愛とおもてなしの山ガール(後編)
東京にだって空はあるし、海だってある。それに山だって。
僕が毎日乗っている中央線はその東京郊外に位置した、なだらかな標高のT山と繋がっていて、天気のいい休日の朝ともなれば近郊の下りプラットホームはリュックサックを背負った老若男女の行楽客で毎週のように賑わう。
でもそれはあくまで休日の話。平日の朝にそこに立っているのは、たとえ下りホームであってもやはりスーツ姿のサラリーマンや制服姿の学生たちばかりだ。
そんな平日の朝に、少し離れた場所から下りホームを見渡して、僕は一人の山ガールを見つけ出そうとしている。
ただ彼女はそう簡単には正体をあらわしそうにない。僕が捜している山ガールは、昨日今日買ったばかりの真新しいリュックサックを背負っているような、そんじょそこらの山ガールとはわけが違う。それは生きるか死ぬかの、天使か悪魔の、山ガールなのだ。
もしかしたら彼女は、サラリーマンや学生たちの間に彼らの友達のフリをして隠れているかもしれない。広告看板のポスターの中に癒し系キャラとして紛れ込んでいるかもしれない。あるいはちょっと古風な女子高生になりすまして、変幻自在に隠れているのかもしれない。
もちろん僕だってこんな馬鹿げた話、おもてなしサラリーマンBから直接聞かされてなかったら到底信じてはいなかったろう。たぶん朝のロータリーの隅っこにそっと捨てていったはずだ。
もしかしたら彼はおもてなしサラリーマンBではなく、やっぱりおもてなしサラリーマンAだったのかもしれない。いいやそれよりも彼こそ僕が捜していた山ガールだったのかもしれない。どんな可能性だってあり得る。おもてなしワールドでは。
あるいはおもてなしサラリーマンBは存在しないのかも。それからAも。彼らはおもてなしサラリーマンに選ばれたばかりの新参者たちが、ロータリーで朝焼けの光と駅前の空気とを材料に作り上げた幻想のスーパーサラリーマンなのだ。彼らAとBは、きっと僕たち凡庸なるヤングサラリーマンの前に一度だけあらわれる。
混乱した頭を抱えたままロータリーのベンチを起きあがり、僕は朝焼けの空に予言を見い出したサラリーマンとなって、通勤時間で混雑する駅の自動改札機を抜けた。
駅には上り方向と下り方向の二つの長いプラットホームがあった。毎朝のように上りホームを利用している僕がそちらに向かうのは当然だった。山ガールは恐らくそんな僕の姿を見ていたのに違いない。反対側の下りプラットホームのどこからか。
そして今度は僕が彼女の姿を見つけ出す番だ。どうしてこんな面倒なことするのかよく分からないけど、この手順こそがおもてなしサラリーマンと山ガールとの契約なのだ。お互いがお互いを発見する。
僕の瞼の裏に彼女の姿は知らず知らずのうちに焼き付いていた。リュックを背負ってプラットホームの真ん中に立つ彼女の姿を、僕は簡単に、そして完璧に、映し出すことができた。これまで山ガールがとってきた謎の行動の意味がようやく理解できたような気がした。
つまりはこういうことなのだ。僕の記憶が山ガールを創造する。朝の上りホームに立って瞼をきつく閉じ、その裏をキャンバスにして政子さんの姿を思い描く。彼女の黄色いチェック柄のシャツを、背中に背負った古びれたオレンジ色のリュックサックを、赤い羽根を挿したツバの短いチロリアンハットを、そして仏頂面したその丸顔を。
やがて周囲がざわつきはじめる。OLが短い悲鳴を上げ、僕と同世代の若いサラリーマンが驚嘆の声をあげる。
ただ彼らの反応は瞳を閉じている僕が聞いていても厳かなものではある。パニックには程遠い。でもそれが逆に政子さんの登場を僕に確信させてくれる。山ガールに耳をつんざくような悲鳴や修羅場は似合わない。とくに政子さんには。
恐らく今まさに反対側のプラットホームの真ん中では、一人の山ガールが誕生しようとしていているところなのだ。
