40話 : 花のない春
春の光が通学路に落ちていた。
冬の底を抜けた空気はまだ芯にひんやりしたものを残していて、日差しの温もりと交互に肌を撫でる。踏み固められた土の感触も、道の曲がり角の傾きも、二年も歩けば身体に馴染んでいた。
二年次・春の休校前の最終日。
朔は左手に巻物の束を抱えて歩いていた。去年と同じだ。ただ巻物が増えている。二年分の座学の重みが、腕にずしりと食い込んでいた。
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武術場の横を通り過ぎた。
棒立ての傍らの地面に、善次郎の素振りの溝が刻まれている。一年前よりも少しだけ深くなっていた。善次郎の踏み込みがそれだけ重くなったということだった。体術の試験で初めて攻めに転じた善次郎の掌底を、朔は思い出した。受けの動きがそのまま攻めに流れ込んだ、あの一手。
教導寮の門を出て、分かれ道の角を通り過ぎた。
朝、凌がいつも合流してくる場所だった。小路の向こうから足音が聞こえて、振り向く前に「おう」と低い声がして、凌が隣に並ぶ。それがもう二年目の当たり前になっていた。
今朝も凌はいた。いつもと同じように何も言わず並んで歩いた。ただ——凌の背中が去年よりほんの少し広かった。歩幅もわずかに大きい。朔が半歩余計に踏まなければ並べなかった日が、いつの頃からか増えている。
初穂。
凌が初穂を獲った。あの日の序列発表で、最後に残っていた凌の名前が呼ばれたとき——凌の耳だけが赤かった。拳は白くなかった。力んでいなかった。一年間の蓄積が、凌の体を造り替えたのだ。
朔はそれを事実として認識していた。認識している、はずだった。
去年と同じ景色のはずだった。善次郎の棒立ても、凌の分かれ道も。でも見え方が違っていた。
凌の肩幅が広い。善次郎の踏み込みが深い。蓮は帰り道で手を開いて振っていた。みんなが一年で変わった。朔も変わったのだろう。でも去年の朔が自然に手を伸ばしたものに、今年の朔は——
大楠の下を通りかかっていた。
足元に白い花が咲いていた。去年と同じ場所に、白い五弁の花が、根の隆起の影に寄り添うように数輪ずつ開いている。花弁は薄くて、光を透かすとかすかに青みがかって見えた。
朔はその前を通り過ぎた。
振り返らなかった。指先で茎を折ることも、巻物の束のあいだに挟むことも、しなかった。頭の中に凌の背中があった。序列発表の日の、あの少しだけ高い背中。蓮の手のひらの赤さ。善次郎の微動だにしない横顔。
花が頭に入る隙間がなかった。
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土御門家の門をくぐった。
庭先の梅はすでに散っていて、柔らかな青葉が枝のあいだに芽吹き始めている。見覚えのある春の景色だった。磨き石の上に午後の日差しが溜まっていて、草履の底からぬくもりが伝わってくる。
縁側に篝がいた。
膝の上に押し花帖を広げている。帖の厚みが、去年と明らかに違っていた。蓮が持ってきた花、篝が自分で庭から拾った葉。一年分の頁が加わって、帖は去年の倍近く膨らんでいる。どの頁にも篝の字で名前と小さな註が書き添えてあって、めくれば花弁の影と篝の文字が交互に現れるはずだった。
篝が顔を上げた。春の光が漆黒の髪を飴色に透かしている。体調の良い日だった——目に力があり、頬にほんのわずかだが血の色がある。
「おかえり、さくにぃ。今年はおみやげは?」
朔の足が止まった。
おみやげ。去年の帰り道で、朔は何も考えずに花を摘んだ。大楠の足元にしゃがみ、茎の根元を指先で折って、巻物の束のあいだに挟んで持ち帰った。篝が「じゃあ、蓮ねぇに聞こう」と言って、押し花帖に名もない花を丁寧に挟んだ。あの白い花弁は今でも帖のどこかに、薄く乾いて眠っているはずだ。
「……忘れた」
嘘だった。忘れたのではなく、花に目がいかなかった。去年は自然に手が伸びたものが、今年は視界に入っても手が動かなかった。
篝がくすくす笑った。
「嘘。何か考えごとしてたでしょ」
朔は少し驚いて篝を見た。篝は指先で帖の背表紙をとんとんと叩きながら、朔の顔をまっすぐ見ていた。朔の嘘を見抜くのは篝の得意技だった。
「……少し」
「でしょ。さくにぃ、考えごとしてるとき、歩くのがちょっと遅くなるんだよ」
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奥から瑞の声がした。
「おかえりなさい、朔」
台所口から顔を出した瑞は、いつものように布巾で手を拭きながら微笑んだ。朔が「ただいま帰りました」と答えると、瑞は篝と朔を見比べて小さく頷き、また台所に戻っていった。
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廊下から足音がした。
