107話:自分の足音
鍛錬場には、朝の陽がまだ低い。
石畳の上に撒かれた砂が白く光り、打ち込み台の影が長く伸びていた。外采棟に併設された鍛錬場——結界の内側にある素朴な場所だ。
凌が打ち込み台の前に立っていた。練刀を構え、目を閉じている。
法力を絞る。金行陽の法力を刀身に——「流し込む」のではなく「通す」のだと、虎太郎は言った。力を押し込むのではなく、金属の中に道を開けてやるだけでいい。
凌は刀を振った。鈍い音が鍛錬場に響いた。打ち込み台の木が削れ、木片が飛ぶ。
違う。虎太郎の太刀はこんな音を立てなかった。
もう一度。法力を絞ろうとする。体が硬くなった。法力を絞ることは凌にとって「我慢している」状態だった。筋肉が硬直し、太刀の軌道がぎこちなくなる。練刀の手汗で柄が滑った。
「……ちげぇ」
凌は舌打ちして練刀を下ろした。修繕済みの刀身に法力を通すと、金属が微かにきしむ。体がそれを覚えている。力を入れれば金属が悲鳴を上げ、抑えれば太刀が鈍る。
鍛錬場の端の腰掛けに、朔がいた。走り書きの続きを書いている。
「虎太郎さんの型を真似てるの?」
凌が振り返った。
「真似じゃねぇ。俺のに落とし込もうとしてんだ」
「……そっか」
朔はそれ以上言わなかった。走り書きに目を戻す。
凌は練刀を握り直した。三度目。法力を通す。我慢する。絞る。刀を振る——重い。手首に力が入りすぎている。打ち込み台がまた鳴った。
虎太郎の太刀は、こんな音じゃなかった。刃が空気を裂くのではなく、空気が刃に道を譲るような——法力を薄く纏わせた、無駄のない一閃。
凌は目を閉じた。我慢じゃない。我慢では体が固まる。なら——。
組み手のとき、飛刃を応用した。法力を刀身の先端から延長し、間合いの外に伸ばした。あのとき法力は「押し込む」のではなく「流す」方向で動いていた。先端に向けて——出口を開けた感覚。
同じことを、刀身全体でやれないか。
法力を刀に「入れる」のではなく、刀の中に「出口」を作る。力は入口から出口へ流れる。入口が手元なら、出口は刃先。法力は溜まらずに通り抜ける。
凌は目を開けた。練刀を構え直した。
法力を流す。入口。手元。出口。刃先。通り道を開ける——堰き止めずに。
振った。
——音が消えた。
打ち込み台の木が、静かに割れた。木片が飛ぶ代わりに、断面がすっと開いた。刃が木に触れてから離れるまで、音らしい音がしなかった。
凌の手が止まった。
「……今の」
朔が走り書きから顔を上げていた。
「今の——よかったんじゃない?」
凌は手の中の練刀を見た。法力の残感がまだ刀身に残っている。「入口と出口」——法力が刀身を通過した、あの一瞬の感覚。力を絞ったのではなかった。流す方向を変えただけだった。量を減らしたのではなく、滞留させなかった。
もう一度。凌は練刀を構え直して振った。
——打撃音。元に戻っている。手に力が入った。法力が刀身の中で詰まった。出口が閉じた。
もう一度。
打撃音。
再現できない。あの一瞬の道筋が、手の中から消えている。
「……わかんねぇ。けど——ちげぇ気がした」
凌は練刀を下ろした。汗が顎から落ちた。
朔は何も言わなかった。走り書きの端に——「法力の通り道。入口から出口へ。絞るのではなく、通過させる」と小さく書いた。凌の今の一振りの言語化だった。凌自身には言葉にできない。朔にはできる。いつかそれが何かの形になるかもしれない。まだわからない。
凌は打ち込み台を見た。木が割れた断面が一箇所だけきれいだった。他の打撃痕は削れて毛羽立っている。あの一箇所だけ——斬れている。
「……もうちょいやる」
凌はまた構えた。朔は走り書きに戻った。
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翌日。五体目の悪鬼を落とした頃には、日が傾いていた。
凌が法力を送り込んだ一刀で核を両断し、善次郎が展開していた白樺の壁を解いた。蓮が凌の消耗を走査し、「大丈夫」と呟いた。朔は穢れの残滓を燭明術で確認し、拡散していないことを確かめた。
「帰還しよう」
