86話:鷹の知らない空
初冬の朝は透き通っていた。
辻の角に立つと、息が白く細く伸びて、まだ薄暗い空に溶けた。草履が石畳を踏む音が妙にはっきり聞こえる。風がないのだ。里全体が薄い硝子の中に閉じ込められたように、音も空気も明瞭で——その静けさが、朔にはどこか懐かしかった。
九週間。鎮護寮の結界の際を歩き、内工座の火と鉄の匂いを知り、外采寮の灰色の空の下で結界を張った。その全てが終わって、また朝の辻に立っている。
足音が聞こえた。凌だった。
朔を一瞥し、何も言わずに並んだ。いつもの通学路。いつもの歩幅。ただ、凌の足音の硬さに気づいた。外采寮の巡哨から戻った足——石畳を踏む一歩が、以前よりわずかに深い。灰の野の柔らかく崩れる地面を長く歩いた者の癖が残っている。朔自身の足にも、たぶん同じものがある。
「寒くなったな」
凌が言った。白い息を吐きながら。
「うん」
それだけだった。九週間ぶりに通学路を並んで歩くのに、何か特別なことを言う必要はなかった。辻で合流し、黙って歩く。それがこの五年間の朔と凌の形で、九週間離れていてもその形は変わらなかった。変わったのは息が白くなったことくらいだった。
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教導寮の門が見えたとき、善次郎が門柱にもたれるようにして立っていた。
朔と凌の姿を認めると、善次郎は体を起こした。大きな背が門の影から出て朝日に照らされる。法衣の袖口に木の葉がついていた——鎮護寮の見習いで覚えた朝の巡回を、教導寮に戻ってからも続けているのかもしれない。
「……遅い」
善次郎の声は低く短かった。目は朔と凌の顔を順に見て、それから正面に戻った。叱っているのではない。いることを確かめただけだった。
「おかえり!——って言っていいのかな」
蓮が大楠の方角から駆けてきた。黒髪が走る勢いで揺れ、頬が冬の空気で薄く色づいている。法衣の袖を軽く振って朔と凌の前に止まると、息を弾ませたまま善次郎に「ほらね、来たでしょ」と言った。
善次郎が小さく鼻を鳴らした。待っていたことを認めたのか否定したのか、どちらとも取れる音だった。
凌が蓮の頭越しに善次郎を見て、善次郎が半歩だけ体をずらして道を開けた。四人が門をくぐる。
九週間。善次郎は鎮護寮で霊木に手を添え、内工座で槌を手にして、壁を守ることが自分の場所だと知った。蓮は浄身院で涙を流し、外采寮で穢れを払い、癒し手の手が届く範囲と限界を知った。凌は外采寮で灰の野の泥を法衣に染み込ませた。朔は三つの道を全て歩いた。——それぞれが別の場所で別の景色を見て、同じ門をくぐって戻ってきた。以前と同じ場所にいるのに、四人の立っている地面の深さが違う。
朔にはそれが分かった。分かっていて、何も言わなかった。蓮が「今日の午後、焔壇の鍛錬があるんだって」と嬉しそうに言い、凌が「久しぶりだな」と応じ、善次郎が黙って頷いた。
日常が戻っていた。
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午後の鍛錬が終わり、朔が礎場の端で練錫杖の環を磨いていると、隣の武術場から声が聞こえた。
「湊っ、声! 連携の声が足りない!」
千早だった。三番班の班長——八代千早の叱咤は武術場の壁を越えて響く。朔が顔を上げなくても、その声の主は分かる。教導寮で最も声が大きい同期の一人。
「出してるって! 出してるだろ今!」
梶が反論している。声量だけなら千早に負けていない。ただ、千早の声には芯があり、梶の声は風船のように膨らんでいるだけだった。朔は口元を微かに緩めた。
武術場の壁の向こうで木剣が打ち合う音がしていた。三番班の連携訓練だ。朔は錫杖を置いて立ち上がり、壁際まで歩いた。低い土塀の縁に、一羽の鷹が止まっていた。