障子が開いて、要が下りてきた。鍛錬着に土埃が残っている。鎮護寮での修練を終えてから帰宅したのだろう。
要は朔を見て立ち止まった。
「——おう。帰ってたか」
「ただいま帰りました、兄上」
要は縁側の柱に寄りかかり、腕を組んだ。朔を見下ろす視線は、二年前より少しだけ高い位置にあった。要の背が伸びている。肩幅も広がった。鎮護寮での鍛錬が、要の体をさらに厚く仕立てたのだ。
「二年目はどうだった」
要の声はぶっきらぼうだった。けれど、聞いている。
朔は少し間を置いてから、教導寮のことを短く話した。五行修練庭のこと。礎場の結界術のこと。焔壇が暑かったこと。——篝に語るよりも、もっと短く、もっと削ぎ落として。
要は黙って聞いていた。ときどき小さく頷いた。聞きたいことは一つだったのだろう——朔がちゃんとやれているか。それだけを確かめたかったのだ。
「……そうか」
要は小さく息を吐いた。それから、組んだ腕を解いて右手を見た。指先が荒れている。鍛錬の摩耗だけではない。法力を長時間注ぎ続けると、指先の皮が薄く削がれるように乾いていく。朔は自分の手にはまだないその痕跡を、静かに見ていた。
「兄上は、鎮護寮はいかがですか」
要はふっと笑った。入学前夜に障子の前に立っていたときよりも、ほんの少しだけ力が抜けた笑い方だった。
「要石への充填がまだ身体に馴染まん。朝番のあとは腕の感覚が鈍くなる。——まあ、慣れるだろう」
愚痴ではなかった。事実を述べただけだった。要はいつもそうだった。自分の辛さを辛いとは言わない。ただ事実を認め、乗り越えると決める。
朔はふと思い出して聞いた。
「兄上。鎮護寮に、晶先輩はおられますか」
要の眉がわずかに寄った。
「晶——ああ、あいつか。……見習いの持ち場が違うからな。俺もほとんど顔を合わせたことがない」
朔の中で、小さな引っかかりが揺れた。晶先輩が卒業してから何度か鎮護寮を訪ねたが、晶には会えなかった。「見習いで外に出ている」と言われるばかりだった。要ですら会っていない。——けれど朔はそれ以上追わなかった。見習いは忙しい。それだけのことだろうと思った。
要が腰を浮かせかけて、ふと振り向いた。
「朔。——お前、初穂の権について知ってるか」
朔は首を傾げた。
「初穂は序列の一番、という意味ですよね」
「そっちじゃない。最終年次の初穂には——抜穂の儀のあとに、自分で配属先を選べる権がある」
朔は少し驚いた。知らなかった。教導寮では序列の意味は教わるが、初穂に与えられる特権までは、まだ二年次の朔には伝えられていなかった。
「どの組織の指名も断って、自分が行きたい場所を選べる。——初穂だけの権利だ」
要は淡々と言った。
「兄上も、初穂でしたよね。鎮護寮を選んだのですか」
要の目がかすかに揺れた。——一拍。
「……ああ。親父の後だからな。当然だろう」
要はそれだけ言って立ち上がった。自分の部屋に戻る足音が廊下を遠ざかっていく。朔はその背中を見送った。
当然——と、要は言った。けれどその声の底に、朔が拾えない何かが微かに揺れていた気がした。
初穂の権。配属先を自分で選べる。
その情報は、まだ朔の中で何にも結びつかなかった。凌が一番で、自分は二番。それだけのことだった。
ただ、言葉だけが頭の隅に残った。
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夕方。
篝と並んで縁側に腰を下ろしていた。いつもの場所。磨き石の上には午後の残り陽がまだ微かに温もりを留めていて、二人の影が庭石の上に長く伸びている。
「ねえ、さくにぃ。教導寮のこと聞きたい」
篝が帖を膝に抱えて、朔の方を向いた。
朔は少し考えてから、二年目のことをぽつぽつと話し始めた。
五行修練庭のこと。礎場の土が朝は冷たくて、午後になると法力の残りで温んでくること。焔壇が暑かったこと。鉄砧場で金属の匂いが手についてなかなか取れないこと。水鏡池の光が綺麗だったこと。
表面的な話ばかりを選んでいた。凌が暴発して日下部に叱られたことは話さない。善次郎が体術の試験で初めて攻めたことも——
「善次郎くん、今年は前に出たんでしょ?」
朔の声が止まった。
篝が帖の角を指先でいじりながら、何でもないように言った。
「……なぜ知ってるの」
篝が首を傾げた。漆黒の瞳が朔を映している。
「さくにぃ、善次郎くんの話するとき、今年はちょっと嬉しそうだから。去年は心配そうだった」
朔は口を開きかけて、閉じた。
去年——そうだ。去年の朔は善次郎のことを話すとき、壁際に一人で立っている少年のことを心配するような響きで語っていたのかもしれない。善次郎に友達がいるのか、善次郎が何を考えているのか、分からないまま気にかけていたあの頃。それが今年は違う。善次郎の掌底の重さを知っている。善次郎が凌の連撃のあいだに入り込んで見せた一歩を、朔は嬉しかったのだ。善次郎が前に踏み出したことが。