政子さんは周囲から必要な粒子を集めては猛スピードで実体化していくのに忙しい。彼女の体は、僕の瞼からスクリーンに投影された古いSF映画のホログラムのようにまだ若干透けてはいるけども、その足下の影が黒々と染まっていくごとに、たとえこちらからは見えなくても僕は彼女が政子さんであることを確信する。その無表情な瞳はすでに真っ直ぐ僕に向かって投げかけられている。
プラットホームの乗客たちの視線は予期せぬ朝の山ガール実体化ショーにさぞや右往左往していることだろう。僕は駅のアナウンスを聞いてようやく瞼を開ける。そのアナウンスは間もなく下り電車がホームに入ってくることを告げているはずだ。
プラットホームを繋ぐ階段を駆け上がり、そして駆け下りた僕は、そこに政子さんの姿をようやく再発見する。僕自身が創り上げた二十歳の山ガールを。彼女はリュックサックのショルダーを両手で握って、階段から降りてくる僕をひっそり待っている。まるで最初からこうなることを知ってたみたいに。
政子さんの丸い肩ごしに、下り電車の先頭が小さく見える。僕と電車は政子さんを中心点に距離を縮めてゆく。僕たちが共に乗るはずの黄色いおもてなし電車。だが、その輪郭が徐々に大きくなるのにしたがって、政子さんの姿が揺らぎはじめる。電波の悪いホログラムみたいに。ノイズが彼女の体を分断する。詰めが甘かったのか、それともおもてなしサラリーマンとしての僕の想像力が未熟だったのか。
解像度が下がってゆく政子さんホログラムはついにモザイク化しはじめ、僕の目の前で周囲の風景と同化しようとする。政子さんを構成している一つ一つのパズルめいたパーツが、駅の柱や広告の看板や行き交う人々のパーツへと置き換えられてゆく。僕はホームに立ち尽くして、それを呆然と見つめている。
最後に見たのはプラズマのような発光だった。大昔の電球よろしく、政子さんは眩しい光を内部から放射して盛大に炸裂した。ただその内部崩壊は爆音もガラスの破片めいたモザイクの一片も周囲に落とすことはなかった。新星の爆発のように、政子さんは無音のまま四方八方へと百個の光の粒子となって飛び散っていき、それっきり跡形もなく消えてしまったのだ。僕の心の中に小さなブラックホールを形成して。
電車がプラットホームに警笛を鳴らしながら入ってきた。政子さん実体化ショーを目撃したはずのサラリーマンやOLたちが、何事もなかったかのようにゾロゾロそれに乗り込んでいった。まるでプラットホームのおかしなパーティーはこれでおしまい、とでもいうように。
押しかかる自分の重力に身動きがとれずに立ち尽くす僕は、パーティーの潮時を読み違った男であり、またそれがまだ終わっていないと強く主張する男のようでもあった。
翌日も朝早くから駅のプラットホームに立ってはみた。下りホームへ向けて、お得意のホログラムビームを放射してもみた。
でもやっぱりダメだった。宙に散った百人の政子さんは二度ともとにはもどらなかった。時間ギリギリのところで、いつもの上り電車に乗って出社することにした。
やはり三行半を突きつけられたのだろうか。最後の最後に僕は政子さんにフラれてしまったのだろうか。だとしたら、この緊急事態に僕はどう対処すべきなのか。
オフィスにいても頭に浮かんでくるのはそのことばかり。ロマンスグレーのボスは、どうしておもてなしサラリーマンのお前がここにいる?みたいな視線をこちらに向けるし、こうしている間にも妹は僕と政子さんのために物語を作り、元カノはギターを抱えながら作曲活動に勤しんでいるのだ。
彼女たちに正直に話すべきだろうか。消えちゃったと。フラれちゃったと。政子さんのいない僕は、もうおもてなしサラリーマンでもなんでもないんだと。申し訳ありませんでしたと。
しかしどうしてこの僕は、わざわざフラれた報告を妹と元カノにしなければならないのか。謝罪しなければならないのか。お相手は赤の他人のアンデッドだし、歌やら物語だってべつにこちらから頼んだわけではないのだし。