鳴弦。灰銀色の羽が冬の光を受けて鈍く光っている。胸元の金の斑紋が風に逆立つたびに見え隠れした。武術場の上空を旋回していたのだろう。今は塀の縁に降りて、下で訓練する三番班を見下ろしていた。
塀から身を乗り出すまでもなく、武術場の中が見えた。千早が前衛に立ち、いつきが少し下がった位置で地面に手をつけている。感知型の索敵——いつきの絡脈術は地面を媒介にして振動を拾う。脇に置いた帳面に何か書き込む仕草が見えた。鳴弦の偵察範囲との照合だろう。あの林間模擬戦で朔に情報過多に追い込まれたことが、いつきの中にまだ残っている。
いつきの目が朔の方を向いた。穏やかな目が一瞬だけ止まり、軽く顎を引いた。朔も顎で応えた。無言の挨拶だった。
そして——郁が三番班の後方にいた。いつものように少し肩を丸めて、班の動きを追っている。声は出していない。千早が「郁、情報!」と叫んでも、郁の返答は朔の場所からは聞こえなかった。ただ鳴弦が壁の上から一声細く鳴き、千早がその鳴き声で何かを判断して右に動いた。千早は鳴弦の声を読めるようになっている——それは郁の声を諦めたのではなく、郁が伝える手段を班全体が受け入れたということだった。
千早が「はい、ここまで!」と号令をかけた。
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鍛錬を終えた三番班が武術場から出てきたのと、朔が礎場を出たのが同じ頃だった。自然と足が大楠の方へ向いた。
千早が梶の襟を直しながら歩いている。梶が「自分でやるって」と不満そうに体を捩っている。いつきがその後ろを穏やかな足取りで歩き、郁がさらにその後ろを——鳴弦を左肩に乗せて——静かについていた。
大楠の根元に着くと、一番班の残りもいた。凌が幹にもたれて目を閉じ、善次郎が根の上に腰を下ろし、蓮が善次郎の隣で水筒の蓋を回していた。二つの班が大楠の下で自然に混じる。あの林間模擬戦のあとから——戦って、終わって、講評を受けて——二つの班の距離は近くなっていた。戦友というほど大げさなものではない。ただ同じ鍛錬場の空気を吸い、同じ訓導の下で汗をかいた同期として、肩の力を抜ける距離が縮んでいた。
朔が大楠の根に腰を下ろすと、不意に肩に重さが降りてきた。
鳥の爪が法衣の肩布を掴む感触。翼がたたまれる微かな風。灰銀色の羽が朔の視界の端で揺れた。
鳴弦だった。
琥珀色の小さな目が朔を見上げている。翼を畳み、朔の肩に落ち着いた姿は——止まり木を見つけた鷹のそれだった。爪の力は強すぎず、弱すぎず、ちょうど肩布の厚みに合わせた加減で。少しずつ近づいてきていた鳴弦が、肩に止まったのは——初めてだった。
朔は動かなかった。鳴弦の足元の温もりが肩布を通して伝わってくる。小さな体の、意外な重さ。この鷹は郁の式だ。郁の法力に引き寄せられ、郁の寂しさに応えて契約した鷹。その鳴弦が朔の肩にいる。
郁の方を見た。
以前の郁なら、慌てて走り寄って「ごめんなさい、鳴弦が勝手に」と小さな声で謝ったはずだった。鳴弦が他人の近くに行くたびに、申し訳なさそうに引き戻すのが郁の常だった。
しかし今日の郁は——走ってこなかった。
大楠の根に座ったまま、朔の肩に止まった鳴弦を見ていた。琥珀色の目が少し細まった。唇の端が微かに持ち上がった。
笑っていた。
穏やかに、静かに、まるでそれが当たり前のことであるかのように。朔の肩に鳴弦がいることを——郁は許していた。朔のことを信じているから、鳴弦が安らげる場所だと知っているから。その微笑みには、自信のない郁がいつも纏っている遠慮の色がなかった。
「大きくなったね、鳴弦」
朔は鳴弦の翼の先端に目をやった。灰銀色の風切羽が冬の光に白く縁取られている。入学のときに枝の上で見た鳴弦は、もっと小さかった。
「……うん。最近、飛ぶ距離も伸びた」
郁の声は小さかったが、途切れなかった。
