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愛とおもてなしの山ガール(前編)

「山ガールを恐れてはいけない。もしも君がどこかの会社で働く若いサラリーマンで、山ガールと出会うことがあったなら、この忠告を決して忘れちゃいけない。そう、僕たちは山ガールから逃げてはならないのだ。どんなことがあっても。それは身の破滅を意味する。

しかしそうかといって、彼女たちに優しくし過ぎるのも良くない。それはまたべつの意味で破滅を招くことになる。

一番いいのは、執事にでもなったように彼女たちに接することだ。森で熊と遭遇してしまったみたいに山ガールと出会ってしまったなら、地上では彼女の執事に、山では彼女のガイドに徹するべきなのだ。それが僕が君たちに教えてやれるギリギリの範囲だ」(あるおもてなしサラリーマンAの証言)

「もし君が山ガールによって選ばれたとしても、おもてなしサラリーマンになるかどうかの判断は君の自由だ。なってもいいし、べつにならなくったっていい。それについて周囲のやじ馬がとやかく言うべきじゃない。

ただ、おもてなしサラリーマン経験者として一言だけアドバイスさせてもらえるなら、僕はやった方がいいと思う。気が進まないのは分かる。成功する可能性は低いし、失敗すれば失うものだってある。しかも相手はアンデッドだ。

でも長い目で見たなら、この経験はきっと君を一回りも二回りも大きな男にするはずだ。結果的に君が赤い羽根を胸に付けたおもてなしサラリーマンにはなれなかったとしてもだ」(あるおもてなしサラリーマンBの証言)


僕がはじめて山ガールを見かけたのは、仕事帰りに立ち寄った夜の書店でのことだった。

それは山ガールに間違いなかった。なにしろ古ぼけたオレンジ色のリュックを背中に担いでたし、寝巻きみたいな黄色いチェック柄の長袖のシャツを着ていたし、おまけにその裾をコットンパンツの中に激しく押し込んでいたし、コットンパンツの下には底の厚い革製の登山靴が覗いてもいたから。一言で済ませてしまえば、とにかく流行遅れでダサかったから。

そしてなにより頭には赤い羽根を脇に挿した、まるで時代遅れのチロリアンハットをかぶってもいた。今時そんな帽子をかぶるのはチロル地方からやってきた親善大使ぐらいなものだろう。

もちろん僕が立ち寄ったのはオーストリアの書店ではなく東京は中央線沿線にあるそれで、その店内でわざわざ夜中に、残業帰りの勤め人たちを目当てにしたチロル地方の観光祭りが開催されている様子はなかった。


彼女はなにをするでもなくただ書店の通路にぼんやりと突っ立っていた。本や雑誌にはいっさい関心がなさそうだった。なんのためにここにやって来たのか、それを思い出している最中みたいにも見えた。チロリアンハットの短いつばの下から、目の前に広がった新しい世界をその意味が理解できない子供のように溌剌と見つめていた。

郊外のショッピングモールみたいに広い店内にチラホラと点在する客たちは、特に関心をよせるふうでもなく、ただ彼女の脇を素通りしていった。まるで誰も彼もが、山ガールが見えてるのに見えてないふりをしているみたいに。


本来なら有名おもてなしサラリーマンの忠告に従って、僕は執事よろしく彼女に仕えるべきだったのかもしれない。広い書店に舞い降りて途方に暮れている山ガールのそばに寄り添い、一言「お嬢様、なにかお探しでしょうか?」と優しく声をかけるべきだったのかもしれない。

でも僕は他の客たちを見習って彼らと行動を共にする方を選んだ。見て見ぬ振りをして脇を素通りする方を選んだ。山ガールをはじめてその目で見たサラリーマンは誰だってビックリするし、躊躇もするだろうけど、僕は人一倍リスクには敏感な体質なのだ。

お目当ての雑誌を片手に握りしめて、脇目も振らずにカウンターにいって支払いを済ませ、自動ドアのすき間に体を滑り込ませるようにして通りへ出た。


夜の街を自宅マンションへと急ぎながら、しかし決してスーツの裾をマントみたいにたなびかせて走り出すことはせずに、自転車でパトロール中の警官から見てももとからせっかちな質に映る程度のスピードで僕は歩きつづけた。誰かから追われているかのような素ぶりはこれっぽっちも見せなかった。もしも悪い予感が事実であったとしたら、ここで走って逃げたことがバレたら、あとあとマズい状況になるぐらいの判断はついた。