いつだって正直者はバカをみる。それはおもてなしサラリーマンでも同じこと。ならばここは嘘をつきとおし、僕は政子さんによく似た若くて小太りな同僚の女性社員に頼み込んで、彼女に黄色いチェック柄のシャツを着てもらい、古びたオレンジ色のリュックを背負ってもらい、ついでに赤い羽根のついたチロリアンハットもかぶってもらうのはどうだろう。上手くいったら来たる49日には、僕は我が社の偽政子さんと御山を登ることになる。二人で同僚やお局様の陰口を叩きながら見事登山に成功した暁には、頂上で本物の山ガールにツーショットの写真を撮ってもらおう。それを証拠写真として妹と元カノに写メールで送るのだ。でもいったいなんの証拠だろう?もちろんそれは僕が甲斐性のある兄であり、もう一度寄りをもどす価値のある男だということを証明するための証拠だ。
オフィスのボスに嘘をつきとおすのは無理だとしても、日常的に顔を合わせることのない彼女たちにはそれでイケるかもしれない。それによってリーマン・ブラザーズなみに地に落ちた僕の信用が回復されるわけだ。
そんなわけで僕は政子さん御用達の山ガール衣装を買い求めるため、早速会社を抜け出してアウトドアショップへと向かった。
だがしかし、嘘をつくというのは大袈裟に言ったなら、もう一つの別の世界を創造することに等しいのかもしれない。それは必然的に神への挑戦ということになる。そして普通、人は神には勝てないものだ。
街の通りで僕は見てはならないものを見てしまった。僕が創造しようとする新たな世界をあざ笑いながら、それを一瞬にして崩壊させてしまう光景を。
それは神様よりずっとタチが悪かった。そうかといって悪魔の仕業ではなかった。それは山の頂きに建てられた教会の天井画から降りてきた、自由気ままな天使たちのようなのだ。その天使は何人もいて、みんな背中に羽根のかわりにリュックサックを付けて街を歩いている。従順な下部である男たちの手をひきながら。
本来ならば僕こそが、僕一人が、あの場所を占めていたはずだった。百人の政子さんと百人のおもてなしサラリーマン。それも白昼堂々と。政子さんは僕を捨ててほかのおもてなしサラリーマンのもとへ走っていたのだ。
彼女たちは百個に分裂した政子さんの分身たちに違いなかった。みんな赤い羽根を挿したチロリアンハットをかぶって、同じ黄色いチェック柄のシャツを着ていた。おもてなしサラリーマンたちは昨日か今朝のうちにどこかで引っ掛けてきた若いサラリーマンたちなのだろう。彼らには、どうして自分がこんな役割を負わなければならないのだろうといった、時にオフィスで見られるのと共通した義務感が、スーツのシルエットから漂っていた。
街角に立った僕は会社を抜けてきた理由もすかっかり忘れて、一昔前の六本木周辺を行き交う芸能人みたいな頻度で目の前を通り過ぎてゆくおもてなしカップルを呆然と見つめていた。そしてふとある考えが頭を過った。
もしやこの状況は、生前には夫の浮気に度々泣かされていたという政子さんの怨念が、今まさに暴発して発生したものではなかろうか、と。何十年に一度大発生するなにかの生き物みたいに。
もしそうだったなら、彼女が僕みたいな甲斐性なしのおもてなしサラリーマン一人に満足できるはずがなかったのはごもっともな話、まったくの必然だったのだ。彼女には百人に分裂して、百人の若いサラリーマンを引き連れて街を練り歩くアンデッドな特権があったわけだ。
一番目のおもてなしカップルは手を繋いでとんかつ屋から出てきた。二番目のおもてなしカップルは同じようにラーメン屋に入っていった。そして三番目は牛丼屋から出てきた。
自分でも気づかないままに、いつの間にか僕は二人の跡を尾けていた。手を繋いだおもてなしカップルの跡を。正確に言ったなら、おもてなしカップルの跡を尾けている野次馬たちの跡を。
そういう人たちは多勢いた。誰も彼もが携帯電話片手におもてなしカップルを追いかけては、パパラッチみたいにシャッターを切っていた。政子さんはそれでもどこ吹く風といった感じだったけど、おもてなしサラリーマンたちの顔が一様に月曜日の朝のように冴えないのは、そのせいもありそうだった。
そんな彼ら若きサラリーマンたちの憂鬱はすでにネット上で現実のものとなっていた。街の野次馬たちは撮った写真を次々にSNSにアップしていたから。彼らのせいで百人の政子さんと百人のおもてなしサラリーマンは、期せずしてすでに街の有名人になっていた。
