128話:閉じた扉
討物所の工房は暗かった。
炉の残り火が壁を赤く舐めるだけで、天井は闇に沈んでいる。鉄の焦げと炭の匂いが空気に染みついている。外の夕陽は、小さな窓の隙間から斜めに差し込んで、床の煤を金色に光らせていた。
朔は両腕で抱えていた霊鉄の塊を、作業台の上に置いた。
灰白い金属。拳二つ分の大きさ。遠征で岩峡の回廊から善次郎が引き抜き、十二人の手で里まで持ち帰った鉄だった。法力を吸って育った——鋼一の言葉を朔はまだ覚えている。
工房の奥で、鋼一が振り返った。
寡黙な老鍛冶師。頬の皺が深く、額に蒸気の火傷痕がいくつも重なっている。手は大きく、節くれだって、黒い。討物所の頭領として数十年、炉の前に立ち続けてきた手だった。
鋼一が作業台に歩み寄った。
霊鉄を見た。それから、右手を伸ばした。掌が灰白い表面に触れる。
——鋼一の手が、止まった。
朔は見ていた。老鍛冶師の太い手が、微かに震えている。金槌を振るう腕は揺れたことがないはずだった。だがこのとき、霊鉄に触れた掌だけが、細かく揺れていた。
「……これが、あの時の鉄か」
低い声だった。独り言のように漏れた。鋼一の指が霊鉄の表面を撫でる。質を確かめている。表面の粒を指の腹で辿り、内部の密度を、触覚だけで読んでいる。
玄外が工房の柱に背中を預けて腕を組んでいた。鋼一の横顔を見ている。何も言わない。
鋼一が朔のほうを向いた。
「鉱脈から引き抜いた方法は」
「善次郎が、絡脈術の根で岩盤から取り出しました。力任せには砕いていません」
鋼一が頷いた。短い動作だった。霊鉄を両手で持ち上げ、窓の光にかざした。灰白い金属の奥で、何かが微かに脈動しているように見えた。法力の筋——鉱脈の中を通っていた法力の名残が、霊鉄の内部に残っている。
「脈が生きている」
鋼一の声が変わった。職人の声になった。鉄の質を確かめ終えた男の声。
「これなら打てる。だが一度火を入れたら止められない。三日三晩」
玄外が柱から身を起こした。
「俺が相生循環回路を途中で刻む。冷える前に入れないと法力が定着しない」
鋼一が玄外を見た。息子を見る目——だが朔が知る父子の目とは違った。職人が別の職人を見る目だった。
「お前と組むのは初めてだな」
「……親子で鍛造なんか聞いたことねぇ」
ぎこちない言葉だった。だが確かなものが二人の間にあった。討物所と斎具所——武具と法具——打つ技と刻む技が、一本の刀の中で初めて合流する。
凌は工房の入口に立っていた。
腕を組み、外を向いている。工房の中には入らない。入ったことがなかった。鋼一と玄外のやり取りが背中越しに聞こえている。自分の法力に合わせた新しい刀が生まれようとしていることを、凌は壁の外から聞いていた。
朔が凌のほうを見た。
「……凌」
「……頼んだ」
二語。凌にしては異例に素直な言葉だった。口角がかすかに上がっている。それだけで十分だった。
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工房を出たとき、空は薄い茜色に変わっていた。
朔と凌が並んで歩いている。内工座から里の奥へ向かう道。善次郎と蓮は穢れ検査の後に先に帰っていた。善次郎は農地へ、蓮は浄身院に寄る日だった。
二人きり。鳴弦が朔の右肩で羽を閉じている。穏やかな声で一つ鳴いた。
今日は帰宅日だった。外采使は遠征の合間に帰宅日を与えられる。遠征から戻ったこの日が、ちょうど帰宅日と重なっていた。途中まで朔と同じ方角——土御門家と久我崎家はどちらも里の東寄りにある。
茜色の光が二人の影を長く引いた。道端の草が風に揺れ、どこかで虫が鳴いている。里の音だ。灰輪にはない音。
凌が歩きながら、右手で腰の汎用刀の柄に触れた。
無意識の所作。手のひらが柄頭を撫でる。——刃先が欠けた刀。昨日、鉄錆の装甲を斬った代償が、この刀に刻まれている。凌の手がそこに行く。何度もそこに行く。
朔は凌の手の動きに気づいていた。だが何も言わなかった。少し歩いて、実務的な声で訊いた。
「新しい刀ができるまで、あとどれくらい持つかな」
