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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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73話:揺れない根

 蓮の涙が、まだ消えなかった。


 あの日——処置棟の廊下で蓮が流した涙。声を上げずに肩を震わせた蓮。「治せないのが……こわい」と、短い声でこぼした蓮。あの蓮が、泣いた。班の太陽が、泣いた。


 蓮はいつもの蓮に戻っていた。翌日から声は高く、善次郎の水筒に文句を言い、凌を叱り、笑顔を咲かせている。処置棟での共同施術は続いていた。蓮は朔と組んで処置をする間、癒し手の顔で精密に仕事をこなし、処置が終われば「おつかれ、朔くん」と軽く笑った。何も変わらなかったように見える。


 だが朔は知っている。あの笑顔の一つ下の層を。蓮が一人で抱えていた恐怖を。そして——あれほど完璧な笑みの鎧でさえ、嵌まらなくなる瞬間があったことを。


 蓮でさえそうだった。


 その事実が、朔の視線を変えた。


 教導寮の中庭で笑い合う班の仲間たちを、朔は以前と同じようには見られなくなっていた。蓮の笑顔の下に涙があった。ならば——あの笑顔の裏に何かがあるのは、蓮だけなのだろうか。


 凌を見た。凌は分かりやすかった。苛立てば舌を打ち、嬉しければ口元が歪み、悔しければ拳を握る。凌の感情は表に出る。嵐のように荒々しいが、嵐は通り過ぎる。隠しているのではない——凌にとって感情とは、身体から外へ放り出すものだった。


 善次郎を見た。


 善次郎は——何も見えなかった。


 大楠の根に腰を下ろし、太い腕を膝の上に置いて、穏やかな目で中庭を見ている。その横顔に影はない。だが影がないことと、光しかないこととは違う。蓮の笑顔も完璧だった。完璧だったからこそ——その下に何があるか、朔は長い間気づけなかった。


 善次郎は何を抱えているのだろう。


 朔はそれを、一度も考えたことがなかった。善次郎がそこにいるだけで安心していた。善次郎の沈黙を「何もない」と受け取っていた。蓮がそうだったように——善次郎にも、見えない場所があるのではないか。


 数日が過ぎても、その問いは消えなかった。


---


 善次郎の足音には癖がある。


 帰り道の武術場を通りかかるとき、善次郎は必ず棒立てに手を触れてから歩き出す。右手の指先だけ。掌全体ではなく、指の腹三本だけが武器掛けの木目に一瞬だけ止まり、それから何事もなかったかのように歩き出す。朔がその所作に気づいたのは一年次の頃で、以来ずっと変わらない。


 五年次の善次郎は入学の頃よりも二回りは大きくなっていた。肩幅が広がり、胸板が厚くなり、棒立てに触れる指先さえ節々が太い。教導寮の中で善次郎が立っている場所には、誰も不安を感じない。善次郎は何も言わない。ただそこにいるだけで、壁のように空間を区切ってしまう。


 朔はその日、善次郎の所作をいつもより注意深く見ていた。棒立てに触れる指先。何千回と繰り返してきた動き。その指先に——何かが宿っているのか、何も宿っていないのか。蓮の笑顔の裏を知ってしまった今、朔にはそれが分からなくなっていた。


 武術場の横を善次郎と並んで歩きながら、朔はふと訊ねた。


 「鉄心さん、いつ戻るんだ」


 善次郎の歩調は変わらなかった。


 「……さあ」


 それだけだった。善次郎の父・鉄心は北斗衆の第二班班長として長期遠征に出ている。いつ出て、いつ帰るか、善次郎は一度も朔に話したことがない。朔も詳しくは問わなかった。善次郎が話さないことには理由がある——それは蓮のように笑顔で覆い隠しているのでも、凌のように舌打ちで振り払っているのでもない。善次郎には「漏れ出すもの」がそもそもないように見えた。継ぎ目のない石のように、隙間から何かが覗くこともない。


 蓮なら——あの日、処置棟の廊下で二拍で笑顔を被り直した。あの鎧には隙間があった。朔はそこを見つけ、技術という言葉で手を伸ばすことができた。


 善次郎には——隙間がない。


 棒立てに触れた指先が白く硬い。薙刀の柄で何千回と擦り上げた指先。善次郎の日課はここから始まり、ここで終わる。鉄心が遠征に出ていようが帰っていようが、善次郎のこの所作は変わらない。