百分の一の政子さんは扉を開けてガラス張りの喫茶店に入っていった。窓際のテーブルに着いた彼女とおもてなしサラリーマンを、野次馬たちが通りから見物していた。
僕は歩道のガードレールに腰掛けて情報収集に励んだ。それによると、どうやら政子さんたちはせっせと街の通りを練り歩いては、飲食店の食べ歩きしているらしかった。
ただし食べるのはおもてなしサラリーマンの方だけ。なぜならそれが政子さんへの〈おもてなし〉だから。食べることそれ自体が。
まったくおかしな〈おもてなし〉だけど、政子さんの素性を知っている僕としては、それもなんとなく受け入れることができた。つまり、長らく飲食店のカウンターに立っていただろう彼女にとっては、人がものを食べている姿を眺めることこそが一つの祝福なのだ。もしかしたら最大の歓びですらあったかもしれない。だからこそそれが〈おもてなし〉として成立するわけだ。
悲惨なのはおもてなしサラリーマンたちだ。彼らは政子さんが手を引いて入る店入る店、そこで出される料理という料理を、永遠に食べつづけなければならない。どんなに腹が膨れようと。胃が悲鳴をあげようと。政子さんの気が済むまで。それが彼女にとっての、おもてなしサラリーマンのおもてなしなのだから。
最新の正確な情報を手に入れた僕は、政子さんたちと野次馬に別れを告げ、当初の計画どおりにアウトドアショップへと向かった。
一時は挫折しかけた僕の計画だったけども、大きな壁にぶち当たることによって、却って現実化への道が見えてきた。
というのも、SNSにアップされた写真の数々を眺めた結果、そこに我が社の偽政子さんが写っていても、まったく違和感がないだろうということが推測できたのだ。チロリアンハットを深くかぶってさえいれば本物かどうかなんて誰にも見分けがつかないと。
あとは一緒に飲食店に入って、僕が食事しているところを写真に収めればいいだけだ。
帰宅途中の電車の中で僕は夢想せずにはいられない。一日の食べ歩きを終えたおもてなしサラリーマンと政子さんの別れのシーンを。彼らはどこでどうやってさよならをするのだろう。やはり駅のプラットホームで別れるのだろうか。どちらかが、どちらかの乗った電車を見送るのだろうか。もしそうだとして、政子さんはいったいどこへ帰っていくのだろう。
そんなことを考えるのは、べつに政子さんに情が移ったからではなかった。僕には具体的な情報が必要なのだ。一つの方便として。
夜になると、案の定、妹の電話番号が携帯の待ち受け画面に表示された。政子さんの親族との仲介役である男を婚約者に持ち、自分自身は政子さんのために物語を書いているという彼女が、百人の政子さん誕生の一報を嗅ぎつけるのにそう時間はかからなかったろう。
ネットで百組の政子さんとおもてなしサラリーマンの様子を目撃した妹の愛美は、まず想定外の事の成り行きに仰天し、つぎに兄の姿がそこに一つとしてないことに強い疑念を抱いたはず。どんな事情があるにしろ、本来ならば僕は見出しに一番大きく写っていなければならない身の上だから。
そんなわけで妹は、帰宅時間を待って携帯電話の僕の番号を指先で触れたのだろう。
ごもっともな展開だけども、こちらとしては言いわけは御法度だ。なにしろおもてなしサラリーマンともなれば、トンカツとラーメンと牛丼を平らげて帰ってきたばかりのはずだから。息をするのも一苦労なぐらいに満腹なはずだから。たまたまネットの写真に写ってなかったぐらいで、身内から四の五の言われるのは迷惑千万のはずだ。
「きっと明日は僕たちの写真もアップされると思うよ。なにしろ百組だからさ。パパラッチも追いかけるのが大変なんだよ」
僕はグラミー賞を受賞したロックスターみたいにわざとぶっきら棒に言った。
「そう。それならいいんだけど」
妹の言いようはなんだか不吉な預言者になったみたいだった。より重要な情報を彼女の方が持っている可能性を示してるような。それも悪い方の情報を。妹の言葉は夏の黒い雨雲みたいに、あっという間にアーチスト気取りな僕の言葉をすっぽり呑み込んでいった。