凌が鼻で短く息をついた。
「……わかんねぇ。四位相手にもう一回振ったら折れるかもな」
沈黙が降りた。二人の足音と、虫の声だけが道に残った。
しばらく歩いた。
凌が口を開いた。前を見たまま。
「……あの二人、似てるな」
朔が横目で凌を見た。
「鋼一さんと玄外さん?」
「親子で同じ仕事してる。……ぶつかりながら、一つのもんを作ろうとしてた」
凌の声は低かった。工房で見た鋼一と玄外の姿が、凌の中で何かに変わっている。朔にはそれが見えた。だが言葉にしなかった。
凌の足が少し遅くなった。影が長くなる。
「俺の親父は総宰官だ。俺は外采使だ。同じ家にいるのに、全然違う仕事をしてる。……あいつらみたいに、一つのもんを作ることはねぇ」
朔は黙って歩いた。凌の横を歩いた。
凌が汎用刀の柄から手を離した。拳を握り、また開いた。
「……俺は、必要とされなくなるのが怖い」
短かった。
前を見たまま。朔のほうを見ない。道の先に視線を置いて、ただ歩いている。
「刀が折れたら、俺は何をするんだ。……殴り合うのか。素手で。俺に結界は張れねぇし、法具も作れねぇ。畑を耕す術もわかんねぇ。……振るうものが全部なくなったら、俺に何が残る」
凌の声は怒っていなかった。ふてくされてもいなかった。ただ、乾いていた。遠征帰りの疲れが言葉の角を取っている。普段なら飲み込むはずの言葉が、喉を通ってしまった。
鳴弦が首を傾げた。琥珀色の目が凌を見ている。
朔は五歩ほど歩いた。草を踏む音が五回。
「……僕は、足りないことが怖い」
静かな声だった。
「僕の記録が足りなかったら。僕の結界が届かなかったら。僕の判断が遅かったら——」
朔は前を見ていた。凌と同じように。
「——僕は、凌の隣にいられなくなる」
虫の声が一瞬止んだ。風が草を撫でる音だけが残った。
凌の足が止まった。朔も止まった。二人が道の真ん中に立っている。
凌が朔を見た。
「……お前、そんなこと考えてたのか」
「凌も同じだろう。……刀が折れたら、隣にいられなくなる。だから怖いんだ」
凌は何も言わなかった。朔はまっすぐ凌を見返した。穏やかな目だった。だが穏やかさの奥に、確かな重さがある。
凌が鼻で笑った。短い息。だが笑い方がいつもとは違っていた。苦いものが混じっていた。
「……そうなったら、化けて出て、並んでやるよ」
朔が少しだけ口角を上げた。
「……うん。僕もそうする」
鳴弦が穏やかに鳴いた。一声。高くもなく低くもない、ただ柔らかい声だった。二人の間の空気が変わったことを、鳴弦だけが音で報せた。
風が吹いた。茜色が薄紫に変わり始めている。
二人は歩き出した。並んで歩いた。同じ速さで。言葉はもうなかった。
道の分かれ目に差しかかった。右が土御門家、左が久我崎家。
朔が立ち止まった。
「……じゃあ」
凌は足を止めず、片手を上げた。
「おう」
いつもと同じ別れ方だった。だが空気が違う。凌の後ろ姿が夕暮れの道に小さくなっていく。朔はそれを少しだけ見送った。鳴弦が凌のほうを見ている。
朔は踵を返した。土御門家への道を歩き始めた。
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久我崎家の門は、閉まっていた。
凌が門を押し開けた。蝶番の軋む音が夕闇に響いた。庭は手入れが行き届いている。使用人が植木を刈り揃えた跡がある。凌にとっては見慣れた風景だった。見慣れすぎて、もう風景として意識することもない。
「若様、お帰りなさいませ」
玄関で使用人が頭を下げた。凌は片手を上げて応じた。
「飯はいい」
「……かしこまりました」
遠征帰りの疲れではなかった。身体は疲れている。だが今の凌の中にある静けさは、疲労とは別のものだった。言葉を出し切った後の空洞。朔に「必要とされなくなるのが怖い」とこぼした。こぼしてしまった。その痕跡が、胸の底に妙な軽さを残している。
廊下を歩いた。
板張りの床に足音が響く。自分の部屋は廊下の突き当たり。左に曲がれば着く。凌は左に曲がる——はずだった。
