131話:数字の壁
秋の終わりは、紙の匂いがする。
外采棟の控え詰め所の片隅に、壮介が帳簿を広げていた。窓から差し込む低い光が、法石の出納帳、霊水脈の持ち帰り量記録、灰界端石柱の位置記録——三冊の帳簿の角を無造作に照らしている。机の残り半分を朔の手帳が埋めていた。
壮介が朔の手帳を手に取った。
頁を捲る。朔の字は小さく揃っている。余白に書き込まれた数字を、壮介は帳簿の記録と一つずつ照合していく。手で行を辿る。壮介の手は太く、だが動きは正確だった。
「西は灰界端二一九。北は二三七。支谷の一九三」
朔が読み上げた。壮介の帳簿にある南方の記録と突き合わせるための、三方向の境界石の最新位置だった。
「壮介さんの南は——」
「十五歩の後退。一年半で」
壮介が帳簿の数字を指で押さえた。
朔の手帳の数字を壮介の帳簿に転記する作業は、午後の大半を食い潰した。壮介が管理する生存地図の上に、朔の手帳から拾った境界石の位置を一つずつ書き写していく。過去の記録との比較。数字が地図の上に並び、その数字が意味を持ち始める。
境界石の位置が、三方向とも、全て内側に動いていた。
壮介が筆を手に取った。生存地図の上に線を引く。西から、南から、北から。三本の線が里に向かって伸びている。
「東の数字がないのが惜しい」
壮介が筆を置いた。「——だが三方向で充分だろう」
朔は黙って地図を見ていた。三本の線の先に里がある。線は里に向かっている。向かっているのは線ではない。灰界端だ。
壮介が法石の出納帳を開いた。
「こっちも見てみようか」
朔は帳簿を受け取り、頁を繰った。五位以上の怪異討伐で得た法石の回収数と、護帯の維持に消費した法石の数。数字を追う。左の列が回収、右の列が消費。
「回収が消費に追いついていない年が、この三年で二回あります」
壮介が頷いた。別の帳簿を引き出す。井戸の水位記録だった。年ごとの数字が並んでいる。今年の数字は去年より低く、去年は一昨年より低い。朔は善次郎から受け取った自給率の変化も口にした。農地は改善している。だが灰輪の土壌法力は減少傾向にある。
増えているものと、減っているものが、同時にある。
「全部が少しずつ——」
朔の声が途切れた。
壮介が帳簿を辿った。朔の手帳と帳簿のあいだを、太い掌が行き来する。
「確認するぞ」
壮介の口癖だった。出発前に班員の装備と体調を確かめるときと同じ声。第七班の班長の声だった。
「法石の回収が減っている。水位が下がっている。灰輪の端が縮んでいる」
手が三冊の帳簿を一つずつ叩いた。
「——三つとも、少しずつだが右肩下がりだ」
朔は何も言えなかった。数字は知っていた。手帳に書いていた。だが三つを並べて見たのは初めてだった。一つ一つは断片だった。断片が並んだとき、一枚の絵になった。
その絵は右肩下がりだった。
壮介が紙と筆を差し出した。
「これ、報告書にまとめてくれるか。頭領に上げたい」
朔は頷いた。紙を広げた。筆を取った。
——手が止まった。
数字を並べれば書ける。法石が足りない。水が減っている。灰輪が縮んでいる。三つとも本当だ。だがその先に何を書く。数字の先にある意味を——朔はまだ言葉にできなかった。
壮介は何も言わなかった。朔が書けるのを待った。
朔は結局、数字だけを書き連ねた報告書を仕上げた。法石の回収数と消費数の推移。水位の年ごとの記録。灰界端の境界石の位置の変化。三方向から里に向かう線。——分析の欄は空白のままだった。
壮介が報告書を受け取った。空白の欄を見て、何も言わなかった。
「……いい。数字だけでいい。今は」
壮介が報告書を畳み、懐にしまった。椅子の背に凭れ、天井を見上げた。
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善次郎が農地にいた。
朔が訪ねたとき、二畝目の収穫はすでに終わっていた。大根と蕪が泥のついたまま畝の脇に並べられている。善次郎が立ち上がった。手の泥を衣の裾で拭っている。額にも泥が付いていた。
「三畝目を始めるには手が足りない」
善次郎は畝を見ながら言った。二畝目の土はまだ湿っていた。樹相術で根の活性化を促した痕跡が、畝の表面に淡い木行の気配を残している。一畝目で確立した手順を善次郎が一人で繰り返した結果、二畝目も根が張り、実をつけた。
「菫さんの紹介で二人増えた。——だがまだ足りない」
朔は善次郎の手を見ていた。泥と法力の消耗で、指先が白くなっている。善次郎は何も言わず畝に目を戻した。壁の前衛が土を耕す姿は、戦場にいるときと同じくらい静かだった。
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夕餉は外采棟の控え詰め所の隅で、四人で食べた。
椀の中身はいつもの粟飯と菜の汁物。秋の終わりは食卓が痩せる。
朔は箸を動かしながら口を開いた。
「灰輪の数字を壮介さんと整理してきた」
善次郎が椀を持ったまま動きを止めた。
「……畝は増やせる。でも灰輪は——」
一瞬の間があった。
善次郎が椀を見ていた。粟飯の表面を見ていたのか、その向こうの何かを見ていたのか。
「……知っている」
一語だった。
