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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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90話:壁は前に

 大楠の若葉が風を受けて揺れていた。


 放課後の陽が枝葉の隙間を縫って根元に届き、四つの影をまだらに照らしている。風が吹くたびに光と影が入れ替わり、木漏れ日が地面の上で呼吸するように明滅した。


 朔は大楠の幹に背を預けて立っていた。根の上に凌が腰を下ろし、蓮が凌の隣で膝を抱えている。善次郎は少し離れた根の突起に腰を下ろし、薙刀を膝の横に立てかけていた。


 四人が揃ったのを見て、朔は口を開いた。


 「外采寮に志望を出すよ」


 短い一文だった。ただの事実として、春の空気の中に置いた。昨夜、篝にも伝えた。今朝、父の巡回路でも伝えた。そして今——最後に伝えるべき場所が、ここだった。


 凌が鼻で息を抜いた。


 「知ってた」


 ぶっきらぼうだった。枝の上の鳥を追い払うような短さで、凌はそれだけを言った。春の午後の大気が凌の声を吸い込み、大楠の葉擦れにさらわれた。


 「——俺も外采で出す」


 付け足すように。しかしその声には、鋳物が冷えて固まるような揺るぎなさがあった。凌の適性は最初から外采寮に向いていた。見習いで泥を踏み、巡哨で足を鍛え、戦刃術と雷火術の二つを磨き上げたこの一年——凌にとって「志望」は手続きにすぎない。


 蓮の目がかすかに光った。


 涙ではなかった。春の陽が翡翠色の瞳に入って、きらりと弾けただけだった。一瞬だけ唇がきゅっと引き結ばれ——それから、蓮は笑った。


 「あたしも外采寮で出すよ。知ってるでしょ」


 ——知ってるよ。


 篝の声が重なった。昨夜の篝の声ではない。もっと前の——守篝を渡したときの篝の声。蓮が使った「知ってるでしょ」と篝の「知ってるよ」は違う言葉だった。しかし一瞬だけ、朔の鼓膜の奥で二つの声が同じ音を鳴らした。


 蓮は先に視線を外して笑い直した。浄身院を選ばなかった。待つ医療ではなく、前に出る医療。父にも伝えている。蓮の決意は朔よりずっと前に固まっていた。——蓮はいつもそうだ。笑顔の速度と同じ速さで、覚悟の先にいる。


 朔は善次郎を見た。


 「善次郎は鎮護寮で出すんだよな」


 確認だった。善次郎は鎮護寮が合っている。結界の際で霊木に手を添え、樹相術で壁を支える——善次郎の体はそのために作られたような体だった。見習いに行った先で善次郎がどう評されたかを、朔は剛丈から伝え聞いている。


 善次郎が頷いた。


 ——ただ、その頷きが、一拍遅かった。


 「ああ」


 それだけだった。善次郎の声に揺れはなかった。揺れはなかったが、朔には分かる。善次郎が力を入れるのは、揺れを見せないためだ。善次郎の沈黙にはいつも密度がある。しかし今の「ああ」は密度ではなかった。何かが足りないか、あるいは何かが多すぎた。


 朔は善次郎の目を見ようとした。善次郎はすでに正面に視線を戻していた。


---


 帰り道、善次郎は一人で歩いていた。


 大楠の下を離れる前、門のところで凌が「じゃあな」と言い、蓮が手を振った。善次郎も口を開きかけた。「また明日な」——喉まで来ていた。いつもの一言。あの防風林の帰り道から、自然に出るようになっていた言葉だった。


 声が出なかった。


 唇が開いて、春の空気が喉を通っただけだった。そのまま善次郎は体ごと向きを変えて歩き出した。背中に蓮の首が傾く気配がした。追いかけてこなかった。善次郎は助かったと思った。


 通りの石畳を南西に折れる。教導寮から志場家までの道は短い。里の規模が小さいのだ。外采使の家が並ぶ一角に差しかかると、ある家の庭先に干されたままの洗い物が揺れていた。誰の家かは知っている。善次郎は目を逸らし、足を速めた。


 広場に出た。


 志場家の裏手にある小さな広場——鉄心がかつて薙刀の型を教えた場所だった。三つの年から毎朝、善次郎はここで素振りを繰り返した。鉄心が遠征に出ている間も、帰ってくるまでに見せられるだけの回数を重ねた。稽古場とも呼べないころ合いの、ただの空き地だった。土が踏み固められて草が生えない一角だけが、善次郎の日課を物語っている。


