壁に寄りかかって待っていた。郁が近づくと千早が腕を解き、何か低い声で言った。梶が立ち上がり、いつきが空から目を降ろした。四人の影が夕暮れの校舎の陰に消えていく。


 鳴弦の灰銀色の羽が、最後に一度だけ夕日を弾いた。


---


 土御門家の夕餉は静かだった。


 瑞が盛った粟飯の湯気が、灯の光のなかでゆっくりと立ち上っている。塩鮭の焼いた匂いと山菜の煮物の香りが居間に満ちていた。篝が朔の隣に座り、箸を動かしている。守篝以降、篝が夕餉の席に毎日座れるようになったことがどれほどの変化だったか——今ではもう、誰もそれを特別とは思わなくなっていた。篝がここにいることが、当たり前になっていた。


 基は黙って箸を運んでいた。何も言わない。いつも通りに見えた。けれど朔は気づいていた——基の箸が、普段より少しだけ遅い。一口ごとに、ほんのわずかだが、間が長い。


 要がいなかった。鎮護寮の夜詰めに入っている。朝の巡回路で言葉を交わしたのが最後だった。「遅ぇよ」と言った兄。今日の食卓に兄の器はない。けれど要はそういう男だった。言うべきことは言い終えている。あとは——朔が自分の足で歩くだけだ。


 瑞が篝の椀に汁を注ぎ足した。篝が「ありがとう、お母様」と言って笑った。瑞が微笑んだ。その笑みの奥に揺れているものを、朔は見ないふりをした。瑞はいつもそうだ。涙をこらえるとき、笑みが深くなる。


 食器が片付けられた。


 基が立ち上がりかけ——朔の横で止まった。


 朔が顔を上げた。基が朔を見下ろしていた。灯の影が基の顔の半分を覆い、もう半分だけが光に照らされている。寡黙な顔だった。里の結界を二十年近く支え続けてきた顔。朔がこどものころ、帰宅した父の衣から穢れの痕跡を感じたあの頃と同じ——大きな、分厚い手が。


 基の手が朔の肩に置かれた。


 重かった。法力を込めているわけではない。ただの手の重みだった。朔が幼いころ、帰宅した基がこの手で朔の頭に触れたことがある。あのときは手が大きすぎて、朔の頭がすっぽり覆われた。今は——肩に置かれた手が、ちょうど収まっていた。


 基は何も言わなかった。言い終えていた。「ようやく決めたか」も「この結界はお前がいなくなっても息をしている」も、もう言葉として存在していた。これ以上何を付け足しても、この父と息子のあいだでは蛇足になる。


 手が離れた。基は居間を出ていった。


---


 篝の部屋の障子を開けると、篝は褥の中にいた。


 起きていた。守篝が胸元で穏やかに明滅し、薄闇のなかに小さな脈動が波紋のように広がっている。夜の障子が白く仄かに光っていた——敷地結界の呼吸が外から差し込んでいる。


 「さくにぃ」


 篝の声が暗がりから届いた。


 朔は敷居のそばに座った。篝の顔が守篝の光に照らされている。漆黒の目が朔を見つめていた。澄んだ、深い目。同じ顔をした双子だけれど、篝の目には朔にはない光がある。何かを見通す光。朔の分析よりもずっと早く、ずっと正確に、朔の心の底を映し出す光。


 長い対話は要らなかった。あの夜——朔が「篝は……知ってるでしょ」と弱さを開いた夜に、二人のあいだで言うべきことはすべて言い終えていた。「怖いよ」と篝が言い、「篝の知らない景色を見てきて」と篝が送り出した。あの夜を経た二人には、もう繰り返す言葉がない。


 篝が褥から片手を出した。朔の手に触れた。小さな手だった。冷たいはずだったけれど——守篝以来、篝の指先は以前ほど冷えなくなっていた。


 「行ってらっしゃい、さくにぃ」


 声は震えなかった。


 六年前——入学前夜に、篝は「がんばってね」と言った。四歳の声だった。がんばって門をくぐって、がんばって鍛錬して、がんばって帰ってきてね——そう言って笑っていた幼い妹の声を、朔はまだ覚えている。