「私てっきりお兄ちゃんが政子さんにフラれたんじゃないかって心配だったの。政子さんは私のお兄ちゃんをフッて、それで百人に分裂したんじゃないかしらって」
妹の予言はさらにつづいた。
「それでお兄ちゃんはヤケになって、政子さんが身につけてる山ガール用の衣装と同じものをアウトドアショップに買いにいったんじゃないかしらって。それを同じ会社の女子社員に着せて、おもてなしサラリーマンの振りをして、あたかも本当に自分が政子さんにおもてなしをしているかのような写真をパパラッチに撮らせるんじゃないかって」
「アハハハ......バカだな、そんなことするわけないじゃないか......そんなことをしてなんの得が僕にあるんだい?」
「あるわ。だって政子さんを救うことは、私たちにとってお母様を救うことと同じでしょ?そうじゃなくて、お兄様?」
妹にお兄様と呼ばれるのはなんだか心臓に悪い。僕たちの母親はずっと心臓を患っていた。
たしかに政子さんにまつわるエトセトラは僕たち兄妹にとって母の存在とどこかしらリンクしてくるところがあるかもしれない。
でもそれはそれ。どうして衣装購入の件を妹が知ってるのか。いいや知らないで言っているのだろうか。そんな偶然があるだろうか。
もしかしたら僕は、政子さんと愛美の関係を考え直してみる必要があるのかもしれない。愛美の枕元に立った政子さんは、僕なんかよりもずっと妹と近い関係にあったのかもしれない。
しかし仮に二人の間に兄である僕の知らない特別な関係があったとしても、政子さん衣装購入の件は政子さんでさえ知りようがないはずだ。
いいや、もしかしたら知っているのかも。なにしろ向こうは百人だ。家来のおもてなしサラリーマンを入れれば二百人。どこかに僕の気がついてないネットワークがあってもおかしくはない。
「疑ったりしてごめんなさいね、お兄様。私もう誰のことも疑ったりしないわ。天国のお母様が今の私を見たらきっと悲しむもの」
「そうだね。人を疑るのはよくないね」
「お兄様、政子さんのために沢山食べて頂戴ね」
「ああ、できるだけ頑張ってみるよ」
「いいえ、そんなんじゃダメ。百人のおもてなしサラリーマンの中で一番の食いしん坊になって頂戴。約束よ。雄豚になったみたいに食って食って食いまくるの。そしたら天国のお母様もきっと喜んでくれるし、ヒトミさんだってお兄様のことを見直してくれるはずだわ」
「分かったよ。お兄ちゃん、雄豚になってみるよ」
「約束よ」
「うん、約束だ」
僕は電話を切った。
明日から食費がかさみそうだった。会社の女性社員に政子さんになってもらうのにもタダというわけにはいかないだろう。それなりの額の謝礼が必要になってくる。貯金を下ろさなくては。それもこれもすべて政子さんの49日がくるまでの我慢だ。
妹の手前あんな約束をしてみたものの、僕の頭の中ではすでに政子さんのそっくりさんになってくれそうな女性社員の顔が思い浮かんでいた。ついでに彼女にもオーダーした料理を食べるのを手伝ってもらおうかしらん。店のメニューを次々に注文して二人で箸をはこんで、それをあたかも僕一人で食べているように写真に収めて、食べ切れなかった料理は申し訳ないけども残せばいい。
そんなふうに考えていた。それを週に何回か、政子さんの49日まで繰り返せばいいのだと。
けれどそうはならなかった。僕の行動はやはりなにかのネットワークによって監視されていたようなのだ。
その翌日、仕事帰りに立ち寄った会社近くの喫茶店で僕はある女性社員を待っていた。ちょっと小太りな女性社員を。彼女こそソックリ政子さんの第一候補だった。僕のスーツの内ポケットにはATMから引き落としてきたばかりの謝礼の札束が封筒に入れられ挿さっていた。
しかし急用でもできたのだろうか、いくら待てども彼女は姿をみせなかった。メールを送っても返事もこない。僕は広い店内で黒いメイド衣装のウエイトレスを呼び止め、コーヒーのお代わりを注文した。そしたらウエイトレスはコーヒーではなくナポリタンを僕のテーブルに運んできた。普通の倍の量はありそうな山盛りのナポリタンを。
