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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
2部:1幕:外采使入寮~

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109/173

108話:二つ目の翼

 夏の灰輪は、空が低い。穢れを含んだ湿気が肌に貼りつき、呼吸のたびに胸の底に溜まる。


 外采門をくぐる。結界の膜を抜けた瞬間に空気が変わり、腐った水草と土の底から湧く瘴気が鼻腔を満たした。


 朔は巡哨路に足を踏み出した。足音が四つ、いつもの間隔で土を踏む。


 右肩の鳴弦に法力を送ろうとした。指先から法力が立ち上がるより先に——鳴弦の爪が肩を蹴った。


 羽音が一つ。


 朔の法力が届く前に、鳴弦はもう宙にいた。旋回に入る軌道が、以前と違っていた。朔が燭明術を脈動させるより先に、鳴弦が旋回の角度を変えている。朔の法力の拍を、波が届く前に先読みしていた。


 「善次郎」


 善次郎が振り返った。朔が上空を指した。善次郎は右手の平を広げて法力を放ち、鳴弦の生体反応を読み取った。


 三秒ほどの沈黙のあと、善次郎が言った。


 「怒ってはいない。慣れだ。お前の拍を覚えた」


 朔は善次郎を見た。


 「覚えた……?」


 善次郎は頷いただけだった。


 毎日の巡哨で朔の傍にいて、朔の法力の拍に晒され続けた時間が、鳴弦を変えた。朔が何かを教えたのではない。鳴弦が自分で折り合いをつけたのだ。


---


 南軸の谷筋に入ったとき、鳴弦の爪が食い込んだ。同時に飛び上がる。


 声が変わった。


 「キィッ」


 短い。鋭い。一度だけの強い声が谷筋に反響した。


 朔は身体が動いていた。錫杖を構え、燭明術を前方に展開する。左から善次郎の法力が動き、右前方で凌の足音が止まった。


 谷筋の南側の岩陰から、灰色の影が二つ滑り出てきた。穢魔——六位の骸狗。腐肉の隙間から骨が突出した狼のような怪異が、低い唸り声とともに近づいてくる。


 善次郎の樹相術が地面から白い根を走らせ、左側の骸狗の前足を絡め取った。その隙に凌が踏み込み、練刀を横に一閃する。法力を纏った刃が骸狗の首を捉え、核ごと両断した。黒い霧が散って、穢れの残滓が谷筋に靄のように流れる。


 もう一体が善次郎の壁を迂回しようとした。朔が燭明術で位置を読み、凌に方角を示す。凌の二撃目が短く鋭く走り、骸狗の胴を裂いた。核の破砕音がして、二体目も崩れた。


 蓮が凌と善次郎に走査の法力を飛ばした。「二人とも大丈夫」。声は事務的で無駄がなかった。


 朔は法石を回収しながら、上空を見上げた。鳴弦は何事もなかったかのように旋回していた。穏やかな声——「ピィ」——が短く一度鳴る。先ほどの鋭い声とはまったく異なる、柔らかい声だった。


 「……今の声、初めてだ」


 蓮が首を傾げた。


 「鳴弦、怒ってた? 前みたいに」


 「違う。警戒だ。あの二体の気配を僕より先に拾って——教えてくれた」


 穏やかな声と鋭い声。安全を告げる柔らかい声と、危険を伝える鋭い一声。朔が教えたものではなかった。灰輪の空を毎日飛び続ける中で、鳴弦が自分で身につけた表現だった。


 鳴弦が上空から降りてきた。朔のもとに戻り、羽を小さく畳む。嘴が朔の耳元にきて、髪を一房くわえた。くわえて、離す。怒りでも命令でもない。ただの、傍にいる仕草。


---


 帰還路は北に折れて結界に向かう。


 朔が燭明術で前方の穢れ分布を読んでいた。同時に、上空で鳴弦が朔の視界の外——横と後方を飛んでいる。


 鳴弦の穏やかな声が短く二度鳴った。「ピィ、ピィ」。朔の視えない方向に危険がないことを、鳴弦が声で伝えている。


 朔の燭明術が正面の穢れを捉え、鳴弦が横と後ろの気配を拾う。二つの方向から、同時に見ている。


 まだ立体索敵とは言えない。鳴弦が声で伝えられるのは、気配があるかないかだけだ。方角も距離も、精密な情報は朔に届かない。だが——今日、初めて合った。完成への焦りではなかった。少しだけ前に進んだという、静かな感触だけが胸の中にあった。


 護帯の法石に指を触れた。五つのうち三つがまだ十分に脈動している。


 「帰還する」


 凌が歩きながら振り返った。


 「まだいけるだろ」


 「明日も歩く」


 蓮がうなずいた。善次郎はもう歩き出していた。


---


 外采棟に戻り、穢れ検査を終えた。


 寝台の上で、朔は走り書きを広げた。穢れ灯の設計の覚え書き——春に書き始めた感光紙の裏が走り書きで埋まり、もう二枚目の半分まで来ている。


 穢れの変動を検知する。燭明術の応用で穢れを光に変換する——そこまではいい。問題は記録だった。


 影写しは「一瞬の光」を感光紙に焼き付ける。だが穢れ灯は「穢れの濃度が時間とともにどう変わったか」を記録しなければ意味がない。連続した変化。一枚の紙に焼き込んだら、全部が重なって潰れる。


 玄外がそう指摘した。「可逆」——書いては消し、消しては書く記録媒体が要る。


 朔は護帯の法石を一つ外した。定期交換で外される消耗済みの法石。穢れを吸い続けて暗く曇っている。護帯の相生循環回路で一ヶ月保った石——穢れに晒され続けても砕けなかった石。