 今の「行ってらっしゃい」は違う。がんばって、でも、気をつけて、でもない。「行ってらっしゃい」——行って、そして帰ってきなさい。恐怖を抱えたまま、兄を送り出す対等な声だった。


 朔は篝の手を軽く握り返した。


 「行ってくる」


 六年前と同じ言葉。けれどあのときの「行ってくる」は約束だった——帰ってくるから、待っていて。今の「行ってくる」は覚悟だった。帰ってくる。必ず。全員で。


 篝がにこっと笑った。嘘のない笑顔。あの夜の——「怖いよ」の先に見つけた笑顔だった。朔にはその笑みの奥にまだ残る「怖い」が見えた。それが見えることが、二人があの夜を越えた証だった。


 窓の向こうに、結界が見えていた。琥珀色の光が夜の空に薄く透けている。あの光の向こうに——明日、朔は出る。


 障子を閉めた。


---


 翌朝は、空が冴えていた。


 晩秋にしては風がなく、明け方の空気が刃のように冷たく乾いていた。朔は自室で防穢衣に袖を通した。玄外の工房と朔の設計図から生まれた防穢衣——法力回路が布目に添って走り、護帯と連動する構造を肌越しに感じる。首元で護帯が微かに振動した。朔が作り、家族が力を注いだ法具が、出陣の朝を迎えている。


 玄関で草履の紐を結んだとき、背後に気配があった。


 振り返ると瑞が立っていた。


 母は何も言わなかった。ただ朔の前に立ち、防穢衣の右の襟がわずかに折れているのを——白い指で直した。それだけだった。手が戻り、瑞は半歩退いた。唇がかすかに震えたが、声にはならなかった。瑞はいつもそうだ。朔の母は、泣くときに笑い、こらえるときに黙る。


 朔は一度頭を下げた。門を出た。


 振り返らなかった。後ろに篝と瑞がいることは分かっていた。振り返れば二人の顔が見える。見れば——足が止まるかもしれないと思ったからではない。止まらない自信があった。けれど振り返るのは、まだ帰るときだと思った。


 石畳を踏む足に力がこもった。朝の光はまだ低く、里の屋根瓦を赤く染めている。白い息が前に流れ、晩秋の空に溶けて消えた。


 辻の角に影が待っていた。


 凌だった。いつもの場所で、いつもの姿勢で立っている。袖を捲り上げ、練刀を腰に佩いている。凌は朔を見ても何も言わなかった。目だけが朔を捉え——一瞬だけ口元がゆるんだ。それから前を向いた。歩き出した。


 いつもの歩幅。いつもの間隔。


 それがこの朝の凌の覚悟だった。いつも通りであること。特別な朝を特別に扱わないこと。結界の外に出る日の朝を、凌はいつもの通学路と同じ足で歩く。二人は並んで歩いた。言葉はなかった。


---


 外采門の前に、全班が集結していた。


 教導寮の門ではなく外采門——結界の外に通じる門の前に、七年次の生徒が班番号順に整列している。防穢衣を纏い、それぞれの武器を手にした少年少女の列が、晩秋の朝の光のなかで静かに立っていた。


 門は閉じている。分厚い石と霊木の扉の向こうには、結界の外がある。


 朔は列の先頭に立った。一番班。初穂の班。最も難度の高い区域に向かう班が、最も前に立つ。凌が左、善次郎が右、蓮が朔の斜め後ろ。四人がそれぞれの武器を携えて、門に向き合っていた。


 錫杖を握る手に汗はなかった。


 苗札が懐にある。入学の日に受け取った木札——表に名前、裏は空白。七年間、朔の法力を吸い込み続けた苗札が、薄い衣越しに胸を温めている。あの日、門をくぐって大楠を見上げた四歳の自分が受け取った木札だった。


 訓導が班ごとに巡回し、苗札を目視で確認していく。


 三番班の列に郁がいた。苗札を右手に持っている。入学の日——名乗りの儀で声が小さくてやり直しになった日に、鳴弦が袖を咥えて郁の手を支えていたあの日。今日の郁の手は震えていなかった。苗札を掲げた右手がまっすぐに伸びている。鳴弦は左肩で静かにしていた。