僕はあくまでビジネスライクにスーツの内ポケットから携帯電話を取り出して、連絡先から実家の電話番号を選んだ。心臓をバクバクさせながら。


「本当にチロリアンハットに羽根を挿してた?」

妹は言った。7つ歳上の兄とは対照的に、携帯から聞こえる彼女の声は、歓喜と素直な驚きに満ちていた。

チロリアンハットに挿した羽根と時代遅れの登山ファッションこそは、山ガールのシンボルマークなのだ。妹はそれを正確に僕より一週間早く目撃していた。サラリーマンの兄にとっては厄介な山ガールも、彼女にしてみれば幸せを運んでくれる女神なのかもしれなかった。

「うん、挿してた。赤いの」兄は質問に答えてつづけた。「それにオレンジ色のリュックに黄色いシャツも着てたよ。お前が言ってたのとまったく同じ服装だ。ついに来たんだ、山ガールが!予告どおりに!」

「おめでとう、お兄ちゃん!」妹は言った。彼女の喜びようはどこか宗教めいていた。「なんて素晴らしいんでしょう!お兄ちゃんは私たちの誇りだわ!私たちにできることがあったらなんでも言って!」

近頃では妹は、自分のことを指すときに「私」ではなく「私たち」と言ったりする。これは『山ガール版ちょっといい話』に心酔している人たちの特徴であるのと同時に、妹が婚約中であるのが主な理由だ。ちなみにそのお相手の名は小木といって、僕と同じ歳の男だけども、彼もまた山ガール信者であり、妹と同じ市役所で働いていた。きっと二人はお似合いの夫婦になるだろう。


「そうだわ、私ブログを書くわ!」

たった今啓示を授かったように妹が言った。でもそれはきっと演技に違いなかった。

彼女は一週間前からそのアイデアに取り憑かれていたはずだ。なぜなら、おもてなしサラリーマンの近親者の女性がみんなそうしてるから。

もしかしたら妹はすでにそれ用のブログを立ち上げているかもしれない。兄が山ガールの執事になるものと決め込んで。僕はちょっと腹が立って言った。

「書くって、いったいなにを書くの?まさかサラリーマンの兄が山ガールから逃げまどう珍道中でも?僕はおもてなしサラリーマンなんてご免だよ」

「なに言ってるの?お兄ちゃんは選ばれたのよ。こんな名誉なことってあるかしら?みんながおもてなしサラリーマンを羨ましく思ってるわ。私も男に生まれ変わってサラリーマンになりたいぐらい。お兄ちゃんは不幸で孤独な女性を救うことができるんですもの!」

そうそれこそが物語の肝だ。ヤングサラリーマンが不幸な人生を歩んできた孤独な女性を救うのだ。一緒に御山に登って彼女を天国へと送り出すのだ。山ガールは現代人にとっての癒しと救済の物語だ。それに背くことは、万死に値する。


山ガールには二種類いる。健康的な山ガールと、とても健康的とは言えないアンデッドな山ガールが。

健康的な山ガールは休日に電車やバスを乗り継いで、仲間や友人たちと一緒に郊外の山々へハイキングに出かける。森にテントを張ったり、川原でバーベキューをしたりする。彼女たちの存在が僕の脅威になることはまずないし、ほとんど無関係と断言してもいい。

逆にアンデッドな山ガールは平日の街中に突然あらわれる。例えば深夜の書店とかに。決まって一人きりで、呆然と立ち尽くしている。彼女たちはゾンビではないけれど、かといって歌ったり踊ったりはしない。その存在は若いサラリーマンたちの脅威にもなるけれど、大きな名誉になることもある。確率はちょうど半々だ。

ダサいのと同じぐらいに律儀で古風でアンデッドな山ガールは、僕たちに会いにくる前に必ずその身近な女性の元へと挨拶に訪れる。ガールフレンドがいればガールフレンドの元へ、そういう存在がいなければ、母親やオバや姉妹の元へ。まるで「あなたのボーイフレンド(息子さん、お兄さん...)、お借りしますから」といった感じで。彼女ら近親の女性たちは、山ガールと若いサラリーマンとを結ぶ精神的な代理人なのだ。


