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足湯下車(シーズン2)⑪

「もしかしたら私が再就職したのは、トンだブラック企業だったのかもしれない」

そんな思いが、スピードスケートのオリンピックアスリートのごとく猛烈なスピードで心の中のトラックをかけめぐっていきました。

めでたくコールセンターに再就職して初出勤したはずが、なぜか職場は小学校の校舎の中にあって、校長室の社長に呼びだされて乗った電車が到着した駅は西西荻窪という地図にも路線図にも載っていない謎の駅で、おまけにターミナルの噴水にたたずむお婆さんからは、「噴水の水を湯船に変えられたら合格よ」と、いまさらながらのように、どこをどう切りとっても無理難題としか思えない就職テストを蒸し返される始末なのです。


本来なら匙を投げて、サッサと帰りの電車に乗り込んで自宅へと引き返していたところでしょうけど、なぜだか私の心は童謡を耳にすると、暖かくなって出荷シーズンを迎えた畑の春キャベツみたいに大きくなるようです。どこかで鳴りだした祭囃子が耳に入った途端に、どうしても体の横揺れが止まらなくなってしまう古いアニメの主人公にも似て、幼い頃から耳にして育ったメロディーとリズムが身体の隅々まで染み込んでいるのです。

「ためしにつま先だけでも入れてごらんなさい。気持ちいいわよ」

私の心模様は無視して、噴水の外壁に腰掛けながらシスターXが言いました。そうして今度は、頭にパーマをあてたカラスの行水のごとく両足を泉に入れつつ、『椰子の実』を口ずさみはじめたのです。それは『夏の思い出』同様にやはり母がよく鼻唄で歌っていた、幼き日の私のレパートリーの一曲です。夏を主題に持った歌にはとくに目がないのです。


私は砂浜の波際に誘われるように、石造りの外壁に浅く腰掛けて黒のパンプスを脱ぎ捨てました。膝丈のストッキングをそこに入れて、いよいよ両足をキラキラした噴水の水面へと差し入れます。鮮やかなターミナルの緑が古い童謡のメロディーに合わせて色と光のシンクロをはじめます。

最初は様子をうかがうように、はじめて海水浴にやってきた子供の真似をして、ちょこんと足を水につけました。それから少し大胆になって、徐々に膝下まで入れていきます。やがてザラザラした噴水の底へと私の足の裏が到着します。ようやく海底にたどり着いた二隻の潜水艇よろしく。

でも問題はそこからです。初夏の日差しの下で噴水に足をつけているわけですから気持ちいいことはいいのですけど、それは足湯ではないわけです。部長お気に入りの壁の時計めく、円形をした外壁に囲まれた大量の水を、魔法使いでも、都会に残された銭湯の跡取り娘でも、温泉宿の経営者でもないのに、私はお湯に変えなければならないのです。


普通に考えたらそれは不可能です。でもどんな手品にもトリックが隠されているように、広い宇宙のどこかにブラックホールが隠されているように、私には秘策があるらしいのです。厄介なのは、シスターXがその秘策の存在を知っていて、私が知らないという事実です。だからこそテストであるわけですけど。

「数字を想像して。世界を動かす言葉のように、この世界の法則を成立させている数字を」

「それが素数であるわけですか?」

「なんでもいいです。好きな数字を頭の中に思い描くのです。ある一つの数字が浮かんだら、それがあなたのマジックナンバーになります」

「......マジックナンバー?」

「もしもあなたの中に〈数式の民〉の遺伝子が一つでも残されているなら、マジックナンバーは必ず存在します」

「一つだけ気持ちを削ぐような発言をしてもいいですか?」

私は丸時計の針が三時の方向にしめすシスターXに尋ねました。

「私、子供の頃から算数が苦手だったんです。テストで0点をとった記憶もあります」

「大丈夫です。日本に生まれた人が片言でも日本語をしゃべれるように、英語圏に生まれた人が下手でも英語をしゃべれるように、数式の民は生まれつき誰でも数字を操れます。得意不得意は関係ありません」

「マジックナンバー・ウィズ・ミー」

「マジックナンバー・ウィズ・ユー。さあ、瞳を閉じて。想像して」


天気は上機嫌なはずなのに、世界の終わりでもないのに、小鳥のさえずりはどこからも聞こえてはきません。シスターXの鼻唄もいまは止んで、ただ水のせせらぎだけがどこからか耳に入ってきます。

私はその音に同調しはじめて、小石を投げて波紋が広がっていくように、頭の中に水模様を描きはじめました。まるで〈数式の民〉ではなく、ポセイドンの子孫として生まれたみたいに。自由自在に水の動きを操れるみたいに。

当たり前と言えば、当たり前の話しです。私たちは誰もみなポセイドンの子孫です。人間の半分は水でできているからです。それでも人とチンパンジーの違いを0.1パーセントの遺伝子が決めるように、私は頭の中で0.1パーセントからなる〈数式の民〉の子孫として、ある一つの数字を想像してみました。

そうすると頭のどこかで栓が開くかのように水模様がゆっくりと流れはじめて、私の足元から噴水の中へと流れ込んでいき、想像上の水と現実の水とが混ざり合います。そして頭の中に浮かび上がってきたある一つの数字の存在が、輝ける私のマジックナンバーが、あたかも湯沸器のごとく作動して、私をとおしてあふれだした水を足元からじんわりと温めはじめるのでした。


つづく

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