「前は鍛錬場の上を一周するのが精いっぱいだったのに、この頃は里の外縁まで行って帰ってくるんだ。僕が見ている景色と、鳴弦が空から見ている景色を重ねると……結構遠くまで分かる」
郁がそこまで続けて言ったことに、朔は少し驚いた。普段の郁は二言三言で尻すぼみになる。けれど鳴弦のことを語るときだけ、声が途切れない。鳴弦のことは、郁にとって唯一自分の言葉で語れるものなのだ。
「鳴弦は……郁の外の目なんだな」
朔の言葉に、郁が小さく首を傾げた。
「外の目……」
「僕の燭明術は、自分の目で見る力だ。自分から光を投げて、返ってきたものを読む。でも鳴弦は違う。郁が信じて預けた目だ。自分で見にいくんじゃなく、鳴弦に見てもらう。——その方が、僕の目よりずっと速い」
あの林間模擬戦を思い出していた。鳴弦の偵察を出し抜くために幻姿と囮を重ねなければならなかった。正面からは勝てなかった。朔の燭明術が「深い」のだとすれば、郁と鳴弦の目は「速い」。日下部訓導がそう言い切った通りだった。
鳴弦が朔の肩で首を傾げた。「キィ」と細い声が鳴った。朔の耳に近い。声の振動が鎖骨に伝わるほど近い距離で鳴弦は鳴いていた。
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梶と千早が先に帰り、いつきが「お先に」と軽く手を挙げて去り、凌と善次郎と蓮が大楠を離れた。蓮が「ゆっくりね」と手を振ったが、何に対して言ったのかは分からなかった。
大楠の下に朔と郁が残った。
冬の日は短い。西の空がもう橙に染まり始めていた。大楠の枝の先から光が差し込んで、根元に細長い影を散らしている。風もなく、静かだった。鳴弦はまだ朔の肩にいた。
「……朔くんは、三つ全部見たんだよね」
郁が言った。膝を抱えて座ったまま、朔の方を見ずに。
「鎮護寮も、内工座も、外采寮も。……すごいな」
嘘のない賞賛だった。郁はいつもそうだ——朔や凌や善次郎や蓮の凄さを見るときに、羨むのではなく、ただ純粋に胸を打たれている。その正直さが、郁という人間の一番深いところにあるものだった。
「三つ歩いたけど、まだ分からないこともある」
朔は答えた。自分の進路がまだ決まっていないことを、言い訳のように言ったのではない。ただ事実だった。鎮護寮では父の消耗を知り、内工座では手が収まらないことを知り、外采寮では死ぬかもしれない道を見た。材料は全て揃った。それでも——全てが揃った分だけ、かえって答えが遠くなっている。
「郁は、どこに行きたい?」
何気なく聞いた。いつか篝に「さくにぃは、どこに行きたいの?」と聞かれて答えられなかった、あの問い。朔にとっては日常の延長にある問いかけだった。同期が全員、二年後には進路を決めなければならない。郁にもその時が来る。
郁が少し黙った。膝を抱えた手の指が、結縁紐に触れていた。手首に巻かれた薄鼠と琥珀の紐。三番班の証。
「……僕は」
声が震えていた。けれど、止まらなかった。
「僕は……鳴弦と一緒に、もっと広い場所を見てみたい」
顔を上げた。夕日が横から差して、郁のくすんだ茶色の髪を磨いたように光らせていた。琥珀色の目が、朔を真っ直ぐに見ていた。
「朔くんの……隣で。朔くんや凌くんや、みんなの横で……里のために生きたいな」
声は小さかった。いつもの郁の声だった。けれど、「生きたい」という言葉が落ちた場所は深かった。仲間の隣にいたい。里のために何かをしたい。それを——郁が自分の口で言っている。
「それに……」
郁が視線を落とし、手首の結縁紐を指先でなぞった。
「僕にも……守れるものがあるかもしれないって、最近思うんだ」
鳴弦が朔の肩で翼を一度広げた。翼端が朔の頬をかすめて空を切った。そして高く一声——「キィッ」。細く澄んだ声が大楠の枝を抜けて、冬の空に吸い込まれていった。
郁が鳴弦を見上げて、笑った。
