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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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88話:篝の知らない景色

 錫杖の環が、一度だけ空を打った。


 礎場の片隅で、朔は展開しかけた結界を途中で畳んだ。法力の線は正確に指先まで通っていた。手順も速度も間違いない。けれど——結界を張り終える前に手が止まった。完成させることが、怖いのではない。結界を完成させたあとの自分に向き合うのが、今は重い。


 教導寮の鍛錬場には午後の光が差していた。石畳の目地に春の草が伸び、若い影が錫杖の柄に映っている。周りには同期の気配がまばらにあった。三番班が武術場の向こうで声を上げている。蓮が浄身院から戻って正門をくぐるのが見えた。


 凌が朝の辻で並んだとき、一度だけ朔の顔を見た。歩幅はもう朔に合わせようとしなかった。外采寮の巡哨で鍛えられた足が石畳をしっかり踏み、その一歩一歩に迷いがない。凌は何も聞かなかった。問うまでもなく分かっている——朔がまだ何も決めていないことを。朔の横顔を見て、鼻で短く息を抜いて前を向いた。それだけだった。


 午前の鍛錬中、朔の集中が一度揺れた。結界術の反復展開——日課のように繰り返してきた基本動作の途中で、法力の線が微かにぶれた。環が不自然な間隔で鳴り、結界面に薄い歪みが走った。


 善次郎が朔を見ていた。


 礎場の端で薙刀の柄を立て、壁のような体躯を揺るがさずに立つ善次郎の視線が、朔の手元に静かに向いていた。


 「朔」


 低い声だった。一語。善次郎がその量の言葉で朔を呼ぶときは、大丈夫かと聞いているのだ。朔は善次郎のその一語の重みを知っている。善次郎の父が「大丈夫だ」と言い続けた人だということも。善次郎がその言葉を信じない人間だということも。


 「……大丈夫」


 朔は答えた。


 善次郎は黙った。信じていない。信じていないが、踏み込まない。かつて朔が善次郎の「理由」を聞かなかったように——今は善次郎が朔の「理由」を聞かない側にいた。聞かないのは無関心ではなく、朔が自分で掴むべきものがあると知っているからだった。


 善次郎の視線が外れた。柄を握り直して、何事もなかったように鍛錬に戻っていく。大きな背中が午後の光のなかで揺るがない。


 朔は錫杖を握り直した。環が微かに鳴り、結界を展開した。今度は歪みなく広がった。けれど——胸の奥では、要の声がまだ回っていた。


 お前は答えを持っているくせに、それを出すのが怖いだけだ。


 問いは「どの道か」ではなく「なぜ決められないのか」になった。そしてその答えが向いている方角を、朔はもう知っていた。


---


 放課後の帰り道は一人だった。凌とは教導寮の門で別れ、善次郎は鍛錬場に残った。蓮は浄身院の帰りに篝の部屋に寄ると言っていた。通りの石畳を歩くあいだ、春の夕暮れが屋根瓦を橙に照らし、遠くの大楠が暮れかかる空を背景に枝を伸ばしていた。


 土御門家の門が見えたとき、足が重くなった。


 篝の部屋の窓が見える。障子が半分だけ開いていた。奥から篝の声が漏れていた——ぶつぶつと何か読み上げている。独り言。薬典庫から借りてきた古文献の写しを読みながら、分からない箇所を声に出して確かめる癖がある。浄身院で篝が見つけた文献——篝が浄身院の古文献を読み解き始めてから続く、日常の音だった。


 普段なら、その声を聞きながら通り過ぎる。自室に戻り、錫杖を立てかけ、帳面を開く。いつもの夕暮れの手順。


 けれど今日、朔は篝の部屋の前を通り過ぎられなかった。


 足が止まった。


 障子の向こうから聞こえる篝の声。穏やかで、少し高くて、ところどころ引っかかりながら古い言い回しと格闘している声。いつもの篝だった。何も変わらない日常の篝だった。


 ——篝は知っている。篝はいつも知っている。


 あの夜、篝の部屋の前で寝息を聞きながら朔が感じたことが、胸の中でまた動いた。しかし今日は別の輪郭を帯びていた。


 篝が知っているなら——篝も何かを抱えているはずだ。


 その視点が、朔の中に初めて落ちた。


 朔はこれまでずっと「篝を守る側」にいた。守篝を作り、呼吸結界を父に還し、篝が穏やかに暮らせるように——すべてが篝に向かう矢印だった。しかし要の言葉を篝の側から見直すと——「お前がここにいる理由にはならない」と言い切った兄の声の裏に、もう一つの意味があった。