朔の声に、三人が動いた。凌が練刀を納め、善次郎が無言で左翼に戻り、蓮が後方に構え直す。
帰還路を歩き始めて五分。蓮が凌の腕を掴んだ。
「凌、力入りすぎ。今日ずっと速くなってるよ」
凌が足を止めた。
「わかってる」
「わかってるなら落とそ。昨日の鍛錬の疲れ、残ってるでしょ。あたしが治せるのは怪我だけで、疲労は治せないんだから」
凌は舌打ちした。だが歯噛みしただけで、歩調を緩めた。蓮が黙って頷いた。
結界の外側際に差しかかったとき、善次郎が足を止めた。
朔は振り返った。善次郎は屈み込んで、地面に手をついていた。掌を土に当てている。目を閉じ、絡脈術で根を通じた土壌の状態を読んでいるのだとわかった。
「……善次郎?」
十秒ほどして、善次郎が目を開けた。
「この土、痩せてるが……」
「痩せてる?」
「穢れで養分が枯れてる」
善次郎の視線は地面に落ちたままだった。その視線が、足元に転がっている石に向いた。石ではない——法石だった。七位の穢魔が残す、小さくて品質の低い法石。結界の維持にも法具にも使えない代物で、回収されずに放置されている。
善次郎の視線が法石から数歩先の地面に移った。また手をついた。
「……法石の近くだけ、少し違う」
朔もそちらに目を向けた。燭明術で穢れの分布を読む——法石の周囲だけ、穢れの濃度が微かに薄い。七位の法石の法力が滲み出して、土壌の穢れを極わずかに中和しているのだとすれば——。
善次郎が立ち上がった。何も言わず、帰還路に戻る。だが朔は見た。善次郎が七位の法石を一つ、左手で拾っていた。腰帯の脇袋に入れた。
朔は何も聞かなかった。善次郎が言葉にするまで、待つ。
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外采棟に戻った。
控え詰め所の壁際にある法石棚の横を通った。外采使が持ち帰った法石を一時保管する棚だ。法石は八つ。空の仕切りが目立つ。朔は棚が大きすぎるのだろうと思い、通り過ぎた。
食堂で灯し飯を食べた。粟飯と根菜の汁物。蓮が「今日は芋が多い」と上機嫌だった。善次郎は黙って食べ、黙って膳を片付けて、外に出た。
食後、朔は外采棟の裏手に出た。
井戸で水を汲もうと桶を下ろす。縄を繰る。巻き数が多い気がした。
桶が水面を打ち、朔は縄を引いた。柄杓で掬って飲む。
善次郎が外采棟の裏手にいた。壁に背をつけて夜空を見上げている。手の中で何か転がしていた。七位の法石だろう。薄い月明かりに、法石の表面がかすかに光った。
善次郎は振り返らなかった。朔も声をかけなかった。
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寝台の上で、朔は走り書きを広げた。
今日と昨日——二日間で書き足した内容を見返す。穢れに反応する素材の候補。可逆性の条件。連続記録の壁。玄外に次に持っていく問いの輪郭が、少しずつ見えてきている。
走り書きの端に、目が止まった。昨日、鍛錬場で書き足した一行。
「法力の通り道。入口から出口へ。絞るのではなく、通過させる」
凌のあの一振り。音が消えた一太刀。法力を溜め込まずに通過させたとき、刃は木を「叩く」のではなく「斬った」。凌自身はまだ再現できていない。だが——あの断面は本物だった。
朔は凌の剣に口を出すつもりはなかった。剣の道は凌のものだ。だが朔にもできることがある。凌が「もっと強い刀が要る」と言ったとき——法力の通過効率を刀身の設計で支えられるなら。練刀ではなく、凌の法力特性に合った刀を。
まだ遠い。ただの走り書きの端の一行だ。
朔は感光紙を裏返して、穢れ灯の設計の覚え書きの続きに戻った。
外采棟を出ると、夜の道に足音がある。善次郎の歩幅は朔よりも一歩大きくて、朔が二歩半のところを善次郎は二歩で歩く。食堂の方から凌が石畳を踏む重い音が聞こえ、蓮が入口で手を振っていた。
自分の足音が聞こえる。
虎太郎の足音はもう横にない。代わりに善次郎と凌と蓮の足音がある。灰色の土に刻む、自分だけの跡。まだ浅い。風が吹けば消える痕だけれど——毎日歩けば、少しずつ深くなる。
朔は少しだけ歩調を上げた。