自分では気づかなかった。声のどこかに、それが出ていたのだ。
「さくにぃは自分のこと、あんまり分からないもんね」
篝は去年と同じ言葉を言って、くすくす笑った。
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陽が傾いてきた。庭の空が薄い橙色に変わり始めている。
篝が帖を閉じて、膝の上に両手を重ねた。少しだけ間があった。夕暮れの風が庭の梅の枝をかすかに揺らして、影が薄墨色に伸びていく。
「さくにぃ。今年は……何番だったの?」
朔は一瞬だけ間を置いた。
「二番だった」
篝が朔を見た。
「……去年も二番だったよね」
「うん」
篝の指が帖の表紙をなぞった。ゆっくりと、何かを確かめるように。
「悔しくないの?」
朔の中で、分析が動いた。いつもと同じだ。結果が出たら、なぜ正しいかを分析する。悔しくなる前に、分析が終わる。
「凌が一番で正しいと思う。凌は……すごいから」
去年は「正しい」としか言えなかった。今年は「すごい」という言葉が出た。二年間、凌を見てきたから。分析の底に、分析では名づけられない何かが混じっている。
篝は少し黙った。
縁側に夕風が吹いて、篝の髪が揺れた。薄暮の光のなかで、篝の横顔がやわらかく翳っている。
「……でも、あたしはさくにぃが一番がいいな」
朔は何も答えなかった。
篝の声は責めてもいなかった。悲しんでもいなかった。ただ——そう思っている、と言っただけだった。期待でも要求でもない。篝の声はいつもの温かさのまま、夕暮れの空気に溶けていった。
——けれど、その一言が朔の中のどこかに、深く沈んだ。
「凌が一番で正しい」は事実だった。揺るがない。だが篝の「さくにぃが一番がいいな」は、事実の問題ではなかった。正しいも間違いもない。ただの願い。篝がそう願っている。それだけのことだった。
分析で応えることができなかった。
「正しい」の一語が、篝の声に届かない。凌が一番で正しいのに、篝が朔を一番がいいと願っている。矛盾していない。矛盾していないのに——答えが出ない。初めてのことだった。
ぼんやりと、理屈の下の方から、何かが浮かんできた。
一番になりたい。
その感情は言葉にならなかった。「凌が正しい」と「篝が一番がいいと言った」のあいだの、分析では埋められない隙間に、名前のつけられない何かがじわりと広がっている。悔しさとは違う。焦りとも違う。ただ——篝がそう願うなら、と思った。それだけだった。それだけの漠然とした火が、朔の胸の底のどこかに灯った。
朔は何も言わなかった。篝も、それ以上は何も聞かなかった。
二人は並んで、夕暮れの庭を見ていた。梅の青葉の影が薄闇に沈み始め、どこかの家の竈から煙が白く立ち昇っている。遠くで浄身院の鐘がかすかに鳴っていた。
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夜。
篝の部屋は障子越しの月光がうっすらと床を照らしていた。春の月は去年よりも明るい気がしたが、気のせいかもしれなかった。
篝はもう眠っていた。
褥のそばに押し花帖が置いてある。朔は枕元に湯呑を静かに置いて、帖をちらりと見た。
帖は去年よりずっと厚くなっていた。去年朔が持ち帰った白い花も、どこかの頁に薄く乾いて眠っているはずだった。
けれど——今年は新しい頁が加わっていない。朔が花を持ち帰らなかったからだ。
朔は自分の褥に入った。掛け布を引き寄せて、天井を見つめた。
篝の声が、頭のなかで繰り返されていた。
——あたしはさくにぃが一番がいいな。
分析が動く。いつもの順序が起動する。しかし、動いた先に答えがない。「凌が正しい」は揺るがない。
では篝の「一番がいいな」は間違いなのか。——間違いではない。矛盾しないのに、答えが出ない。分析が巡って、同じ場所に戻ってくる。でも今夜は、着地する場所がなかった。
去年の夜、朔は「花だけでは伝わらない」と思った。大楠の大きさも、風の匂いも、枝の隙間の光の模様も、花の数本では篝に届けられないと。あのとき朔は「見せ方」が分からなかった。
今夜は——「感情の向き合い方」が分からない。
一番になりたい、と思ったのかもしれない。思ったのかもしれないが、確信がない。確信がないまま、それは理屈の下に沈んでいく。言葉にはならない。まだ、ならない。
障子の向こうで春の風が枝を揺らしていた。遠い鐘の余韻はもう聞こえない。月光が褥の端を白く染めて、ゆっくりと移ろっている。
目を閉じた。
花のない春が、静かに暮れていく。
二年次が終わった。