ちょうど一週間前の夜、僕の妹の枕元に一人の山ガールが降り立った。時代遅れのワンダーフォーゲル部ファッションに身を包んだ二十歳きっかりの彼女は、歳下のようでありじつのところちょっとだけ歳上のようでもある寝ぼけ眼の僕の妹に向かって、南アルプスからはるばる降りてきた天使のように膝をつき、チロリアンハットのつばの下からこんなふうにささやいたらしい。

「ごめんなさいね。ちょっとの間、あなたのお兄様をお借りするわね。私の49日が来るまで」

なんでも山ガールの声の響きは透きとおるように優しかったそうだ。「お母さんの若い頃の声に似てた」というのが妹の見解だけども、それはどうも眉唾だ。

僕は山ガールの声を枕元で聞いたわけではないけども、母親の若い頃の声が透きとおるように優しかったという記憶はない。小さな頃から一人で怪獣の絵を描いたり、おばけの物語を作ったりして遊ぶのが好きだった妹は、お得意の想像力でもって作り上げた亡き母の面影を重ねて、山ガールを理想化しているのだ。

まだ幼過ぎて母親の晩年を記憶していない妹は、山ガールのいい面しか見ていない。そしてちょっと歳が離れた現実的な長男である僕は、きっと悪い面しか見ていないのだろう。山ガールは僕にとって不幸でかわいそうな女性である以上に縁起の悪いアンデッドでしかない。


そんなわけだから、妹が枕元のお告げを授かった翌日からというもの、僕の頭はずっと神経衰弱をしているような状態だった。最長で49日間、どこへ行くにも亡命した政治犯のように神経をとがらせて、チロリアンハットを、古びたリュックサックを、まるで秘密警察のバッヂみたいに恐れて街中で探すはめになった。山ガールは神出鬼没で、いつ何時何処にあらわれるか分からない。

通勤電車に乗るたびに、無人島で魚をモリで突きながら生活ができたらどれだけいいだろうと考えた。無人島が無理なら砂漠でもいい。

街角に、駅のプラットホームに、店のショーウィンドーの奥に、いたるところにリュックを背負った山ガール予備軍が潜んでいた。それこそ無数に。僕はそのたびに寿命を縮める思いで彼女たちの頭に目をやったり、時にその後を尾行したりもした。そのせいで午後からの大事な会議に何度も遅刻しそうになった。

ただ幸いその中に羽根を挿したチロリアンハットをかぶった女性は一人も見当たらなかった。僕はワイシャツの上から胸を撫で下ろして、アンデッドな山ガールがこのままあらわれないことを願って止まなかった。


噂ではそういうことが稀にあるらしかった。途中で抜き差しならぬ事情の変化でもあったのか、あるいは他のサラリーマンに気が移ったのか、枕元に立ったのはいいけれど、それっきり姿を見せずに、なにも起きないまま肝心の49日目の日を迎えてしまうケースが。

しかし噂はあくまで噂。そんな日が3日4日と過ぎて、これはもしかするともしかするんじゃないかと、しだいに淡い期待に胸を膨らませながら、ようやく数えて一週間目の神経衰弱の日を終えようとしていた時だった。僕は出会ってしまったわけだ。赤い羽根を脇に挿したチロリアンハットに。

どうしてその夜にかぎって本屋なんかに立ち寄ってしまったのだろう。雑誌なら近所のコンビニでだって買えたのに。一週間が過ぎて、つい気が緩んでしまったのだろうか。


それでも僕はまだ諦めてはいなかった。どう考えても勝算はなさそうだったけど、万に一つの確率に賭けてみた。

つまり僕は深夜の書店で目撃した彼女の存在を、ただの偶然だと思うことにしたのだ。彼女はたまたまパジャマみたいな黄色いチェック柄のシャツを着て、たまたま書店に入り、たまたまチロリアンハットに赤い羽根を挿していたのだと。

妹の枕元での一件から考えて、その確率は圧倒的に低いけども、まったくゼロではない。だから偶然の女神に向かってこれ以上ないくらいに最上級の愛想笑いを振りまくことにした。

でも偶然の女神は、あるいは僕の愛想笑いは、圧倒的に役立たずだった。だって書店で出会ったばかりだというのに、その翌朝には駅の改札の雑踏の中で、僕は赤い羽根を脇に挿した、まったく同じチロリアンハットを目撃し、昼には会社近くの交差点で運命的にすれ違い、夜には念には念を入れてわざわざ一つ手前の駅で電車を降りたというのに、オレンジ色のリュックを背負った彼女は、反対側のプラットホームに立ってこちらのホームを見つめていたのだから。