 「じゃあな」


 善次郎が分かれ道で短く言って、帰っていった。歩調は崩れない。揺れない。大きな背中が秋の道の先へ消えていく。


---


 翌日。


 教導寮の廊下で善次郎の名が呼ばれた。厳島寮長だった。


 「志場。少し時間をもらえるか」


 昼餉の前だった。善次郎が廊下の先に消え、朔と凌と蓮は中庭の大楠の下で待った。蓮が「呼び出しって珍しいね」と首を傾げ、凌が「さあな」と返した。善次郎が寮長に呼ばれること自体は初めてではないが、この時期に個別の呼び出しは珍しかった。


 四半刻ほどで善次郎が戻ってきた。


 「依頼だ」


 善次郎は言った。短い。いつも通り。


 鎮護寮からの正式な依頼だった。里の外周に広がる防風林——結界の内側外縁部に列をなす霊木の帯——が、原因不明の枯死を起こしている。防風林は結界が完全には遮断しきれない微量の穢れを霊木が吸収・分解する緩衝帯であり、枯死が進めば穢れの浸透が里の内側に及ぶ。


 善次郎に依頼が来た理由は明快だった。今期の遠征で木行適性者の多くが動員され、里に残った現役の木行適性者が不足している。鎮護寮の通常人員では霊木の精密診断ができない。教導寮で木行の適性が最も高い善次郎に白羽の矢が立った——学生が実務的な依頼を受ける初めてのことだった。


 「寮長は断っても構わないと言ったが——」


 善次郎が付け加えた。一拍も置かず、次の言葉を継いだ。


 「やると答えた」


 蓮が目を見開いた。凌が「おい、即答かよ」と言ったが、口元が笑っていた。善次郎は何も応じなかった。朔は善次郎を見ていた。善次郎の判断に迷いがないことは分かっていた。善次郎は「やるかやらないか」で迷う人間ではない。問われた瞬間に答えは出ている——善次郎の沈黙は「迷っている」のではなく「もう決めている」のだ。


 朔は口を開いた。


 「僕も同行させてもらいたい。防風林と結界の相互作用が気になる」


 結界術の適性を持つ朔にとって、結界の外縁部で穢れの緩衝機能がどう働いているかは技術的に正当な関心だった。蓮に対してそうしたように——いいや、違う。蓮に対するあの踏み込み方は蓮のためだった。善次郎に対しては——善次郎のためにどう踏み込めばいいか、朔にはまだ分からなかった。だから技術を使う。技術なら善次郎の隣に立つ理由になる。


 善次郎が朔を見た。一拍。


 「……いいだろう」


 厳島寮長にも許可を取った。翌朝、二人で防風林に向かうことが決まった。


---


 朝が冷えていた。


 秋の終わりが近い。教導寮を出て里の外縁に向かう道は、居住区を抜けると人家が減り、畑地を過ぎると木立が増えた。道幅が狭くなり、足元の土が柔らかくなった。結界の力が弱い場所に近づいている——朔の結界術の感覚が、そう告げていた。


 善次郎と朔は並んで歩いていた。善次郎の歩幅は広いが、歩調は遅い。朔が無理なく並べる速さをいつの間にか保っている。善次郎がそうしていることに、善次郎自身が気づいているかどうか——朔には分からなかった。


 木立の隙間から里の外縁が見え始めたとき、前方から人影が現れた。


 朔は最初、里の防人の巡回かと思った。だが違った。人影の歩き方を見た瞬間に、善次郎の気配が変わった。


 鉄心だった。


 外采使の防穢衣の上に土埃がこびりつき、薄汚れた布の上から骨格の線が見えた。以前より痩せている。頬のあたりの肉が落ち、眼窩の影が深い。歩調が遅かった。外采使の歩幅ではなく、長い道を歩いた者が最後の数歩だけ力を緩めたときの、消耗した足の運びだった。法力の慢性的な枯渇——大きな怪我ではない。長い年月の前線勤務が、一度の傷ではなく少しずつ身体を削っている。


 しかし鉄心は表情を変えなかった。善次郎と朔の姿に目を留め、深い墨色の目で二人を捉えた。


 「……ん」


 頷き一つ。それだけだった。鉄心の声はかすれてもいなかった。消耗した体から出ているとは思えない、低く静かな声。


 善次郎が足を止めた。


 「おかえりなさい」


 短い。いつも通り。


 鉄心が歩調を緩めず善次郎の横を過ぎた。


 「……ああ」


 親子の挨拶はそれだけで終わった。鉄心は二人の脇を通り過ぎ、里の方角へ消えていった。何事もない。父が帰ってきた。息子が迎えた。表面上は——ただそれだけのことだった。


