135話:知らない顔
門が開くと、夕刻の風が迎えた。
灰の野を抜けてきた空気よりも、門の内側のほうが温かい。結界越しに風の質が変わる。朔はその境目を足裏で感じながら、外采門をくぐった。
凌が先に出ていた。鶺鴒の柄に手を添えたまま、無造作に歩いている。善次郎がその隣を歩き、蓮が後ろから小走りで追いかけてきた。
「ただいまー」
蓮が誰にともなく言った。門番が振り向いた。
「灯りが帰った」
いつもと同じ声だった。灰輪巡哨からの帰還。六位を二体処理しただけの、平穏な一日。出陣から帰るまで、何も起きなかったと言っていい日だ。
---
殉職碑は門の右脇にあった。
花が供えてある。白い花だった。誰が毎日替えているのか朔は知らない。花が枯れたことがない。碑に刻まれた名前の列には、朔が読んだことのある名前がいくつかある。帰還しなかった外采使たちの名前だ。
朔は足を止めなかった。
だが碑の横を通り過ぎるとき、足の裏に僅かな躊躇いが走った。名前の列を視界の端で捉えて、通り過ぎた。「ここに自分の名前がないこと」が——安堵だった。帰れた。今日も帰れた。碑に刻まれるのは、帰れなかった者だ。
名前を知ったのは、つい最近だった。碑の上のほうに、読めなかった文字がある。今は読める。巡哨で一度だけ一緒になった先輩の名前。あの人は朔の三年先輩で、朔が出陣前に話しかけたとき「今日も早いな」と笑った人だった。
碑から遠い場所にいる。それが安堵であることに、後ろめたさが混じった。後ろめたさとは呼べない。もっと淡い——なんと名づければいいかもわからない温度の低い感触だった。
善次郎が朔の歩調の変化に気づいたのかどうか、わからない。善次郎は何も言わず、前を向いたまま歩いている。
---
控え詰め所の奥にある浄身院の派出所に向かった。帰還した班は順に穢れ検査を受ける。浄身院の癒し手が法力で全身を検査し、穢れの兆候がないかを確認する手続きだ。
今日は検穢使が一人、列の横に立っていた。
白面。目も口もない白い面が、夕暮れの光の中で微かに光っていた。面の下は見えない。白い浄衣を纏い、手を前で組んで立っている。検穢使は珍しくない。帰還検査に立ち会うのは彼らの仕事の一つだ。浄身院の癒し手の検査が見落としかねない法力の微細な乱れや、穢れの第零期の潜在的な兆候を調べる。
蓮が最初に検査を受けた。浄身院の癒し手——常駐の若い男性が蓮の前に立ち、両手をかざして法力を流した。蓮の防穢衣に法力が透過していく。数呼吸の静寂。
「異常ありません」
蓮が「ありがとうございます」と頭を下げた。善次郎が次に前に出た。同じ検査が繰り返される。善次郎が終わると、凌の番だった。
凌が前に出たとき、白面の検穢使が一歩前に出た。
凌の防穢衣に手をかざした。面の奥から声が出た。
「……異常なし」
事務的で平坦な声だった。凌は無表情のまま通過した。
朔の番だった。
癒し手の検査が先に来た。法力が朔の防穢衣を透過する。いつもと同じだった。護帯の光が検査の法力に薄く応答した。
「異常ありません」
癒し手が引き、検穢使が朔の前に立った。
白面の向こうに、目がある。見えない。見えるわけがない。面は顔の全てを覆い、光すら通さない。だが朔は、面の奥に視線があることを感じた。
検穢使が右手をかざした。
朔の防穢衣を法力でなぞっていく動き。指先が開いていく。掌が朔の肩口から胸の前を横切り、腕に沿って手首まで降りた。ゆっくりと、だが確実に広がっていく手の開き方——丁寧で、無駄がなかった。
朔の目がその手に留まった。