 善次郎はそこに立った。


 薙刀の柄を握った。薙刀の柄は掌に馴染む。霊木の古材で作られた柄は、善次郎の法力を通すたびに僅かに温くなる。——握った。だが振らなかった。


 朔が外采寮に志望を出す。


 知っていた。法力の安定を見た瞬間から分かっていた。環が等間隔で鳴り始めた昨日の朝、善次郎は安堵したのだ。法力が乱れているときの朔は危うい——無理をする。しかし安定した朔は正しい。正しい判断を、正しく出す。だから安堵した。


 しかし安堵の裏側には、別のものがあった。


 朔が決めた。凌もとうに決めている。蓮も。三人が外采寮に志望を出す。三人が壁の外に出る。


 善次郎は壁の中に残る。


 鎮護寮。要石に法力を注ぎ、霊木を支え、壁を修繕する。里のためになる。善次郎の樹相術は鎮護寮でこそ最大の効率を発揮する。合理的判断として間違いはない。善次郎は自分に言い聞かせた。自分の居場所は壁の内側にある。


 ——門が開く光景が見えた。


 出仕見習いの三週間で見た光景だった。鎮護寮の見習いとして門の内側に立ち、外采使の帰還を待った。門が開くと穢れの風が吹き込んでくる。空気の色が変わる。そこに駆け込んでくる外采使たちの姿は、色の抜けた法衣と汗と泥にまみれていた。善次郎はそのとき初めて「待つ側」を体で知った。


 母がずっとやっていたことだ。


 椿は家の板間で夕餉の支度をしながら、鉄心の帰りを待つ。善次郎の知らない時間、善次郎の見えない場所で。善次郎が知ったのは結果だけだった——鉄心が帰れば夕餉の膳に二人分の椀が並ぶ。帰らなかった近所の家からは、やがて子供の泣き声が聞こえなくなる。庭の洗い物が取り込まれなくなる。母が花を手に玄関を出ていく。


 苗札の報せ。母の涙。近所への花。


 あの順序が——想像の中で色を変えた。


 門が開く。穢れの風。駆け込んでくる姿。その中に朔と凌と蓮がいる。汗と泥にまみれて、息を切らして、帰ってくる。善次郎は門の内側で待っている。壁を守っている。——だが一人足りない。三人のうちの誰かが。


 善次郎の想像は名前をつけなかった。つけたら動けなくなる。しかし顔が浮かんだ。凌の赤銅色の目が閉じている顔。蓮が走ってこない背景。朔の錫杖だけが誰かの手で持ち帰られる光景。


 壁の中にいるのに守れなかった。


 門の内側で樹相術を磨き、要石を支え、里のために合理的に生きた——はずなのに、帰ってこなかった人の順序を見ることになる。苗札の報せを聞く。知らせが届く家に歩いていく。椿がやっていたことを、善次郎がやることになる。母の肩の震えが——今度は自分のものになる。


 そっちの方が——怖い。


 善次郎は広場の中央に立ったまま、掌が薙刀の柄を握り締めていることに気づいた。指の節が白い。腕が震えている。


 善次郎は素振りをしなかった。振れなかった。ただ広場の中央で、柄を握ったまま立っていた。鉄心が型を教えた場所で。あの日と同じ土の上で。


 春の風が善次郎の短い髪を撫でた。若草の匂いがした。里の屋根の向こうに結界の際がぼんやりと見えていた。あの結界を善次郎は内側から支えるはずだった。壁を守る壁——それが善次郎の場所だった。


 しかしその場所の向こうに、今は三つの背中が見える。


 壁の外へ歩いていく三つの背中。


---


 凌の帰り道は短かった。


 教導寮の門を出て北に折れ、久我崎家の門をくぐるまでにすれ違うのは数人の里人だけだ。門の脇に植えられた松の枝が春風に揺れ、玄関の踏石に松花粉の黄色い粉が薄く積もっている。