 朔は見ていた。


 善次郎の右手。棒立てに触れるときの、あの三本の指。その指が——鉄心が横を通り過ぎる瞬間に、腰に差した薙刀の柄を強く握りしめた。力が入ったのはほんの一拍。すぐに抜けた。善次郎は歩調を変えなかった。顔も動かなかった。


 だが——朔は見逃さなかった。


 善次郎が何かを飲み込んだことだけは分かった。何を飲み込んだのかまでは分からなかった。鉄心の消耗を見て、善次郎の中で何が動いたのか。善次郎は何も漏らさない。蓮なら笑顔を作り直す——善次郎は作り直すものすらない。最初から崩れていないのだから。


 善次郎の足音が再び等間隔に戻った。


 「行くぞ」


 善次郎が言った。防風林はもう近い。


---


 防風林に着いたとき、朔は息を呑んだ。


 霊木の列が続いている。高さは三丈を超える太い幹が何十本と並び、結界の内側外縁部に沿って帯のように延びている。だがその一帯——七、八本の連なりが、明らかに死んでいた。


 葉が灰色に萎れている。枝先が下を向き、なお折れずに宙にぶら下がっているのは、木そのものがまだ形を保っているからだ。だが幹に目をやると、樹皮の内側が黒く変色していた。外から見える亀裂の奥に、炭化したような黒い筋が走っている。周囲の空気が淀んでいた。穢れの気配は微弱だったが、持続的だった——急性の侵食ではない。長い時間をかけて浸み込んだ、慢性的な穢れの蓄積。


 朔の結界術の感覚が反応した。結界の力が、ここでは薄い。格子の目が粗くなるように、遮断の密度が落ちている。結界が完全には微量の穢れを遮りきれず、長年にわたって漏れ出し続けた穢れが——この霊木に吸い取られていた。


 善次郎は枯死した霊木の前に立った。


 朔より先に動いていた。善次郎の目が幹を見ている——樹皮の色、枝の傾き、足元に散った落ち葉の朽ち方。朔が結界の格子を読むように、善次郎は木の表面を精密に読んでいた。職人の目だった。言葉にする前に手が動き、手が動く前に目が結論を出している。


 善次郎が一歩踏み出し、枯死した霊木の幹に右手を当てた。


 掌が樹皮に触れた瞬間、指先から翠色の光が滲んだ。樹相術。善次郎の法力が幹の内部に沈む——はずだった。


 光が弾かれた。


 翠色の光が幹の表面で一瞬灯り、沁み込む前に跳ね返された。善次郎の指先が幹の上で止まっている。雨上がりの森の匂いが立ち昇るはずの樹相術の気配が、ない。代わりに善次郎の指先が感じているのは——朔にも見えた——何も返ってこない沈黙だった。湿った粒子感が消えている。樹皮のきしむ低い軋み音すらない。乾いた灰の匂いだけが幹から漂った。


 木の内側は、もう死んでいた。


 善次郎の表情は変わらなかった。手を離し、隣の霊木に移り、同じように触れた。同じだった。光が弾かれ、沈黙が返る。善次郎は淡々と幹から幹へ移った。


 三本目の霊木に触れたとき、善次郎の動きが止まった。


 善次郎が幹から手を離し、片膝をついた。両手を地面に置いた。指先に法力が集まる——今度は樹相術ではなかった。絡脈術。木行の陰。指先から蜘蛛の巣のように広がる繊細な振動が、地面の下に沈んでいく。根を辿っている。


 善次郎が目を閉じた。


 長い沈黙が落ちた。防風林の風が枯れた枝を揺らし、乾いた音を立てた。善次郎は動かない。地面に手を当てたまま、呼吸が深くなり、周囲の気配に溶け込んでいくように存在が薄くなった。