足が止まった。
書斎の前。
障子の隙間から、灯りが漏れていた。
凌は知っている。この灯りを。ずっと前——外采寮に配属されて最初の帰宅の夜、書斎の灯りが点いていることに初めて気づいた。先月の帰路では、里に戻る道で久我崎家の方角に一瞬だけ視線を向けた。
今、灯りが目の前にある。
障子の紙が薄い金色に光っている。灯りは安定していた。揺らぎがない。父は書斎にいる。深夜まで書類を読み、計算をし、里の数字と向き合っている。帰還簿。法石の出納帳。食糧の備蓄量。里の先行き——凌が知らないもの。知ることが許されていないのではない。知ろうとしなかった。同じ家にいたのに。
呼吸を数えた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
灯りは消えなかった。障子の向こうで、紙をめくる微かな音がした。
凌の右手が動いた。帯に触れる。——刀の柄を探す癖。だが刀はなかった。手が行き場をなくし、拳を握って下ろした。
武器がない。
刀も持っていない、結界も張れない、何も作れない——ただの久我崎家の三男が、父の書斎の前に立っている。
凌は背を向けた。
廊下を歩いた。自分の部屋に向かった。障子を開け、中に入り、障子を閉めた。
——書斎の中。
嶺壱の手元に帰還簿があった。都度編成小隊の帰還記録。帳面の上に、筆頭班長の名——土御門朔。その班員の名が四つ並んでいる。久我崎凌、志場善次郎、葛葉蓮。
嶺壱は帰還簿を静かに閉じた。
灯りは消さなかった。
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数日が経った。
里の外縁部。善次郎の農地。
午後の光が畝に落ちている。二畝目の根菜が葉を伸ばしていた。一畝目の収穫はすでに終わり、成果は食糧庫に納められている。小さな成果だった。里全体の食料からすれば誤差のような量。だが善次郎が土に手を入れ、法力を通し、法石を配置し、根を育てた——その手間から生まれた作物だった。
善次郎は二畝目の土壌に手を当てていた。絡脈術で法力分布を読んでいる。根の張り方。水分の偏り。七位法石から滲む法力の層が、根の先端にどこまで届いているか。目を閉じ、掌の感触だけで土の中を見ている。
足音がした。
善次郎が目を開けた。畝の端に男が一人立っている。善次郎より一つか二つ上だろう。通常班の外采使。肩幅は広いが、善次郎ほどの体格ではない。目が少し泳いでいた。
「志場。……ここか?」
善次郎が男を見た。
「……ああ」
「菫さんに言われた。——志場の畝を見に行け、って」
菫。鉄心班の。善次郎は何も訊かなかった。菫がどういう経緯で、どういう言葉でこの男を送り出したのか——訊いても善次郎が知るべきことは変わらない。
男が畝を見渡した。
「……俺も木行だ。樹相術の適性がある。……やり方を教えてほしい」
善次郎は立ち上がった。畝の端にもう一度しゃがんだ。右手を土に当てた。
「……ここに手を」
男がしゃがんだ。善次郎の隣。右手を土に当てる。
善次郎が絡脈術で土壌の法力分布を示した。法力の根が男の手元にまで伸び、土の中の層を——言葉ではなく、手の感触として——伝える。七位法石の法力がどの深さまで届いているか。根がどの方向に伸びているか。水がどこで溜まっているか。
言葉は最小限だった。手が全てを語る。善次郎の指導は、善次郎そのものだった。
男が目を瞠った。
「……こんなに細かく見えるのか」
「……慣れだ」
善次郎は土から手を離した。
「三畝目が必要だ」
「三畝分も?」
善次郎が空の畝を見た。まだ手つかずの土がある。日当たりは二畝目と同じ。法石の配置を考える必要がある。朔に計算を頼んでもいい。だがその前に、土を読まなければならない。
「……足りない」
善次郎が言った。土が足りない。畝が足りない。手が足りない。里が食べるには、まだ全然足りていない。
善次郎は土に手を当てた。男がその手元をじっと見ている。風が畝の葉を揺らした。根菜の葉の裏が白く光る。午後の光は暖かかった。