 朔がここに留まることは、篝の足枷にもなっている。


 篝自身がそれを感じていないはずがなかった。あの静かな目で、あの澄んだ瞳で、篝は兄の迷いを見ている。兄がどこにも踏み出せないでいることを知っていて——自分がその原因であることも、知っている。


 朔は障子の前に立ったまま、拳を膝の横で握った。


---


 その夜。


 朔は篝の部屋にいた。


 いつもの夜だった。篝は褥の上に座り、膝の上に古文献の写しを広げている。灯心の明かりが橙色に揺れて、篝の漆黒の髪の端を薄く照らしていた。守篝が胸元で微かに光り、その光が障子越しの結界の脈動と静かに呼応している。


 「ねえ、さくにぃ。今日の外はどんなだった?」


 篝が顔を上げた。いつもの問いかけ——朔が小さい頃から変わらない、篝の世界の窓を開ける言葉だった。


 「……うん。桜がもう少しで咲きそうだった」


 朔は答えた。嘘ではなかった。ただ、声が遅かった。いつもならすぐに返す言葉が、一呼吸分だけ遅れた。


 篝はその遅れを見逃さなかった。一瞬、朔の目を見て——それから何も言わずに文献に視線を戻した。頁をめくる指先が、止まった。めくったふりをして、同じ頁に留まっていた。


 沈黙が落ちた。


 灯心の火が揺れ、壁に二人の影が大きく伸びた。障子の向こうで結界の脈動が明滅している。篝が見つけた脈動を朔が設計に落とし、父が受け止めた結界。篝の部屋はその脈動が最も穏やかに感じられる場所だった。


 篝は待っていた。朔にはそれが分かった。篝が何かを言おうとする気配が——微かに唇が動いて、けれど閉じる。待っている。朔が自分から言うのを待っている。


 篝の「知ってるよ」は来なかった。篝は先にそれを言わなかった。


 沈黙が長くなった。結界の脈動が二つ、三つ、通り過ぎた。


 朔は——苦笑した。


 「篝は……知ってるでしょ」


 篝の手が止まった。文献の頁の上で指が静止した。


 朔の声から苦笑が消えるまでに、少しかかった。


 「三つの道、どれを選んでもいい。全部正しいって分かってる」


 篝は文献を膝から下ろした。


 「……でも、決められない。理屈では紐解けないものが残ってる」


 声が低くなった。朔は自分の手を見ていた。柄を握りすぎて、指の関節が白くなっている——いや、錫杖はここにない。手ぶらの掌が、膝の上で微かに震えていた。


 朔が篝の目を見た。


 「……篝を、置いていくのが怖い」


 苦笑はもう消えていた。声が裸のまま、灯心の明かりのなかに落ちた。


 篝の瞳が揺れた。漆黒の目に映った灯心の火が、ゆらりと歪んだ。


 これまで朔は篝に進路の葛藤を一度も語らなかった。篝の前ではいつも穏やかで、いつも答えを持っている兄でいた。それが——崩れたのではなく、朔が自分の手で衣を脱いだ。


 障子の向こうで結界の脈動が一呼吸分、長く明滅した。


 篝は沈黙していた。灯心の光が頬を照らし、薄い唇が微かに開いて——閉じた。


 それから。


 篝の声が、震えた。


 「……あたしも怖いよ」


 小さな声だった。「知ってるよ」でも「大丈夫だよ」でもない——篝がいつも朔に見せていた、明るく健気な少女の声ではなかった。古文献を読み解く知的な篝の声でもなかった。もっと奥にあるもの。篝の三つの層の、いちばん深い場所から出てきたもの。