 成長という言葉では足りない、と朔は思った。郁は——あの臆病で、自信がなくて、半分しか声にならない言葉で自分を責め続けていた少年は、七年をかけてここに立っている。震えない手で苗札を握り、隣の千早に何か言われて小さく頷いている。梶がそわそわと足踏みし、いつきが「大丈夫」と穏やかに言うのが聞こえた。三番班の四人が、四人なりの形で立っていた。


 厳島寮長が門の前に立った。


 法衣の裾が朝の風に微かに揺れている。厳島寮長の佇まいは入学の日と変わらなかった——穏やかで、しかし有無を言わさない。あのとき大楠の根元で「この楠は、五星連珠の時代からここに根を張っている」と口上を述べた声と同じ声が、今度は外采門の前に響いた。


 「七年をかけて、お前たちはここに立った」


 厳島の声が晩秋の朝の空気を裂いた。静かな声だった。怒鳴る必要がない。全員が聴いている。


 「——生きて、帰って来い」


 それだけだった。厳島はそれ以上何も言わなかった。


 来賓席に基がいた。鎮護寮頭領としての正装に身を包み、背筋を伸ばして座っている。入学の日にも——基はあの席にいた。あのとき朔は門をくぐる側で、基は見守る側だった。七年が過ぎて、朔はまた門をくぐろうとしている。今度は入るのではなく——出る。


 基の目が朔を捉えていた。何も言わない。昨夜の肩の重みが、まだ残っていた。


 外采門の傍に矛代剛丈が立っていた。外采寮頭領。あの灰輪の巡哨で「綺麗すぎると折れる」と言った男が、門柱に太い腕を組んで凭れ、生徒たちを見渡していた。見習いのときとは違う——今日は評価者として、ここにいる。


 鎮護寮の結界担当が門に手を触れた。法力が流れ、石と霊木の扉が内側から軋んだ。ゆっくりと——門が開いていく。


 門の裂け目から風が入った。


 結界の内側とは違う空気だった。湿度が低く、どこか渇いた匂いが混じっている。あの灰輪の見習い初日に嗅いだ匂い。けれど今日はその匂いの意味を知っている。穢れの混じった風。結界が遮り続けているものが、門の向こうに満ちている。


 護帯が首元で微かに脈打った。四人の、いや、ここにいる全員の首元で。穢れの気配に応じて浄域膜を張ろうとしている。自分が作ったものが全員の命を守ろうとしている——その実感が、朔の指先に静かに降りてきた。


 一番班から順に門をくぐる。


 朔が一歩を踏み出した。石の敷居を越え、門の下を通り、結界の内から外へ。足が門を跨いだ瞬間に空気が変わった。肌を撫でる風の質が、一枚壁を隔てただけで別のものになった。


 結界の向こうを、ずっと見ていた。


 高台から父の帰りを待ちながら、琥珀色の帷の向こうにある灰色の空を見ていた幼い日があった。結界の際に立ち、外界の闇を初めて肌で感じた夜があった。見習いとして門を出て、灰輪の大気を吸い込んだ朝があった。そして今——覚悟を持って、この門を出る。


 凌が隣に並んだ。善次郎が一歩遅れて通り、蓮が最後に門をくぐった。四人が門の外に立った。


 後ろから、他の班が続いていく。


 三番班が門に近づくのが見えた。千早が先頭で歩き、梶が続き、いつきが歩きながら何かを確認している。最後に——郁が門をくぐった。


 鳴弦が左肩に止まっていた。灰銀色の羽が門の向こうから差す朝日を受けて、一瞬、白銀に煌めいた。郁の目が朔を見つけた。小さく頷いた。朔も頷き返した。


 郁の背中が灰輪の風の中に溶けていった。


 鳴弦の羽ばたきが一度——高く上がり、郁の肩に戻った。


 朔は前を向いた。灰輪が広がっていた。灰色と褐色の入り混じった荒野が、晩秋の低い光に照らされて果てしなく続いている。遠くに枯蔦の森の暗い輪郭が浮かんでいた。風が吹いた。護帯が脈打った。


 錫杖を握り直した。環が一度、澄んだ音を鳴らした。


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