指先の運び方。
教導寮の昼飯のときだった。朔は七級童で、一級童の先輩が当番で汁をよそっていた。椀を差し出す手が柔らかくて、汁が一滴も跳ねなかった。先輩は笑った。
——先輩の仕事なんだ。取られたら困る。
あの手だ。
朔は口を開かなかった。面の奥を見つめた。見えない。白い面が返すのは夕暮れの淡い光だけだ。だが検穢使が朔を見下ろしたとき、ほんの少しだけ——首が右に傾いた。
晶先輩は人を注視するとき、いつもそうしていた。
面の裏の左耳の後ろに、小さな痣があるはずだった。見えない。だが朔は知っている。
確信は動かなかった。
「……異常なし」
検穢使の声がほんの少し——ほんの少しだけ、柔らかくなった。気のせいだと思える程度に。言葉の端が丸くなる。事務的な声の中に、ほとんど読み取れないほどの温度が混じった。
朔は「ありがとうございます」と頭を下げた。
足を止めなかった。名前を呼ばなかった。
---
「何ボーッとしてんだ」
凌の声がした。控え詰め所に戻る廊下で、凌が振り返っていた。
「……ん。何でもない」
善次郎が一瞬だけ朔を見た。善次郎の目は何かを測るように朔の表情を捉え——そして何も言わず、歩き出した。
「朔くん、顔色悪くない? 穢れじゃないよね?」
蓮が朔の横に来て覗き込んだ。翡翠色の目が心配そうに揺れている。
「大丈夫。少し疲れただけ」
鳴弦が朔の肩の上で穏やかな声を上げた。ピィ。安全の声だった。
---
面の裏から見た外采門は、夕暮れ色に染まっていた。
帰還検査を終えた外采使たちが控え詰め所に戻っていく。四人組の背中が人の流れに混じり、遠ざかっていった。小柄な班長が最後尾にいた。右肩に蒼鷹が止まっている。あの鷹の声を——面越しでも聞いた。穏やかな声。
晶は面の奥で目を閉じた。三つ数えた。
開けた。
……気づいただろうな。
朔の目が自分の手を見ていた。指先の動きに留まっていた。朔に防穢衣を検査しながら、晶は視線の動きを読んでいた。面に遮られた視界の中でも、眼前の人間の瞳の行き先はわかる。察役の訓練は、そのためにある。
首を傾げたとき、朔の瞳が面の左耳の位置に動いた。一瞬だけ。
朔は昔から周りをよく見る子供だった。新芽の式の引率で、焔壇の焦げ跡の意味に一人だけ気づいた七級童。怯える子供たちの中で、あの子だけが焔壇を見上げていた。「あれは先輩たちの勲章だ。怖くない」と言ったとき、朔はすでに理解していた。あの目がそのまま大きくなっている。
晶は面の下で息を吐いた。
外采使たちの防穢衣に目を向けた。帰ってきた者たちの装いに、あの帯が見える。護帯。腰に巻かれた帯の端に、法石の微かな光。穢れの侵入を法力で弾く仕組みだ。
あの帯が、ここ数年で「送り」を減らしている。
穢れの重症化が減った。第一期で止まるようになった。かつては月に一度は「封札を切れ」の命令が落ちてきた。穢れが深部に食い込み、第三期に至った者を——処理する命令。晶の面番号を呼ぶ声。面の中の闇。手に残る振動。
今は半年に一度あるかどうかだ。
面の間に掛けられた無名の白面の列がある。使われなくなった面が増えていく。それは確かな安堵だった。仲間の中に壊れる者が減るということだ。新しい面を受け取る若い察役が——自分が初めて立ち会ったときのように——嘔吐しなくて済む日が近づいている。
だがその護帯を作ったのが——あの子供だということを、晶は知っている。
護帯の原理を考案した外采使。土御門の坊。教導寮時代、自分が汁をよそってやった後輩。「妹に見せたいから」と秋の収穫で言った子供。あの子供が作った法具で、検穢使の仕事が減っている。