 草履を脱いで上がると、渡廊下の向こうから足音が聞こえた。慧だった。


 「凌。ちょっといいか」


 慧の声は落ち着いていた。いつもと変わらない穏やかさ——だが凌は次兄の声の温度を聞き分けられる。この声は雑談ではない。


 凌は慧についていった。慧の部屋は書斎の隣にある。小さな文机の上に帳面が二冊開いてあった。慧は片付けもせずに凌を招き入れた。


 二人が座る。障子の向こうから夕暮れの光が柔らかく差し込んでいた。


 「外采寮の志望を出す気だろう」


 慧が言った。問いではなかった。


 「ああ」


 凌は短く答えた。慧は頷いた。反対も驚きもしなかった。慧は凌のことを家族の中で最も理解している。凌が総宰司に向かない人間であることも、戦場にしか居場所を見いだせない不器用さも、その不器用さの奥にある矜持も——全部知っている。


 「一つ、伝えておく」


 慧が声を少し落とした。


 「……父上が、遠征帰還簿を取り寄せていた」


 凌の肩が止まった。


 「帰還簿?」


 「外采使の班編成記録だ。直近の五年分。配属先ごとの巡哨区域、遠征の任期、そして——帰還率」


 慧は感情を挟まなかった。事実を並べるだけだった。


 「お前が安全に帰ってくるために、誰と組めば生存率が最も高いかを計算している」


 凌は黙った。


 嶺壱の顔が浮かんだ。書斎の奥で帳面を広げている父の背中。あの人は冷たいのではない——冷徹なのだ。感情に判断を委ねない。総宰官として里の人材配置を最適化するように、外采使の班編成記録を読み解き、息子の生存確率を数字に落としている。「自由にしてよい」と凌を手放した人間が——手放した先の道を、帰還簿で測っている。


 嶺壱の「冷徹な慈愛」を、凌は言葉にできなかった。


 「……そうか」


 それだけだった。


 慧が半分だけ笑った。苦いのか温かいのか判別がつかない、次兄らしい表情だった。


 「父上は口が重い。行動で示す人だ。——覚えておけ」


 凌は頷いた。席を立った。


 渡廊下を歩く。母屋の奥へ続く長い廊下の途中に、書斎の引き戸がある。閉じている。いつも閉じている。あの向こうで嶺壱が帳面を開いている。凌はここを何度通っただろう。素通りだった。何も知らずに、何も思わずに、ただ通り過ぎていた。


 足が止まった。


 引き戸の木目を見ている。松の匂いが微かにした。書斎の中から物音はしない。嶺壱がいるのかいないのかも分からない。


 凌は引き戸に手をかけなかった。入る言葉を持っていなかった。何を言えばいい。「帰還簿を読んでくれたんだな」——そんな言葉は凌の口からは出ない。感情を言語化するのがこの世で最も苦手な人間が、この扉の前で急にできるようになるわけがなかった。


 けれど——通り過ぎ方が、前とは違った。


 歩幅が半歩分だけ遅くなった。引き戸の前で、春の陽が廊下の板に届く一拍の間だけ足が止まって、それから歩き出した。


 知らずに通り過ぎた日とは違う。知って通り過ぎた。扉の向こうに、自分を案じる人がいることを。


---


 翌日の放課後だった。


 帰り道の石畳を朔は一人で歩いていた。凌は鍛錬場に残り、蓮は苗圃の当番だった。春の陽は傾き始めていたが、まだ空には充分な光があった。通りの低い塀の上を猫が一匹歩いて、朔と目が合って跳び降りた。


 「朔」


 声がした。


 善次郎だった。


 朔は足を止めた。善次郎が後ろから歩いてきていた。帰り道が途中まで同じなのは知っている。しかし善次郎が自分から声をかけてくるのは——善次郎が自分の名を呼ぶのは、いつだって何か意味があった。


 朔は振り返った。善次郎が数歩後ろに立っていた。肩に薙刀を背負い、日暮れ前の光を背中に浴びている。大きな体が影を引いていた。影の輪郭が石畳の上ではっきりしていた。


 善次郎が口を開いた。


 開いて、閉じた。


 朔は待った。


 春の風が通りを抜けていった。塀の向こうで誰かの家の引き戸が閉まる音がした。遠くで子供の声がした。善次郎はそれらの音が全部通り過ぎるのを待ってから、もう一度口を開いた。


 「……俺は壁の中にいるのが怖くなった」


 善次郎の声が空気を震わせた。


 朔の足が石畳の上で釘を刺されたように止まった。善次郎の口から「怖い」という言葉が出た。あの防風林の夜に「根まで枯れるのか」と震えたときでさえ、善次郎は「怖い」とは言わなかった。善次郎は言葉を選ばない代わりに、言わない言葉を持っている人間だった。その善次郎が——「怖い」と言った。