噂では山ガールの年齢はすべて二十歳ということになっていた。彼女たちはつかの間の二十歳をふたたび生きている。

でも僕が夜のプラットフォームで再会した山ガールは二十歳には見えなかった。あるいは二十歳だけには見えなかったと言うべきか。チロリアンハットの下から覗いた彼女の顔は、子供のようでもあり、中年のようでもあったけども、決して二十歳ではなかった。少なくとも僕はそう感じた。

背は低く小太りで、年齢に不相応なお下げ髪を二つに結んでいた。黄色いチェックのシャツはワンサイズかツーサイズ小さ過ぎるように見えた。全体的に言って、ゾンビよりはずっとマシだったけど、やっぱり一緒にハイキングに誘いたくなるようなタイプではなかった。

もしかしたらただ単に不機嫌なだけだったのかもしれないけど、その変化に乏しい表情から人間的な感情を読み取るのはかなり困難だった。

あるいはそれこそが山ガールのもう一つの特徴なのかもしれない。アンデッドであるからこその。こんな言い方が許されるなら、人が持っている個性とは、その人の生そのものに由来するのかもしれない。それは命が失われた瞬間にその人の顔の表面からするりとすべり落ちていってしまうものなのかもしれない。

そして彼女のその顔にふたたび人間的な表情をとりもどすことこそが、おもてなしサラリーマンの使命なのだ。


ゾンビよりはずっとマシなのはよく分かったけど、それでも僕が山ガールの執事になることはやはりなかった。自分が置かれた理不尽な状況をどうしても受け入れることができなかった。

僕は彼女の存在を無視し、決して目を合わせず、通り過ぎ、あるいは逆方向へと、歩いていった。最初から最後まで偶然という名のぶ厚い鎧で身を守り、それを脱ぎ捨てることなく家路へと着いた。

同じような境遇のサラリーマンをこれまで何度か目撃したことがある。会社員らしい若い男がスーツの裾を揺らしながら、日中の地下道などを慌てて通り過ぎて行く姿を。いったい何事かと振り返ると、彼がやって来た方向にはチロリアンハットをかぶった一人の女性が黙って突っ立っているのだ。

そのときの僕はいく分か寒気を感じつつ、去って行く男の背中に向かって、ただ「お気の毒」と心の中でお悔やみをつぶやき、彼が無事山ガールから逃げ果せることを願っただけだろうけども、今度はそっくりそのまま自分がそのお悔やみの言葉をかけられる立場になったわけだ。

妹の婚約者から電話がかかってきたのはその日の夜のことだった。


「こんばんは、お義兄さん。ご無沙汰してます。今夜は一公務員としてお義兄さんにお話があるんです」

小木は言った。もともと個人の彼に興味はなかったけど、公務員の彼にはなおさらそうだった。だからさっそく電話を切りたい心境だった。

小木は飄々としていながらズケズケとものを言うタイプの男だった。それが僕だけには同い歳なのに、しかも実の兄弟でもないのに、弟である自分の方が早く結婚を決めてしまって申し訳ないみたいな、見当違いな腰の低さを黒縁メガネの下から覗かせることがよくあった。

なんでも学生時代には長距離走の選手で実業団からの誘いもあったらしいのだけど、公務員試験に受からなかったら真剣にお笑い芸人になることを考えて、密かに関西移住を計画していたというのがなぜか自慢の口癖らしかった。

僕は部屋でコンビニ弁当を箸でつつきながら、場合によっては彼が出演していたかもしれないバラエティ番組を眺めていた。実際の小木は、残業時間の市役所から僕に電話をかけている。周囲に気の抜けない同僚でもいるのか、それともまた見当違いな気遣いを発揮しているのか、小木の声はヤケに神妙だった。

でも今回ばかりは、そうするのに充分な理由があったようだ。だからわざわざ公務員として話があると断ったのだ。そうでなければきっと僕はご自慢のほら話がはじまったと、ハナから決めてかかっていただろう。

小木の声はなんだか僕と親父の前で、妹との婚約話を持ち出したときみたいだった。

「本日、お義兄さんがお住まいの杉並区役所の担当窓口から電話があったんです。それが政子さんのご遺族の希望で、ぜひ義理の弟である私に、お義兄さんとご遺族との交渉窓口になってもらいたいというお話だったんです」