 「善次郎?」


 朔が声をかけた。返事がなかった。


 「善次郎」


 もう一度。


 「……ああ。聞こえている」


 善次郎が目を開けた。深い墨色の目が、地面の下の何かを映していた。


 「根は、まだ死んでいない」


 善次郎が言った。声は低く、静かだった。枯死した幹の下で——根はまだ穢れに抗って生きている。幹は死んだ。枝も葉も死んだ。だが根だけが、土の中で穢れと戦っていた。


 善次郎は立ち上がり、次の霊木へ向かった。朔は結界術の感覚で穢れの分布を読み取り、情報を善次郎に伝えた。


 「この辺りの穢れの流れが一番強い。北東から南西に向かって——」


 善次郎が無言で頷き、朔が指した方角の霊木に手を触れた。二人の連携が自然に成り立っていた。朔が穢れの流れを見つけ、善次郎が木の状態を読む。言葉は少なかった。朔が方角を示し、善次郎が頷き、触れ、読み取る。それだけだった。


 調査を終えた善次郎が立ち上がった。


 「穢れの慢性的な蓄積だ。結界の劣化に伴う微量漏出が、霊木の処理能力を超えた。幹は枯死しているが根は生きている。再生の余地はある……ただし、時間がかかる」


 善次郎の口調は淡々としていた。いつも通りの善次郎だった。感情の色がない報告。鎮護寮に伝えるべき内容を過不足なくまとめている。


 だが朔は見逃さなかった。


 最初の霊木に触れたとき。翠色の光が弾かれた、あの瞬間。善次郎の指先が——ごく微かに震えていた。樹相術の負荷ではなかった。善次郎は何十回も樹相術を使ってきた。光が弾かれたことに身体が反応したのではない。善次郎は——木の「死」に触れたとき、指先で何かを感じた。


 善次郎の報告は終わった。善次郎は外套の土を払い、朔に「帰るぞ」と短く告げた。


---


 帰路は来た道を逆に辿った。


 木立の隙間から差す秋の終わりの陽は傾き始めていたが、まだ高い。畑地に出ると視界が開け、里の屋根が遠くに見えた。善次郎は前を歩いていた。歩調は行きと変わらない。朔が無理なく並べる速さを保っている。


 分かれ道が近づいた。善次郎の家は里の南寄り、朔の家は北西。ここで道が分かれる。


 朔はふと口を開いた。


 「鉄心さん、だいぶ疲れていたように見えた」


 善次郎の足音が途切れなかった。歩調を変えず、半歩先を歩いたまま——ほんの僅かだけ、肩が傾いた。傾いたのは一瞬で、すぐに戻った。


 「……大丈夫だ。親父はいつもああだ」


 善次郎の声は静かだった。低く、揺れがなく、完璧に制御されていた。「大丈夫だ」——善次郎はその一言を、一拍の揺らぎもなく言い切った。


 朔は知っていた。善次郎が「大丈夫」という言葉を使うのは稀だということを。善次郎は他人の「大丈夫」を信じない男だった。朔が礎場で法力を使い果たしたあとの「大丈夫です」を、善次郎は一度も信じなかった。黙って半歩後ろに立ち、倒れたら受け止める準備をしていた。善次郎にとって「大丈夫」は嘘と同義だった——父の「大丈夫」が嘘であることを、善次郎は長い年月をかけて知っていたから。


 その善次郎が——「大丈夫だ」と言った。父の言葉で。父と同じ声色で。


 善次郎は、その矛盾に気づいているのだろうか。あるいは気づいていて——それでも他に言葉がないのだろうか。


 「……明日も防風林に行く。再生の手順を考える」


 善次郎が続けた。話題を技術に戻している。善次郎の得意な場所——感情ではなく、やるべきことの領域。


 分かれ道に差しかかった。善次郎が足を止めた。


 「じゃあな」


 善次郎が去っていく。背中は大きかった。善次郎の歩幅は広いが足音は軽い。崩れない。揺れない。揺るがない背中が道の先を真っ直ぐに歩いていく。


 朔は分かれ道に立って、善次郎の背中を見送った。


 蓮の「なんでもない」に踏み込んだ。技術の言葉で、蓮の鎧の内側に入ることができた。蓮には「笑顔を作ろうとして作れない瞬間」があった——そこが入口だった。


 善次郎にはそれがない。善次郎の「大丈夫だ」は完璧だった。揺れも掠れもない。壁には亀裂がなかった。


 ——ただ。


 防風林で善次郎の指先が震えていたこと。鉄心とすれ違った瞬間に柄を握りしめたこと。それだけが、朔の中に残っていた。


 善次郎の背中が見えなくなった。秋の風が枯葉を一枚巻き上げ、分かれ道の先に落とした。


 朔は踵を返し、自分の家の方角へ歩き出した。


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