 「善次郎?」


 朔の声が掠れた。


 善次郎は朔の目を見ていた。深い墨色の目に、夕暮れ前の光が一筋差している。善次郎の目は感情を映さない——いつもそうだった。静かな水面のような目。しかし今日の善次郎の目の奥に、水面の下で何かが動いているのが見えた。


 「お前たちが帰ってくる門の前に、俺がいなかったら——」


 善次郎が一つ息を吸った。喉を通る空気が音を立てた。


 「退けと、言える奴がいない」


 朔は黙った。


 善次郎の言葉を聞いている。善次郎の「退くぞ」は班の命綱だ。凌が前に出すぎたとき、善次郎が体を張って壁を立てる。その壁の中に全員が収まる。——鎮護寮の壁ならば里を守れる。しかしその壁の中に朔たちはいない。朔と凌と蓮が壁の外に出て、善次郎の壁だけが里の内側に立っている。


 善次郎が——壁としての在り方を組み替えようとしている。


 里を守る壁から、仲間の前に立つ壁へ。


 朔は何か言おうとした。言葉が浮かんだ。しかし口の前で止めた。


 善次郎がここに来たのは、自分の足だった。朔が呼んだのではない。凌が焚きつけたのでもない。善次郎が一人で広場に立って、一人で恐怖を見て、一人で歩いてきた。朔がする仕事は何もなかった。ただ——承認するだけだった。


 父が巡回路で足を止めなかったように。


 朔は言葉を足さなかった。


 「……善次郎」


 名前を呼んだ。それだけだった。善次郎は朔の声を聞いて、かすかに肩の力を抜いた。大きな背中がほんの少しだけ縮んで——それは善次郎が安堵したときの仕草だった。善次郎の安堵は体の大きさに似合わず小さい。肩が一寸下がるだけ。しかし朔はそれを知っていた。


 二人は歩き出した。


 いつもなら四叉路で別れる。善次郎が南西に折れ、朔が南東に折れる。しかし今日は善次郎が南東に歩き出し、朔はそれについて歩いた。特に理由はなかった。もう少し並んで歩くだけだった。


 春の通りは静かだった。日が傾いて、屋根瓦の端だけに光が残っている。塀の隙間から覗く庭木に若い緑が芽吹いていた。善次郎の大きな影と朔の細い影が並んで石畳の上を伸びている。善次郎の歩幅は広い。朔はそれに合わせなかった。善次郎も朔に合わせなかった。歩幅の違うまま、同じ方角に歩いていた。


 やがて善次郎が足を止めた。ここが善次郎の家の方角に折れる道だった。善次郎が朔の方に体を向けた。


 「……また明日な」


 声は低く、短かった。いつもの善次郎の声だった。しかしその一言の重みが違った。善次郎があの防風林の帰り道で初めて言えるようになった「また明日」——あのときは日常の到達だった。善次郎と朔と凌と蓮が同じ日常に立てることの証だった。


 今日の「また明日」は、その先にある。


 明日も同じ門をくぐる。同じ大楠の下に集まる。同じ空の下で鍛錬をする。——そしてやがて、同じ壁の外に出る。「また明日」は会える保証ではなくなる。壁の外に出れば、善次郎の父が毎回やってきたように——帰ってこない可能性を含む挨拶になる。それを知った上で、善次郎は言っている。


 朔は頷いた。


 「また明日」


 善次郎が踵を返した。大きな背中が夕暮れ前の通りを歩いていく。薙刀を背負った影が長く伸びて、石畳の目に沿って折れていった。


 朔はその背中を見送った。善次郎が壁を組み替えたのだ。里を守る壁から、仲間の前に立つ壁に。善次郎は善次郎のやり方でそれを見つけた——朔が分析で答えを出せなかったように、善次郎も合理では動けなかった。恐怖が合理を上回るまで、善次郎の足は動かなかった。


 風が通りを抜けた。大楠の方角から若葉の匂いが届いた。


 四人が外采寮に志望を出す。全員が同じ道を選んだ。——いや、同じ道ではない。四人がそれぞれの理由で、それぞれの覚悟で、たまたま同じ方角を向いた。凌は最初からそこにしかいなかった。蓮は守りたい命のそばにいるために。善次郎は壁の中にいる恐怖から。朔は——篝に送り出されて。


 それでいい、と朔は思った。


 朔は歩き出した。


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