「スパゲティナポリタンでございます]
「こんなの頼んでな......」
そう言い終える前にウエイトレスは忙しそうにさっさと立ち去っていった。はて、いつから『ファイトクラブ』は女性の入会を認めるようになったのだろう。銀の皿に載った山盛りのナポリタンだけが目の前に残された。
僕はそれをどうしたらいいのか分からなかった。ナポリタンは巨大な謎のように見えた。メイドのウエイトレスは離れたカウンターの傍に立って、丸い銀トレーを大型本みたいに両手に持ち、スタジアムのボールガールよろしくこちらをじっと見ている。まるでそのナポリタンを僕がどうするのか、その巨大な謎に僕がどう立ち向かうのか、確認を怠らないように。
けれど僕はウエイトレスの過度な期待は放棄して、ナポリタンはなにかお互いにとって意思の疎通の足りなさが引き起こした残念な行き違いであったことにして、あらためて彼女を呼ぶために右手をあげようとした。
その時だ。なにか見てはならないものが僕の視界の端の方を通り過ぎていったのだ。タイラー・ダーデンが勝手に編集した映画のフィルムみたいに。僕の右手はどんな状況にあっても積極的には意思表示しようとしない輩みたいに、中途半端な格好で停止した。その見てはならないものは、僕の真向かいのテーブルの席に悠々と腰を下ろしたのだ。
以前の僕だったら、なにも動揺することなんてなかったろう。それはありきたりな存在として、特にこちらの意思を表明する必要のない相手として、この瞳に映ったことだろう。
でも今は違った。彼女のかぶった帽子が、身にまとったシャツやリュックが、僕の神経を逆撫でした。それはとても無視できるような存在ではなかった。
しかも彼女は一人ではなかった。夜のビジネス街の喫茶店にはおよそ不釣合いな格好をした若い女性たちが、次々に扉を開いては店に入ってきた。彼女たちは間違った時間に間違った場所にいる間違った格好をした巫女めいていた。特に待ち合わせをしたふうでもなく、別々のテーブルの席に平然と着いた。まるで僕を取り囲むような格好で。
なにがなんだかワケが分からずに、僕は喫茶店の席で冷や汗をかき、パニックに陥りそうだったけども、漠然としたある予感に貫かれてもいた。それは彼女たちがアンデッドではないにもかかわらず、みんながそろいもそろって二十歳のうら若い女性たちなのに違いない、という予感だ。
百人の政子さんたちではなかった。アンデッドでもない。彼女たちは一人一人が別の顔をした、健全な山ガールだった。友達とキャンプしてそうな、川原でバーベキューしてそうな、そんな山ガールたちだった。かつて僕が、そんじょそこらの山ガール呼ばわりした山ガールたちだった。
その彼女たちがどういったわけか、ビジネス街にある夜の喫茶店に集結している。それぞれがなにかしらの帽子をかぶり、リュックサックも背負っているけども、彼女たちは政子さんと似ているようでどこか決定的に違う。彼女たちはみな健康そうで、その上、おしゃれですらあった。アウトドア雑誌の表紙を飾れそうなぐらいに。僕にはおしゃれな政子さんを想像することはできない。それだけはできない。彼女は僕にとって永遠に垢抜けしない二十歳の山ガールなのだ。
そんじょそこらの山ガールたちの視線が僕に集中していた。あからさまにこちらに体を向けて。なにかを待ち臨でいるように。
今一度ナポリタンに視線を落とした。テーブルに置いた携帯電話が震えだした。てっきり待ち合わせの約束をしている女性社員からの返信メールだと思って画面を覗いた。
『約束よ、忘れないで。豚になって頂戴、お兄様』
僕は自分でも気がつかないうちに、観念したかのごとくナポリタンを口に放りはじめていた。まるで妹のメールが呪文の言葉のように。そして山ガールたちが携帯を取りだして、いっせいにこちらに小さなレンズを向け出したのだ。
『ネットの写真見たわ。頑張ってるのね。見直したわ。曲ができたら送るわね。私たちのおもてなしサラリーマンへ』