晶は安堵する。
同時に、どこかが痛んだ。自分が不要になりつつあるのではない。自分がやってきた仕事が「必要でない世界」に近づいている。それは喜ぶべきことのはずだ。なのに——面の裏の汗が、冷たかった。
浄身院派出所の裏口から出た。
外采門の殉職碑が見えた。碑の前に花が供えてある。白い花。晶の視線が碑の上端に留まった。刻まれた名前。晶はあの名前の何人かを知っている。碑に刻まれた名前の何人かは——晶が送った者だ。穢れが全身を食い尽くし、意識がまだある段階で、封札を切った。
碑に名前があるのは、まだ幸福だ。
「送り」で逝った者には碑がない。穢れが身体を侵し、人としての形を失い始めたとき——それはもう「殉職」とは呼ばれない。処理だ。処理された者の名前は、どこにも刻まれない。
晶の右手の指先が微かに震えた。面を付けたまま、誰にも見えない。
---
外采棟への帰路は穏やかだった。
凌と善次郎が前を歩いていた。善次郎の歩幅は変わらない。凌は腰の鶺鴒に時折手を触れながら、何か考える風でもなく歩いている。
蓮が朔の横にいた。
「ねえ、朔くん」
蓮が言った。声が軽い。
「今日、検査のとき、あの検穢使さん、なんか気になった?」
朔は三歩分だけ黙った。
「……いや。少し、手が丁寧だなと思っただけ」
「ふぅん。あたしは全然わかんなかった」
蓮はそれ以上聞かなかった。嘘ではなかった。手が丁寧だったのは事実だ。ただ、それ以上のことを口にしなかった。
蓮が凌の背中に声をかけた。
「お腹空いたなぁ」
「勝手に食え」
善次郎が振り返りもせず言った。「……行くぞ」
朔は四人の列の最後尾を歩きながら、思考が遡るのを止められなかった。
教導寮を卒業した晶先輩は鎮護寮に配属されたと聞いた。朔が外采寮に入ってから、何度か鎮護寮を訪ねた。いつも同じ答えだった。
——見習いで外に出ています。
そのうち足が遠のいた。年月が経った。忙しいのだろうと思った。鎮護寮の見習いは里の結界の維持に関わる。朔とは別の道に進んだのだと、なんとなく納得していた。
あの白面の検穢使が晶先輩なら——鎮護寮にいなかったのは当然だ。検穢使は忌部の管轄であり、鎮護寮の名簿には最初から載っていなかったのだろう。「見習いで外に」は嘘ではなかったのかもしれない。ただ、「外」の意味が違っていただけで。
朔はそこまで考えて、それ以上を考えることをやめた。
検穢使に名前はない。面の奥の人間は「いない」ことになっている。だから声をかけなかった。かけなかったのではない——かけてはいけなかったのだと、今はそう思う。
---
外采棟に戻り、朔は自室で手帳を広げた。
翡翠沢で描いた霊木の術式の図の下の頁。今日の灰輪巡哨の記録を書いた。六位二体の遭遇座標。穢れ濃度の数値。護帯の法石残量。帰還時刻。
手帳には数字だけを書いた。
検穢使のことは書かなかった。書けなかった。あの手の動き方も、首の角度も、「異常なし」の声の温度も、数字にはならない。手帳は数字でできている。法石、水位、灰界端、穢れ濃度。数字は嘘をつかない——壮介がそう言った。数字は壮介の帳面に乗り、嶺壱の書斎に届いた。
だがこの手帳の余白に書けないものがある。数字にならないものが、今日一つ増えた。
蓮の「あの検穢使さん、なんか気になった?」という声を思い出した。蓮はそれ以上聞かなかった。聞かなかったことが、ありがたかった。
手帳を閉じた。
鳴弦が肩の上で羽を折りたたんだ。穏やかな声が一つ響いた。