正直、僕は二人の婚約話を聞かされたときより驚いた。あまりのことでなにがなんだか分からなかった。

「政子さんて誰?」

「山ガールです。お義兄さんの」

ようやく点と点が結ばれた。そうなるのに時間はかからなかった。山ガールの遺族とおもてなしサラリーマンの公式な窓口になるのは、彼女が生前籍を置いていた地域の住民課なのだ。

そんなわけで、今度は僕の方がほら話をはじめなければならなかった。

「僕の山ガールなんてこの世に存在しないよ」

「お義兄さん、あなたのそういう態度が、事態を複雑にしてしいるとお思いになったことはありませか?」

小木のメガネの黒縁がピカリと光ったような気がした。


「政子さんは先週、心不全でお亡くなりになりました。72歳でした。東京は新宿のお生れで、25の歳に都内で喫茶店経営をしている男性と結ばれ、一男一女の子宝に恵まれています。今回、杉並区役所を通じ、私に交渉窓口を依頼されましたのは、その喫茶店経営を継いでらっしゃる息子さん夫婦なんですが、お聞きした話によりますと、なんでも生前のお父様は大変女癖の悪い方だったようで、店のカウンターに立ってはコーヒーを煎れる傍ら、ちょくちょく店に通う女性客やアルバイトの女性にちょっかいを出していたようなんです。それで政子さんは生来とても苦労されたそうです」

そのドスケベ経営者と、あるいは政子さんの幸薄い人生と、僕となんの関係があるのか?そのオヤジがじつは僕の本当の父親だったとでも言うのか?

思わずそんなバカ話が口に出そうになったけども、そういった反応はすでに織り込み済みだろうからやめにした。小木はこちらの様子を探りながらつづけた。

「息子さん夫婦は、お母様の政子さんがなにより健やかな気持ちで、なんの心残りも後悔もなく、49日を終えて無事に天国に召されることを希望しています」

「他人の家族の話なんてどうでもいいよ。それより君だってまだ正確には義理の弟じゃないからな。赤の他人のはずだ」

「ごもっともです。ですけどお義兄さん、感じませんか?みんなが心を一つにして、どうにか政子さんの新たな門出を晴々とした気持ちで送り出してあげようとしているのを」

「ああ、感じるよ。赤の他人のサラリーマンには荷が重過ぎるぐらいに」


そのあと僕は反撃に出た。おもてなしサラリーマンが被った数々の伝説を電話の小木に向かって披露してみた。

山ガールに気に入ってもらえずにおもてなしに失敗し、ついに笑顔をとりもどすことなく現生の怨み辛みを消し去ることができなかった山ガールは、天国へ召されずに霊となって地上をさ迷うことになる。

ある者はその山ガールの霊にとり憑かれてノイローゼになり、ある者は友人の信頼を失い、ある者はギャンブルやアルコールに溺れ、それから失恋、失職、失踪と......。

これらおもてなしサラリーマンの悲劇は、山ガールの呪いと呼ばれ、若いサラリーマンたちを恐怖させていた。一種の都市伝説ではあるけど、僕たちをしておもてなしサラリーマンになることを躊躇させるのには充分な説得力を持っていた。いったいどこの誰がそんなリスクのある可能性を犯してまで、見ず知らずのアンデッドな山ガールをあの世に送り出そうとするだろうか。

けれど僕の電話でのプレゼンテーションは大して効果がなかった。それもそのはずで、おもてなしサラリーマンの悲劇の前には、それに対抗するもう一つの都市伝説が常に立ちふさがっているからだ。つまり見事に山ガールの信頼と愛情を勝ち取り、彼女たちの手からそのチロリアンハットに挿した赤いシンボルを譲り受けた、伝説の勇敢で心優しい赤い羽根のおもてなしサラリーマンたちが。


「お義兄さんは今まさに愛美さんの信頼を失おうとしています」

小木は自身の婚約者でもある僕の妹の名前をあげて脅しにかかった。

「知っていますか?妹の愛美さんは、お義兄さんと政子さんのために、ブログで毎日一つずつ物語を書こうと決めて張り切っていたんですよ。自分を犠牲にして、不幸な政子さんを天国へ送りとどけようとしているお義兄さんの力になりたくて。その物語を政子さんに読んでもらって、少しでも彼女の心が癒せればと希望していたんですよ」

そりゃ本当にそうなればいいけども、逆のパターンの可能性だってありえるのではないか?僕は思った。つまり政子さんがまったく妹がこしらえた物語を気に入らないというケースが。

そうなった場合、じつの兄でもあるおもてなしサラリーマンの僕の立場は、益々危ういものになってしまわないだろうか?