屈託のない笑みだった。朔は郁のこんな顔を見たことがなかった。普段の郁は笑っても口元だけで、目はどこかに不安の影を残している。しかし今の——鳴弦の声に応えて空を見上げた郁の顔は、影がなかった。夕日の光を全身に受けて、自分が言った言葉の重さに怯えるのでもなく、その言葉を言えたことを——ただ嬉しそうにしていた。
「……うん。郁なら、どこに行ってもやっていける」
朔の声は穏やかだった。嘘ではなかった。あの模擬戦で鳴弦の偵察を正面から破れなかったこと。郁の目の速さが朔の目の深さと質的に違うこと。「鳴弦を飛ばしてるだけ」と卑下していた郁が、今は「守れるものがあるかもしれない」と言えている。朔はその変化を嬉しいと思った。
ただ——「かもしれない」だった。「守れるものがある」とは言い切れない。郁の中にまだ残っている、「ここにいていいのか」という問いの余韻。完全には消えていない。けれど朔の前でだけ、郁は自分のことを語れるようになっている。その距離のことを、朔は大切だと思った。
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大楠の下を離れ、帰り道を歩いた。
教導寮の門を出て、里の通りを南東に折れる。朔と郁の帰路は、この通りの先で分かれる。内工座の方角に折れる郁と、土御門の屋敷に向かう朔。
冬の夕暮れは速い。空が橙から紫に変わり始めていた。遠くの山裾が影に沈み、里の屋根瓦の端にだけ、最後の光が残っている。二人の足音が石畳に重なっていた。鳴弦は郁の左肩に戻っていた。朔の肩から離れ、郁の元に——いつもの場所に降りた。朔はその瞬間を見なかった。気がついたら、鳴弦は郁の肩にいた。郁の左肩を少し引いた、あの無意識の姿勢の中に、鳴弦は収まっていた。
分かれ道に差しかかった。
「……今日は、ありがとう」
郁が立ち止まって言った。朔は首を傾げた。
「何が?」
「聞いてくれて。僕の……こんな話」
郁の声は恥ずかしそうに尻すぼみになった。いつもの郁だった。けれど目は下を向いていなかった。朔の方を見ていた。
「……大事な話だったよ」
朔は自分の声が思ったより柔らかくなっていることに気づいた。郁が未来を語ったことが——その事実そのものが、朔には大事だった。うまく言葉にはならない。
「……うん」
郁が小さく頷いた。それから一歩下がり、朔に背を向けて歩き始めた。左肩の鳴弦が小さく首を動かした。最後にもう一度朔の方を見たのか、それとも前を向いたのか——すでに遠くて分からなかった。
郁の背中が夕暮れの中に小さくなっていく。くすんだ茶色の髪と、左肩の灰銀色の鷹。小柄な背中と小さな翼が、紫に沈む通りの先に溶けていく。
朔はしばらくそこに立っていた。
九週間、三つの道を歩いた。帰ってきて、呼吸結界を父に還した。しかしまだ答えは出ていない。三つの道のどれを選ぶのか。分析の材料は全て揃った。残っているのは材料ではなかった。篝を——置いていく。それが、分析の外にあるものとして胸の底に沈んでいる。
ただ——郁の「僕にも」という声が、妙に胸の奥に残っていた。なぜかは分からなかった。郁が未来を語ったこと自体が嬉しかった。それは間違いない。けれどそれだけではない何かが、朔の中で微かに鳴っている。明確な音にはならない。形にもならない。ただ——残っている。
顔を上げた。
初冬の空の下、里を包む結界が微かに光っていた。琥珀色の光が、吸い——吐き。吸い——吐き。穢れの脈動に同期して、ゆっくりと明滅を繰り返している。あの呼吸結界の脈動だった。篝が穢れの波を語り、朔が感応溝を刻み、父が受け止めた結界。今この瞬間も、篝の脈動が結界の中にある。遠く離れた通りの上からでも、あの呼吸が見える。
朔は歩き出した。篝が待つ家に向かって。
背後で初冬の空が暮れていく。郁の背中はもう見えなかった。