 朔がいなくなることへの恐怖。そして——自分が朔の足枷になっていることへの恐怖。その二つが重なった、たった一言。


 灯心の火がまた揺れた。篝の影が壁の上で微かに震えた。


 沈黙。


 結界の脈動が一つ、通り過ぎた。


 篝が、顔を上げた。


 「でも——篝はここで待ってる」


 声が変わった。震えが残っていた。けれどその下に、震えとは違うものが通っていた。芯だった。篝が浄身院で薬典庫の深層から古文献を引き上げたときの——あの、篝にしかできないことを見つけたときの目。


 「だからさくにぃは——篝の知らない景色を、見てきて」


 朔は動けなかった。


 篝の言葉が空気の中に留まっていた。犠牲の匂いがしなかった。諦めの色がなかった。篝はここで「待つ」と言った。しかしそれは何もしないで待つということではなかった。浄身院の古文献がある。薬典庫がある。脈動の体感知見がある。篝にはここでやるべきことがある。篝はそのことを、もう知っていた。


 朔の手が動いた。篝の手に触れた。小さな手だった。指が細く、血色が薄い。書物をめくりすぎて指先の皮が硬くなっている。


 篝が朔の手を握り返した。


 二人は並んで座っていた。朔が篝の胸に顔を埋めることも、篝が朔にもたれかかって泣くこともなかった。どちらかが崩れるのではなく——並んでいた。肩が触れる距離で、手を繋いで、障子越しの結界の脈動を見ていた。


 結界が吸い、吐いた。篝の守篝が同じ周期で脈打った。篝の脈動が結界の中にある。朔がどこに行っても——ここで息を続ける。離れても。


 篝が朔の肩にもたれかかった。


 目は閉じなかった。開いたまま、障子越しの光を見ていた。以前も篝は朔のそばで眠ったことがある。あのときは目を閉じて、安心して眠りに落ちた。今夜は違う。起きている。目を開けて、兄と同じものを見ている。


 二人の間の沈黙は——もう嘘ではなかった。


---


 翌朝。


 朔が篝の部屋に水を持っていくと、篝はもう目を開けていた。


 褥の中から朔を見上げている。漆黒の目に朝の光が入って、灯心とは違う白い光が瞳の底に映っていた。


 「……さくにぃ、おはよう」


 寝ているふりを、しなかった。


 篝の朝にはいつも小さな儀式がある。朔が水を持ってくる足音を聞いて目を閉じ、枕元に水が置かれてから「もう朝?」とわざと寝ぼけた声を出す。その芝居を朔は知っていたし、篝も朔が知っていることを知っていた。互いの嘘。互いの優しさ。


 今朝、篝はそれをしなかった。


 目を開けたまま、朔を見ていた。朔が水を置く前に——朔の顔を見ていた。朔の目の中に何があるのかを確かめるように。


 朔は水を枕元に置いた。篝が上体を起こし、水を受け取った。一口飲んで、朔を見上げた。


 庭の向こうで敷地結界が朝日に透けていた。琥珀色の脈動が、白い朝の光に溶けて薄くなっている。


 朔はまだ「外采寮」とは言わなかった。口にするのは、もう少し先のことだ。けれど篝は分かっていた。昨夜の対話で鍵が外れたことを。分析の堂々巡りが止まったことを。朔の目から——ここ半年、ずっとあった停滞の影が、消えていることを。


 篝が笑った。


 小さく。ほんの少しだけ唇の端を上げて。昨夜の「怖いよ」を含んだまま——それでも笑った。恐怖を抱えたまま笑える強さを、篝はもう持っていた。


 朔は草履の紐を結んだ。門をくぐるとき、一度だけ振り返った。縁側の柱のそばに篝が立っていた。守篝が朝の光のなかで静かに脈打っている。


 朔は歩き出した。


 通学路の石畳に朝露が降りていた。春の空気が肺に冷たく入り、吐く息が白く細く伸びて溶けた。辻の角に凌の影が見え始めている。もうすぐ合流する。いつもの朝が始まる。


 けれど朔の足取りは、昨日までと違っていた。歩幅が広がっていた。一歩が深く、石畳を踏む音がはっきりしていた。凌の歩幅に寄せたわけではない。朔の足が、自分の歩幅を見つけた——ただ、それだけのことだった。


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