でもそんな心配を口にしたら、火に油を注ぐ結果になっただろう。だってそれはまぎれもなく美談なのだから。ちょっといい話なのだから。

小木はそのちょっといい話のつづきを語りはじめた。

「こんなこと私だって言いたくはないんです。でもお義兄さんは、かつてお母様を失い、最近ではシンガーソングライター志望のロングヘアの恋人を失い、さらに自ら進んで山ガールを失い、そして今度は大事な家族である妹さんまで失おうとしているんです」

ちょっといい話は身内の暴露話へと急展開した。

いったいどこから情報が漏れたのか。シンガーソングライター志望のガールフレンドの存在は妹だって知らないはずだった。それがよりによってどうして小木の奴が、僕がふられたことまで、彼女がロングヘアであることまで、知っているのだろうか。

限られた時間で考えを巡らし、コンビニ弁当の栄養分をすべて脳へと送り、一見関係なさそうなものとものとを線で結んでたどってゆくと、唯一考えられる発信源は、政子さんの遺族である喫茶店一族だった。


もっとも喫茶店経営というのは表向きの道楽稼業で、実際には駐車場経営や不動産関係まで手広くやっている一族なのだろう。そして彼らは金にものをいわせ、興信所を雇って僕の身辺調査をしたわけだ。まるで一族の箱入り娘が契りを結んでしまった、どこかの馬の骨の素性を洗い出すみたいに。

しかしどうしてそれを打算的な小木がわざとらしく口にするのか。まさか......。

「お義兄さん、今こそ愛美さんとヒトミさんの愛情を取り戻すときです」

小木はついに妹と元ガールフレンドの名前を並べて言った。

それはあらかじめ考え抜かれた決めゼリフだったのに違いない。もしかしたら小木は、妹から婚約解消の文字をちらつかされ、最初から猛烈にハッパをかけられていたのかもしれない。

もしそうだったとしたら、妹と小木の家族愛をめぐる計画は見事に功を奏したわけだ。僕が赤い羽根を手に入れられるかどうかはまだ分からないけど、少なくともそっちの羽根の方は打算仕掛けな僕のハートに突き刺さったから。

人というのは自分にメリットがないときには行動に出にくい生き物なのだ。


なんだか僕は、これで小木と兄弟の契りを交わしてしまったかのようだった。しかもその契約内容はじつによくできていた。

翌朝になると、よく晴れた通勤途中の道すがら、早速の祝電が妹からとどいた。

「おはよう、お兄様!忙しい朝の最中だとは思うけどこれだけは言われて!」

妹は生来夢見がちなタイプだったけど、それでも彼女からお兄様なんて呼ばれたのははじめてだった。

「お兄様は私たち家族全員の誇りよ!天国のお母さんもきっと祝福しているわ!政子さんに会ったらよろしく伝えて!愛してるわ!健やかなれ、お兄様、私たちみんなの!」

愛してるなんて言われたのもはじめてだ。彼女は喋りたいことだけ喋ると、怒涛のように一方的に電話を切った。

それからオフィスに着いたなら、今度はロマンスグレーの口ひげをたくわえたボスが、周囲に気づかれないようにそれとなくデスクにいる僕の肩に手を置いた。

しかしその手の力の入りようが尋常ではなかった。しかもアイロンのスチームをあてられたみたいにじっとり湿って熱があった。

おそらく区役所からなにかしらの連絡があったのだろう。あなたのオフィスにいる若い雇い人の中に、おもてなしサラリーマンに選ばれた方がいらっしゃいますとか。その方に無条件で一月分の有給休暇をさしあげてくださいとか。

さらに夕方の5時を過ぎると、僕をフってバンドのベースマンの元に走ったシンガーソングライター志望のロングヘアの元恋人からメールがとどいた。よかったら49日後に一緒に食事がしたいと書かれていた。「あなたの力でかわいそうな山ガールの女性を天国に送ってあげて」とも書かれていた。「あなたの山ガールのためにお別れの応援ソングを作りはじめたの」とも書かれていた。しかも「一日一曲、出来上がったら動画のメールで送るね」とも。彼女が僕のために曲を作ったことなんて、二人が付き合っていた頃でさえ一音符すらなかったのに。