朔は善次郎の横顔を見た。善次郎が見ているのは土壌だ。農地の土壌は善次郎の手で改善された。だが灰輪の土壌は年ごとに死んでいく。迷霧圏の「何も残っていない」土壌をあの手で触った善次郎は、灰輪がそこに向かっていることを——衰退の手触りを、掌で知っている。
数字を並べなくても、壁の前衛はとうに気づいていた。
蓮が箸を置いた。
「善次郎くんの畝が増えたのは、いいことだよ」
蓮の声は明るかった。蓮は善次郎が何を「知ってる」のかを完全には理解していなかった。だが善次郎の沈黙の重さは読み取っている。善次郎が黙って椀を見ているとき、蓮だけが声を出す。
「食べよ。食べなきゃ壁は立てないでしょ」
善次郎が微かに顎を引いた。椀を口に運んだ。
凌は何も言わなかった。粟飯を口に運び続けた。箸の音だけが響いた。
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翌日の午後。
凌が訓練場にいた。
外采棟の裏手にある訓練場は土を踏み固めただけの広場だった。木製の打ち込み台が三つ据えてある。凌はその一つに向き合い、鶺鴒を構えていた。
法力を通す。
蒼白い光が刀身を走った。全開の法力が回路を巡り、刃先で脈動する。折れる心配はない。抑える必要もない。凌は打ち込み台に連続して斬りつけた。一太刀、二太刀、三太刀。木が裂ける。蒼白い残光が断面に走り、すぐに消える。刃はどこまでも走った。
四太刀目で、凌は鶺鴒を止めた。
汗を腕で拭い、打ち込み台の断面を見つめた。
刃は速い。
だが踏み込みの瞬間、体幹がまだ揺れている。
凌は眉を寄せた。もう一度構え直した。踏み込む。斬る。刃は先に行く——身体が遅れた。腕は刃を振り切っているのに、足が刃に追いついていない。汎用刀で七割に押さえていた頃は、法力の手綱が身体の遅れを覆い隠していた。鶺鴒で刃が解き放たれたとき、足と刃のあいだの隙間が剥き出しになった。
斬る瞬間に、半歩分の遅れがある。
凌が歯噛みした。もう一度。踏み込み——だが結果は変わらなかった。腰が回り切る前に刃が先に行く。足が据わる前に斬撃が終わっている。
「いい刀になったな」
声が飛んできた。
凌が振り返った。訓練場の脇の通路に、柊烈が立っていた。
防穢衣の裾に灰がこびりついている。北斗衆第四班の巡哨帰りだろう。腕を組み、低い場所に腰を預けた姿勢で凌の斬撃を眺めていた。
「……柊さん」
「だが踏み込みが刃に遅れてる。腕で斬ってるだろ」
軽い声だった。世間話をするような口調。だが指摘は正確だった。凌が自分で感じていたことを、柊烈はひと目で見抜いていた。
「法力を足に回せ。追いついてから切れ」
凌の眉が動いた。
「足に法力を——」
「雷火を足に回して加速する。俺はそれを逃げるのに使ってるがな」
烈は笑った。陽気で速い笑い方。凌は笑わなかった。
「見せてやる」
烈が訓練場の端に立った。腰の太刀には手を触れない。腕を組んだまま。
足元に微かな熱が生まれた。
陽炎のような揺らぎ——だが炎は出ない。空気が微かに歪んだだけだった。烈の足裏に雷火術の法力が集中し、推進力に変わった。
一瞬。
十歩の距離が消えた。
烈が凌の三歩前に立っていた。腕を組んだまま、移動だけで十歩を詰めた。太刀は抜いていない。地面に残った足跡は一つだけだった。
凌の指が鶺鴒の柄を握りしめた。
「……この距離を一歩で——」
「出力型の雷火は派手だが燃費が悪い」
烈は防穢衣の裾を直しながら言った。灰を払い、襟を整える。巡哨帰りの男の所作。
「速度型はな、法力を推進に回す。だから炎は出ない。地味だぜ」
凌は地味と聞いて鼻を鳴らさなかった。跳火も炎推も使える。足裏に雷火を回すこと自体はできる。だが凌の炎推は——派手に炎が噴き、法力が熱と光になって散っていく。烈は炎を出さなかった。法力が推進力だけに変わっていた。同じ足裏への雷火で、あの差が出る。
烈が背を向けた。
「その刀の主人がお前なら、足の方も仕上げろ。——暇なとき覗きに来い」
手を振って去った。足音が軽い。速い男の歩き方だった。
凌が訓練場に残された。
打ち込み台の前に立ち直る。鶺鴒を構え直した。今度は足に意識を置いた。炎推の要領で法力を足裏に流す。踏み込む——
足元から炎が弾けた。地面の土が焦げ、熱風が脛を叩いた。身体は動いた。だが三歩しか詰まらなかった。法力の大半が炎になって散っている。推進力に変わったのはほんの一割。残りは全部、派手な火と音だった。
もう一度。
法力を絞る。炎を出さないように——だが凌の雷火術は出力に慣れすぎている。絞ったつもりでも足元に赤い光が走り、パチパチと空気が弾けた。烈の足元には陽炎しかなかった。炎の一筋も出なかった。あの無音の加速と、自分の足元で弾ける火花の差が——凌にはまだ埋められなかった。
凌が息を吐いた。
「……遠い」
だが口の端が上がっていた。
鶺鴒を鞘に収めた。収刀の音が秋の空気に吸い込まれた。訓練場に立ったまま、凌は空を見上げた。秋の空は高い。鉄の刃に身体を合わせるのが鶺鴒への次の仕事なら、足を鶺鴒に追いつかせるのが凌の次の仕事だった。
足が遅いのではない。刃が先に行きすぎるのだ。ならば足を、同じ速さに仕上げればいい。
凌は訓練場から動かなかった。もう一度構えた。もう一度足元に法力を集めた。散った。構え直した。日が傾くまで、繰り返した。