 朔は法石を作業台の上に置き、燭明術で穢れの波長を読もうとした。


 穢れが光に滲む。だがその光はすぐに散った。穢れの波長は光と違い、一定ではなかった。燭明術は光の波長を制御する術だ。波長が安定している光は操れる。だが穢れの波長は脈動するように揺れ、掴んだ端から形を変える。


 朔の指先が止まった。


 光は制御できる。穢れは——制御できない。


 燭明術の波長制御は穢れには直接使えない。影写しと同じ手法では、穢れ灯は作れない。


 朔は走り書きの余白に「穢れの波長=不安定。光と同じ手法×」と書いた。


 ——影写しのときも、同じ場所で止まった。


 あのときは「光を受け止める素材がない」という壁だった。朔の回路設計だけでは越えられなかった。玄外の地錬術が感光紙を生んで、初めて道が開いた。


 今度は壁が一つ多い。素材の壁。連続記録の壁。そして今日わかった——穢れの波長の壁。


 三つの壁を、朔一人で越えることはできない。


 走り書きの端に、朔は一行書き足した。


 「玄外さんに相談——穢れ波長の不安定性。地錬術で何か変わるか」


---


 外采棟の裏手に出た。


 井戸で水を汲もうと桶を下ろす。縄を繰る。桶が水面を打ち、朔は縄を引いた。柄杓で掬って飲む。


 善次郎が裏手にいた。壁に背をつけて夜空を見上げている。手の中で何か転がしていた。月明かりに、法石の表面がかすかに光る。巡哨路で拾った七位の法石だろう。


 善次郎は振り返らなかった。朔も声をかけなかった。


---


 翌日——非番の日。


 朔は走り書きを持って内工座に向かった。玄外の工房は、いつも通りだった。


 「玄外さん。水鏡瓢の方ですが」


 「出来たぞ」


 挨拶もなく、玄外は棚から一つの法具を下ろした。


 水鏡瓢。両手で抱えるほどの瓢箪形の外殻は焼き直された鍛造跡が薄く残り、内部の圧縮空間設計を朔の結界術で一から組み直している。玄外が外殻の霊銅を鍛え直し、空間容積の拡張に耐えうる強度を持たせた。


 朔は瓢を受け取り、法力を通した。


 指先から法力が霊銅の皮膜を通り、内部の空間構造に触れる。以前の水鏡瓢は法力の応答にわずかな抵抗感があった。改良版は、法力が深く沈んでいく。界面が朔の結界術の波長に馴染み、空間の奥行きが明らかに変わっていた。


 「……深い。以前と比べて、かなり」


 「坊の回路が素直なだけだ。外殻も鍛え直したから持つだろう」


 玄外は褒めていなかった。技術的な事実を述べているだけだった。


 「次の水汲み班に渡してもいいですか」


 「好きにしろ」


 朔は頭を下げた。——そして走り書きを広げた。


 「玄外さん。もう一つ、穢れ灯の方で壁に当たりました」


 玄外が炉の火から目を離した。


 「燭明術で穢れの波長を読もうとしたんですが——穢れの波長が安定しない。光のように制御できません。影写しと同じ手法では——」


 「当たり前だ」


 玄外は火箸を炉に戻した。


 「穢れは穢れだ。光じゃねぇ。光の道具で穢れを扱おうとするから行き詰まる」


 朔は口を閉じた。


 「素材を変えろ。穢れに応じて状態が変わる物を探すのが先だ。回路はその後。——持ってこい、候補が出たら」


 短い。だが道筋があった。波長を制御するのではなく、穢れそのものに反応する素材を見つける。回路設計の前に、素材の問題を解くのが先。


 昨夜の壁が三つから二つに減ったわけではない。だが壁の攻め方が変わった。


 「……はい。また来ます」


 玄外は背を向けて炉に薪をくべた。


---


 数日後。翡翠沢往復の水汲み遠征。


 東軸の枯蔦の森を抜けた先に、翡翠沢はあった。灰輪と迷霧圏の境に位置する渓流沿いの清域で、流水の浄化作用によって穢れが薄い。里にとって最も近い水源だった。


 水汲み班の外采使二人が、沢の畔に膝をついていた。年かさの外采使が改良された水鏡瓢を沢の水面に浸し、法力を通した。


 翡翠沢の清水が、瓢の中の圧縮空間に吸い込まれていく。いつもの手応え——のはずだった。


 外采使の眉が動いた。


 まだ吸っている。いつもなら界面が抵抗を返してくる容量を超えて、清水がまだ流れ込んでいた。法力の応答が滑らかで、圧縮空間の底が深い。


 水面がさらに凹む。相方が沢の流れに目を遣った。流量が一時的に落ちるほど、清水が瓢に引き込まれている。


 ようやく界面が止まった。年かさの外采使は瓢を水面から引き上げた。重い。以前と同じ外見の瓢が、明らかに多くの水を抱えていた。


 「……こいつ、変わってるな」


 一度の遠征で持ち帰れる清水の総量が増える。一度の危険で、より多くの水を里に届けられる。


 「楽になったな、これ」


 年かさの外采使は瓢の胴を親指でなぞった。誰が手を入れたのかは知らない。法具の改修は内工座の領分だ。自分たちには水を運ぶことだけがある。


---


 夕暮れの外采棟の裏手。


 朔は壁に背をつけて立っていた。鳴弦が羽を休めている。嘴が朔の髪を一房くわえて、今度は離さなかった。朔の首筋に近い一房を嘴でしばらく挟んだまま、目を閉じている。


 朔は壁に背をつけたまま、鳴弦の重みを右肩に感じていた。


 走り書きの三枚目を、明日は広げることになる。素材の候補を探す。穢れに応じて状態が変わる物。回路設計の前に、まず素材を。


 結界の光が薄れていく。里の灯が一つ、また一つと灯った。


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