そんなふうに僕のおもてなしサラリーマンライフは華々しくスタートするはずだった。なにしろ僕のもとには、新しい歌と物語が、花や焼きたてのパンのごとく毎日とどけられるのだ。

けれど現実にはそう上手くはいかなかった。その門出の日、じつは僕はスタートからつまずいていた。なぜだかその日にかぎって、山ガールはどこにも姿を見せていなかった。昨日はこちらが行く場所に必ず先回りしては僕を恐怖のどん底へと陥れていたのに、今朝になってみると、政子さんの姿はどこかに消えてしまっていたのだ。

僕はある不安を胸に、オフィスを出て仕事そっちのけに街をさ迷った。チロリアンハットをかぶって古びれたリュックを背負った、ちょっと小太りな二十歳の女性を捜して。

ある不安というのは、そう山ガールの心変わりだ。噂ではたまにそういうことがあるらしい。山ガールと秋の空みたいに。脈がないと見るや、さっさとほかのおもてなしサラリーマンに鞍替えしてしまう、とっても秋の空な山ガールが。

そして仮に政子さんがその秋の空山ガールだったとしても、僕には彼女を非難することはまったくできないわけだ。なぜなら彼女は自ら僕のもとへやって来てくれ、何度もアプローチして、それを僕はことごとく無視したわけだから。


光の中で、影の下で、街行く山ガール予備軍のあとを何人も追いかけた。あれだけ避けていたのに、僕はついに山ガール予備軍のストーカーへと身を落とすはめになった。

バチが当たったのかもしれない。いいやきっとそうだろう。僕の脳裏には黙々とパソコンのキーボードを叩く妹と、アコースティックギターを奏でながら試行錯誤する元恋人との姿が交互にフラッシュバックされ、その間を埋めるようにしてリュックを背負った政子さんの幻覚が瞬間的に何度も立ち上がってくるのだった。

けれども本物の政子さんだけはあらわれなかった。はじめて彼女と出会った中央線沿いの書店で閉店間際まで粘ってみたけども無駄骨だった。

追い出されるように店を出た僕は、今度は深夜の街をさ迷いながら、公共の窓口に電話をかけた。なにかしらの情報を求めて。けれど小木の携帯はどういうわけかずっと留守電になっていた。僕は最後の最後に「政子さんがいないんだ。なにか心当たりはないか?」とメッセージを入れて電話を切った。


「目を覚ませ、朝だ」

男の声が聞こえた。警官かと思った。そうでなければ親切な宿無しか。慣れない場所で寝起きしたせいか、意識がどこか宙に浮いているかのようだった。外国になんて行ったことはなかったけど、時差ボケになったらこんな感じだろうと思った。頭の中で霧が立ち込めているみたいだった。

疲れ果てて捜すのをあきらめた僕は、家には帰らずに、ふたたび政子さんの方からやって来てくれる淡い望みを抱いて、駅ロータリーのベンチの上で一晩野宿したのだ。彼女が僕の体を揺り動かして起こしてくれる夢を見ながら。

けれど僕を起こしてくれたのは二十歳の山ガールではなかった。そして警官でも親切な宿無しでもなかった。男はつづけた。

「目を覚ませ。大切な朝になるぞ、おもてなしサラリーマン」

「僕の山ガールが消えたんだ...」

寝言のように僕はつぶやいた。

「山ガールは消えたりしないさ。君の山ガールは君をいつもの駅のプラットホームで待ってるはずだ」

「え...」

「信じるんだ。山ガールを。心の底から。そうすれば彼女はきっとあらわれる」

「あなたは...」

僕は薄目を開いて男を見上げた。眩しい朝日を背に浴びて立っている、大きな黒い人影が見えた。白いワイシャツを着ているようだった。その胸元のポケットに赤い羽根が挿さっていた。

その羽根だけが色を持っていて、鮮やかな色彩でもって僕の瞼をこじ開けた。羽根は男の胸から飛び出してきた真っ赤な心臓のようでもあり、燃え盛る太陽の火柱のようにも見えた。

「あなたは、もしかしたら伝説のおもてなしサラリーマンAではありませんか?」

僕はぼんやり尋ねた。男は笑って答えた。

「いいや、僕はBの方さ」


(つづく)


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