元カノからそんなメールが届いたのはもう何日も前のこと。どうやら彼女の曲作りはかなり難航しているようだった。
妹が書いてるはずの物語も一度も届くことはなかった。その代わり彼女からのメールは毎日欠かさず届けられた。もしかしたら彼女が話していた物語とは、そのメールのことだったのかもしれない。その文面は物語と呼ぶには短過ぎたけども、謎っぽいところがたしかに外国の童話めいていた。
妹のメールは決まって昼食と夕食の前に僕の携帯に着信した。その時、僕は山ガールたちによって緩やかに包囲されていて、目の前のテーブルには山盛りのナポリタンをも凌駕する、ジャンボメニューが載っているのがお約束だった。
山ガールたちはどこからともなく現れた。街の通りで彼女たちの姿を見かけることはほとんどなかったけど、僕が飲食店に入ると、彼女たちはいつの間にかスウッとあとから店に入ってきて、一人ずつまわりの席を埋めていくのだ。
唯一の例外は、たまに僕が宴に嫌気をさして、逃げるように会社から真っ直ぐ家に帰ろうとする夜だった。そんな時は彼女たちの誰かが先回りして、リュックを背に暗い道端でじっと待ち伏せして僕を驚かせるのだ。哀れな輩は回れ右してふたたび夜の豚へと変身し、どこか適当なジャンボ店を探して繁華街へ出向く羽目になる。
もちろん物理的には彼女たちを拒絶することは可能だった。夜の電柱の影に誰が隠れていようと、そんなのは最終的に無視すればいいだけのことだから。でもそれだけのことがもはや僕にはできなくなっていたのだ。
僕は彼女たちの喜ぶ顔を見るのが好きだった。逆に彼女たちが塞ぐ様子は見たくなかった。
ジャンボラーメン、ジャンボ餃子、ジャンボお好み焼き、ジャンボおはぎと、それら超山盛りメニューを残さず食べ終えるたび、彼女たちは嬉しそうに、そして誇らしげに、僕を写真に収めるのだった。その喜びようははっきりと料理の量に比例していた。だからたとえどんなに時間がかかろうとも、彼女たちは僕が食べ終えるのを待っていてくれたのだ。
そして宴が終了すると、彼女たち自身は一滴の水すら口にすることなく、放心状態のおもてなしサラリーマンを一人残して一斉に店から出ていく。女ギャング団みたいに。
いつしか彼女たちそんじょそこらの山ガールの笑顔は、僕にとってかけがえのないものになっていった。日に日にその存在が大きなものへと成長していった。
それというのも彼女たちの背後に、僕は政子さんの面影を見ていたのだ。そんじょそこらの山ガールたちが微笑むとき、あの能面のような政子さんの表情もまた緩み、山ガールたちの表情が曇るとき、政子さんの顔も哀しみに包まれる。僕はそんな政子さんの顔を見たくはなかった。
だから僕は食べに食べた。それこそ一匹の雄豚になったみたいに。おもてなしサラリーマンの頂点に立ったみたいに。
以前はまだ真っ平らだったはずの僕のお腹は、今では中年男のそれのごとく見事に張り出している。メタボリックサラリーマン並に。
でも僕は自分のそんな中年腹を少しも醜いとは思わない。いいや、その曲線はむしろ妊婦のお腹のように美しく躍動していて神秘的ですらあると思う。おもてなしサラリーマンたちの出っ張ったお腹は、唯一妊婦のそれに肉薄する。
家に帰った僕は、最後の晩餐を平らげてきたばかりの自分のお腹を愛おしそうにさすり、マンションのベランダに立つ。夜空に星がいくつか見える。いよいよ明日は政子さんの49日だ。きっとよく晴れた行楽日和になることだろう。御山に登る百人の政子さんと百人のおもてなしサラリーマンたちにとってはなによりだ。彼らおもてなしサラリーマンは百本の赤い羽根を手にすることだろう。
僕はどうしたらいいだろう。一人で御山に登ろうか......。
誰かが僕を呼んでいるような気がした。夜風にのって、女性の優しいハミングが。どこかに帰っていったはずの山ガールたちがマンションの玄関前に屯って、リュックサックをこすり合わせながら木陰で歌っているのだろうか。でもそれはまったく聴いたことがない、僕の知らない歌だ。もしかしたら元カノの曲がようやく完成して、今夜になって届けられたのかもしれない。
おしまい




